見出し画像

《個人的まとめ》6.漢方の至宝について

日本最古の医書「医心方」

実践重視の丹波康頼

現存する日本の最古の医書は、平安時代末期の写本が残る、丹波康頼の『医心方』である。

本草学も含めて医学の全領域を網羅している『医心方』全30巻は、天元5(982)年から永観2(984)年にかけて丹波康頼によって著されたものである。基本的に隋の『諸病源候論』における病気の分類法に基づき、中国の六朝隋唐時代の医書、古代朝鮮医書など約200種の記述を引用している。これらの引用書の多くは、すでに散逸しており、『医心方』の中にのみ残されている。そのため、唐以前の中国医書の内容をうかがい知ることのできる貴重な資料となっている。

丹波康頼は、応神天皇の御世に来朝した、後漢の霊帝五代目の子孫である阿智王を先祖に持つ、帰化渡来人の家系出身である。そのためか、『医心方』には中国医学を集大成しようという姿勢とともに、食品の選別や解説などには、当時の日本の事情に合わせた記述を見ることができる。また、引用にあたっては陰陽五行説など観念的な部分の多くは省略されており、後代の「古方派」にも通じる実用性を優先した態度が見て取れる。
『医心方』は永観2年に円融上皇に献上され、その功績により丹波家は宮廷医として栄えることとなる。『医心方』は、その後長く朝延に秘蔵されたが、室町時代の正親町天皇の御代に、宮廷医である半井通仙に下賜された。半井家は和気清麻呂の子、和気広世を始祖とする和気家の子孫であり、丹波家にとってはライバルに当たる家系であった。
このときから、半井家から『医心方』を取り返すことが丹波家の悲願となった。

多紀家の執念

実は、『医心方』には京都の仁和寺に伝わる別の写本(以下、仁和寺本)もあった。この存在が明らかになったのは、江戸時代の寛政2(1790)年である。丹波家の子孫である多紀元悳(元徳とも)は2部の写本を作り、一部を家蔵し、もう一部を幕府に献上した。この幕府納本は、今も国立国会図書館に所蔵されている。しかし、そもそも仁和寺本は16巻分しかなく不完全であった。なお、この仁和寺には現在も、巻一・五・七・九・十の5巻分(国宝)が所蔵されている。この5巻のほか、仁和寺に巻十九の一部が、巻二十七の一部が東京前田育徳会尊経閣文庫に現存している。
半井家に『医心方』が秘蔵されていることを知った元悳は、幕府に働きかけた。幕府は半井家に貸し出しを命じたが、当時の当主・半井成美は、そのような書物はないと主張し、再三の催促も拒絶しつづけ、天明8(1788)年の火災で焼失したと返答したのであった。これによって、半井成美は幕府から処罰を受けることとなった。
元悳の息子の元簡も、事あるごとに半井家から『医心方』を手に入れようとした。文政年間(1818~1830)に、元簡はたまたま、半井家に養子に入った半井清雅の実父・北條氏防の脚気治療を任命された。そこで、元簡は、北條氏防に『医心方』を借り出してくれるように頼んだ。実父からの頼みを断れず、半井清雅は脚気治療が記載された『医心方』巻八の一冊を貸し出した。元簡はさっそく写本を作らせるが、途中で氏防が死亡してしまい、貸し出す理由がなくなったとして清雅は『医心方』