中国科学説話雑識~古代中国のSF的記述~ 2「宇宙船」と「潜水艦」

 SFの嚆矢、ジュール・ヴェルヌの紡いだ物語は、異世界への冒険ということに尽きると思います。月世界、地底、海底、それまで人々が目にすることのできなかった世界への旅立ちに必要であったガジェットを科学的に描き出したことが、彼の特筆すべき特徴でしょう。中でも印象深いのは、宇宙船と潜水艦ではないでしょうか。

 今回は古代中国の物語の中から、それらを拾ってみたいと思います。なお、宇宙船などの飛行機械については、参考文献に挙げた武田雅哉氏の著作に、近代中国の物語に至るまで幅広く紹介されています。

1.宇宙船――「星への筏」と「空飛ぶ車」

 まず、有名なところでは、「貫月槎」「八月槎」というものがあります。「槎」は「筏」の同義語で、よくそのように訳されているので、ここではそれに従っていますが、私は個人的には、むしろ「丸太棒」などとした方が相応しいのではないかと思っています。

◎貫月槎  晋・王嘉『拾遺記』
 堯が位について三十年目、西海に巨大に筏が浮かんだ。筏の上には光があり、夜には明るく輝いて昼には消えた。海辺に棲む人々がその光を見ると、大きくなったり小さくなったりして、星や月が出入りしているかのようだった。筏はいつも浮かんでいて、四海をめぐり、十二年で天を一周し、一周するとまた初めに戻るという。「貫月槎」或いは「挂星槎(星に至る筏)」と呼ばれる。羽人がその筏の上に棲んでいる。先任達が露を含んで口を漱ぐと、日月の光も暗くなったしまうようである。虞(舜)と夏(禹)のときには、それが現れたとは記録されていない。しかし、海辺に暮らす人々は今もその偉容を伝えている。

 この筏は、単に羽人の乗り物であることを人々が目撃していただけではなく、人を宇宙に運んでもいるのです。

◎八月槎  晋・張華『博物志』巻10・雑説下
 古い言い伝えに次のようにある。天の川と海とは通じている。少しばかり昔、海辺に棲む人がいた。毎年八月に筏が漂着し、大変大きく、また、やって来るのも去るのも期日を違えるということがなかった。ある人が好奇心を持って、筏の上に小屋を建て、食料を蓄えて、筏に乗って去っていった。十日あまりして、太陽や月、星がぼんやりとして、昼とも夜ともつかなくなった。更に十日あまり経って、とある所に着いた。城郭があり、建物も立派であった。遠く宮中に機織り女が見え、また一人の男が牛を引いて、水辺で水を飲ませていた。牛を引く男が、やって来た人を見て驚き、どうやってここに来たのかを訪ねた。その人はつぶさに事情を述べ、ここがどこかを訪ねた。牛を引く人は「君は帰ったら蜀に行って、厳君平を訪ねなさい。そうすれば分かるでしょう。」と答えた。岸には上がらず、期日通りに帰り着いた。後に蜀に行って厳君平に尋ねると、「某年某月某日に牽牛星のところに突然星が現れた。」と言われた。年月を考えると、この人は天の川に行ったのであった。

 好奇心から、乗り込んだ人が自動運行する筏によって天界に連れて行かれてしまうという所はスリリングですが、天界での見聞が、織女が機を織り、男が牛を牽いているという、まさしく七夕伝説の実にのんびりとした風景なのは中国大陸ならではと言ったところなのでしょうか。最後で厳君平によって解説が施される所は、博識で伝説や神秘に通暁した人が謎を明らかにするという、古代中国の説話に典型的なパターンで、厳君平はあちら此方に顔を出します。そして、時代が降ると、厳君平の役どころは、この話の出典である『博物志』の著者・張華に取って代わられることになります。いずれ、張華が登場する話も紹介することになろうかと思います。
 この話は六朝時代も後半にさしかかると、西域探検で知られる漢の張騫が筏に乗って天の川に行き、織女から機織り機を押さえる石を貰って帰ったという話になって語り伝えられます。そして、唐の詩人の多くが、七夕などの詩にそのことを詠み込み、「星槎」「仙槎」とも呼ばれるこの筏を、一瞬して人を遠くへ運んでくれる幻想の乗り物として捉え、しばしば望郷の想いを託しています。
 その唐代、『洞天集』(『太平広記』巻405引)によると、この「八月槎」は歴史と伝説の彼方へと消えたのではなく、実は国家によって保管されていたということになっています。当時は「厳遵仙槎」と呼ばれていました。「厳遵」というのは、漢の時、成都から出た人で、名を「君平」と言います。そうです、「八月槎」の「厳君平」その人です。

◎厳遵仙槎 『太平広記』巻405引『洞天集』
 「厳遵仙槎」は、唐の時には麟徳殿に保管されていた。長さは五十尺(15.6m)あまり、(叩くと)金属のような音がして、堅くて虫も食わない。李徳裕(九世紀前半の宰相)が一尺あまりの細かい枝を切り取り、道教の神像を彫らせた。時々飛び去っては、また戻ってきたが、広明(880~881)年間以降無くなってしまった。「仙槎」も飛び去ってしまった。

 別の飛行機械にまつわる話ですが、これよりも古く、且つもっと国家の意図が明確に記された記録があります。しかも此方は「一本腕、三つ目、両性具有」(『山海経』)という、見るからに異星人かロボットかという外見の「奇肱国人」が登場します。

◎奇肱国  晋・張華『博物志』巻2・外国
 奇肱国の民は機械を作るのに優れていて、それで百禽を捕らえていた。また「飛車」を作り、風に乗って遠くまで行くことができた。殷・湯王の時に、西風が吹き、この飛車が豫州にやってきた。湯王は飛車を破壊して民衆に見られないようにした。十年経って東風が吹いたとき、飛車を復元して帰らせた。その国は玉門関を去ること四百里のところにある。

 両者とも、政府が未知の飛行機械を保管していたというものであり、後者では「破壊して民衆に見られないようにした」や「復元して帰らせた」など、異人との共謀、国家的陰謀のニュアンスが色濃く醸し出されています。これらを見ると、某プロデューサーが盛んにテレビで盛り上げたために、日本では異常に認知度が上がってしまったロズウェル事件に端を発する一連の騒動が、実に目新しさのないものであるというのが分かります。
 さて、「槎」と「車」のどちらがより飛びそうであるかと言われても困るところがありますが、どちらがより乗り物として洗練されているかと言えば、それはもちろん「車」でしょう。どうやら、空飛ぶ車の方が認知度は高かったようです。清代の小説などにも「空飛ぶ車」が登場しています。また、「仙人」或いは「神仙」と呼ばれる「異人」は異世界を往還し、空を飛び水に潜り、岩や壁を降り抜け、瞬間的に移動したりということを自由自在に行いますが、大抵身体一つ、或いは鳥などに乗って飛んできます。そんな彼らも、乗り物を利用する場合には、『漢武故事』や『漢武帝内伝』などに登場する西王母がそうであるように、車に乗ってくるのです。昔、「八月槎」に乗った人が目撃した織女も、唐の功臣・郭子儀の元に降臨してきたときには、「車」を利用しました。その場面を見てみましょう。

◎郭子儀  『太平広記』巻19引『神仙感遇伝』
 (郭子儀が都から兵站物資を運んで)銀州(陝西省)まで十数里のところまで帰ってきた時、日が暮れてしまった。おまけにたちまち砂嵐に遭い、荷物を守ることもできないほどで、道ばたの空き家に逃げ込み、そこに宿営すことにした。夜になって、突然あたりに真っ赤な光が溢れた。空を見上げてみると、煌びやかな幌をかけた車が見えた。中には一人の美女が、長椅子から脚を垂らして座っていた。そして天から降ってきて、此方を見下ろしていた。郭子儀は拝礼して、「今日は七月七日。きっと織女が降臨されたに相違ありません。どうか長寿富貴を賜りますよう」と祈った。

 「突然あたりに真っ赤な光が溢れた。空を見上げてみると、煌びやかな幌をかけた車が見えた。」というあたりなど、目撃報告や映画に登場する、眩い光を発して飛んでくるUFOによく似ています。しかし、織女は牽牛との逢瀬をすっぽかして、こんな事をしてよいのでしょうか。そう思って探してみると、七夕の夜には女性が織女に裁縫の上達を祈る風習があるのですが、そんな女性のものにやってくるのはまだいいとしても、天帝の言いつけとはいえ、男の所に降ってきて、その男が、「牽牛殿はどこにおられるのですか。どうしてわざわざ独りでおいでになったのですか」と尋ねると、「男女の間のことがどうして彼に関係あるでしょう。そのうえ、天の川は遠く隔たっています。彼には知る由もありませんし、知られたとしても心配することはありません」といっている例(「郭翰」出『太平広記』巻68引『霊怪集』)まであるのでした。

2.「抜宅昇天」――古代中国の「宇宙家族ロビンソン」

 さて、何も向こうからやってくるばかりではないのです。「八月槎」の場合は、やってきていた宇宙船に巻き込まれる格好で宇宙に行ってしまった、というようなパターンですが、明確な意図の元に人が巨大な乗り物に乗って旅立つという発想もちゃんとあるのです。
 先ほど、「神仙」の話を少し述べましたが、人が仙人になるとき、しばしば「白日昇天」といって天に昇って行く事例が見られます。このとき、彼らは身体一つで宙に浮き上がり、やがて姿を消してしまうのです。そんな彼らを空想科学的発想としていちいち取り上げていてはきりがありません。ですが、本来「白日昇天」などというものは仙人本人だけに可能なもの、つまりたった一人の旅たちのはずなのに、ここに、とんでもないことをやってのけた仙人が二人だけいるのです。
 一人は、唐昉(唐公房)という人で、劉宋の劉敬叔撰『異苑』の巻3・第91話(『太平広記』巻440引)「唐鼠」に「昔、仙人の唐昉が家を抜き天に昇ったとき、鶏や犬もみな連れていった。ただ鼠だけが墜落してしまい、死ななかったが腸が数寸も飛びだしてしまった。」とあります。
 もう一人は西晋(265~316)の許遜という人で、俗に「許真君」と呼ばれます。その伝記によれば、その「白日昇天」は以下のようなものであったいうことです。

◎「許真君」  『太平広記』巻14引『西山十二真君伝』
 真君は東晋の孝武帝太康二年(319)八月一日、洪州(江西省)の西山において、一家四十二人を引き連れて、家を抜いて上昇して去った。ただ石の函と薬を引く臼がそれぞれ一つずつ、車が一式、それから真君が使っていた錦の帳、それらは雲の中から元の屋敷跡に落ちてきた。土地の人はそこで、この地に「遊帳観」(道教の寺院を「観」という)を建てた。

 後者が前者を踏まえて語られたことは間違いないだろうと思われますが、一家を引き連れて家ごと天に昇ってしまうというのは、散見する限り、この二人をおいて他には見あたりません。そして、後者の許真君は、古くから信仰の対象となり、南宋(1127~1279)の頃に「浄明道」という道教教団の教祖と考えられるようになったほどの人物であったため、「抜宅昇天」と言えば、この許遜の昇天をいうほどになります。つまり、後代には「一家を引き連れて家ごと天に昇った」のは、許真君ただひとりと捉えられるようになるのです。
 それはともかく、前者は実は、死に損なった鼠が、三年して「鼠のような格好でやや長く、青黒い色をしている。腹のあたりに腸のようなようなものがくっついていて、時々抜け落ちる。別名〈易腸鼠〉」という「唐鼠」に変わったことを述べるいわば由来譚なのですが、むしろ、仙人でもないのに一緒に「天上界」に連れて行かれた家族や家畜がどうなったのか、そちらの方が気になるところです。彼らにとって見れば、まさに「ロスト・イン・スペース」の体験だったに違いないのです。残念ながら、古代中国の人々に、そんなところを語ろうなどという発想は、全く埒外のものでした。
 それにしても、「石の函、薬を引く臼、車が一式、錦の帳」を落としながらというのは、とてもではないですが万全の飛行とは言えないでしょうに、よく無事に昇天できたものです。もし墜落でもしていれば、中国奥地から宇宙船に乗ってペンギン村にやってきたツンさん一家(鳥山明『ドクター・スランプ』)の先取りになっていたことは間違いないでしょう。

3.潜水艦――始皇帝の〈ノーチラス〉号

 次に潜水艦です。此方の方はあまり事例がありません。それらしい記述を二例発見しましたが、年代にものすごい開きがでてしまいました。
 まず古い方は、四世紀末の記録で、秦の始皇帝にまつわるものです。


◎螺舟  晋・王嘉『拾遺記』巻4
 秦の始皇帝は神仙のことを好んでいた。あるとき宛渠の民が〈螺舟〉に乗ってやってきた。舟の形は巻き貝に似ていて、海底に潜行するが、水は入ってこない。一名〈淪波舟〉という。

 「巻き貝の舟」とは、やはり人間の発想には、一種の限界というか、時間や場所を超えた共通性があるようです。
 もう一例は、11世紀後半、宋代の龐元英という人の著した『文昌雑録』という書物の中に見える記述です。元豊年間(1078~1085)にある政府の高官が目撃ということです。

とある日暮れ、客人が新開湖の中にを発見した。数人で一緒に草むらの小道を進み、水辺まで行くとわずかに光が見えた。突然明るさが月のようになり、濃い霧の中でもお互いの顔が見えた。忽ち筵ほどもあるハマグリが現れた。殻の一方を水に浮かべ、もう一方は帆のように立てていた。風のように速くて、小舟が争って後を追ったが、ついに追いつけなかった。遠く離れると沈んでしまった。

 こちらは、『拾遺記』の例と違って二枚貝のような格好をしているとあります。また、全くの正体不明です。遭遇譚としては多少の信憑性があるでしょうが、話としては今ひとつ空想の面白味に欠けます。

附.謎の発光体

 これはもう、発想が科学的とか空想科学的着想とかいう問題ではなく、現実の未確認飛行物体目撃例ということになるかも知れません。「宇宙船」のおまけとして挙げておきます。
 中国史上もっとも有名なUFOの目撃例として紹介されることもあるのが、北宋の大詩人にして、「東坡肉」を生み出した食通としても知られる蘇軾(蘇東坡)の報告です。
 熙寧四年(1071)、蘇軾は杭州(浙江省)の通判(副知事)に任命され、十一月に任地に向かう途中で、今の江蘇省鎮江市付近にあった金山寺に立ち寄りました。今は陸続きになっているのですが、当時、この南朝以来の名刹は揚子江に浮かぶ島の上にあったのだそうです。先を急ごうとした蘇軾でしたが、寺僧の勧めで夕暮れの長江の風景を見物に出かけます。そして、「遊金山寺(金山寺に遊ぶ)」という詩を作りました。その後半に次のように詠まれています。

 是時江月初生魄   是の時 江月 初めて魄を生ず
 二更月落天深黑   二更 月落ちて 天 深黑なり
 江心似有炬火明   江心 炬火の明らかなるに似たり
 飛焰照山棲鳥驚   飛焰 山を照して 棲鳥 驚く
 悵然歸臥心莫識   悵然として歸臥し 心に識る莫し
 非鬼非人竟何物(*)  鬼に非ず 人に非ず 竟に何物ぞ
 江山如此不歸山   江山 此の如きに 山に歸らず
 江神見怪驚我頑   江神 怪を見わして 我が頑を驚かしむ
 我謝江神豈得已   我 江神に謝す 豈に已むを得んや
 有田不歸如江水   田有って歸らざらなや 江水の如くならん 

  *自注:是夜所見如此(是の夜の見る所 此の如し)

 「月が隠れて真っ暗闇の長江の中程に、松明のような明かりが見えたが、幽霊の仕業でも人の仕業でもなさそうである。一体何者だったのか」と述べた上で、「その夜に見たのはこのようなものであった」と自注をつけていることを見ると、どうやら誇張ではなく、実際に目撃したままを詠んだのでしょう。その光が、蘇軾には全く得体の知れないものであり、彼が少なからず恐怖を感じたのは、確かな事だと考えてよいでしょう。
 しかし、浙江あたりでは揚子江の川幅はとてつもないものですから、目撃者・蘇軾と発光体の距離はかなりあったはずです。もっと至近距離で目撃した例はないのかと見てみますと、『夷堅志』の中に、夜間に現れる発光体について述べた一篇がありました。少し長いですが、全訳を紹介しましょう。

◎夜見光景  宋・洪邁『夷堅三志』壬巻3
 江西の民間に伝わるところでは、夜間に煌々と輝く発光体が現れることがあり、それを〈鬼車〉と呼ぶのだそうだ。そして、もしもそれを見たら汚物で目を覆わなければならないのだとか。近づいて注視すると、或いは男性の、また或いは女性の姿に見えるという。ただ淮浙地方で言うところの〈九頭鳥〉ではない。
 臨川の劉彦立は二人兄弟で、母親と暮らしていた。ある夜のこと、家の裏に生えている松の上に、太陽のように円い光が現れた。地面から二丈(約6m)ほどのところに浮かんでいたが、近づくと暗くなってしまった。二人は宝物があるのだろうと思って、地面を掘り返してみた。しかし、地下水を掘り当てただけで、何も発見できず、掘るのをやめた。隣人も光を目撃していて、目を覆いながらこっそり窺い見ると、光の中には女の人の姿があり、衣服や帽子もはっきりしていたという。
 後に、黄斉賢という人が、劉彦立の家を訪ね、夜更けまで語り合ったが、雨が降ってきたので帰宅することにした。すると従僕が駆け込んできて黄斉賢に告げた。
「驚いたのなんの。突然、太陽みたいなのが前の山の山頂から三丈(約9m)ほど飛び出して、草木もはっきりと照らしだされ、もう真っ昼間みたいでした。雨が降ってくると光は消えてしまいました。」
 劉彦立は甚だ恐ろしくなり、しばらくして死んでしまった。
 黄斉賢の隣家・蔡家の召使いもかつて目撃したことがあった。太陽みたいなものが夜中に現れ、色は火のように赤かった。着地したところを犬が吠えて追い回すと、光は地面を這って逃げ、近所の曽家の玄関の所で止まり、すぐに消滅してしまった。蔡家では翌日に地面を掘り返して、石を発見した。半年もしない内に曽家では失明者がでた。
 一連の事件を見ると、この光は不吉の兆しであったのだろう。

 状況から判断すると、どうも小型の発光体であったようです。犬が追い回したりしていること、中の人の姿が目撃されていることなどからして、これは極めて至近距離での遭遇といえるでしょう。なお、これらと同種のものは、清朝でも何度か目撃されており、『点石斎画報』や『飛影閣画報』といった当時の絵入り新聞で報じられています。『飛影閣画報』が報じた例では、南京の南の空に現れた火球が、風に逆らって西から東へゆっくりと、わずかに音を発しながら飛んでいったと言うことです。
 それにしても、現代のUFO目撃報告によく似ています。現代人には、もっと想像力逞しく「報告」してほしいものです。
 さて、某TVプロデューサーの特番や、学研の某誌のようなUFO話が続きましたが、そういったものに付き物なのが、「キャトル・ミューテーション」、家畜の怪死事件です。眼球や生殖器などが切り取られ、血液もなくなっている、しかし死骸の周りには血痕も何も残っていない、というのが特徴です。宇宙人の仕業だとか、米軍の陰謀だとか騒ぐ人たちもいますが、どうやら単なる自然現象で、眼球などは鳥に食べられたものであるというのが真相のようです。大体、死骸を発見して騒いでいるだけで、宇宙人なり米軍なりの「犯行現場」を目撃した事例がないのはお話になりません。彼らは、一千年前の人にも及ばないと言うことになるでしょう。最後にそれを紹介して、締めくくりたいと思います。

◎河北軍将  唐・段成式『酉陽雑俎』巻15(小題は『太平広記』巻365による)
 工部員外郎・張周封の話である。
 今年の春に墓参りの休暇で帰り、湖城県(河南省)の宿に到着した時にこんな話を聞いた。去年の秋、河北の軍将がここを通ったことがあった。そのとき、郊外数里の所で、突然、一斗升のような旋風が起こり、常に馬の前に位置し続けた。軍将がこれをむち打つとますます大きくなり、馬の首をめぐり、たてがみは植え付けたように逆立った。軍将は恐ろしくなって馬から降りた。様子をうかがうと、たてがみは長さ数尺にも逆立ち、その中に赤い糸のように細かいものが見えた。馬はしばしば立ち上がって嘶いた。軍将が怒って、佩刀を取って払うと、風は消滅し、馬も死んでしまった。軍将が馬の腹を割いて調べると、腹の中には腸
(『酉陽雑俎』のテキストでは「傷」に作る。ここでは今村与志雄の校訂に従った)がなかった。どういう怪なのか分からなかった。

【テキストと参考文献】
張華『博物志』(《四庫筆記小説叢書》上海古籍出版社、1991年)
汪紹楹 点校『太平広記』(中華書局、1961年)
方南生 点校『酉陽雑俎』(中華書局、1981年)
何卓 点校『夷堅志』(明文書局、1994年)
李剣国『唐前志怪小説輯釈』(文史哲出版社、1987年)
高光・王小克・汪洋 主編『文白対照全訳・太平広記』(天津古籍出版社、1994年)
李宏 主編『夷堅志 全訳本』(北京燕山出版社、1997年)
小川環樹 訳注『蘇軾(上)』(岩波書店、1962年)
今村与志雄 訳注『酉陽雑俎』(平凡社、1980年、1981年)
斉濤『外星人与宇宙文明之謎』(青島出版社、1996年)
武田雅哉『飛べ!大清帝国―近代中国の幻想科学―』(リブロポート、1988年)
武田雅哉『清朝絵師呉友如の事件帖』(作品社、1998年)
武田雅哉「八月の筏―中国飛翔文学史序説」(『幻想文学』44、アトリエOCTA、1995年)
屋敷信晴「『西山十二真君伝』「許真君」の成立について」(広島中国学学会『中国学研究論集』創刊号、1998年)
呂応鐘「UFO五千年史」(中華飛碟學研究會)

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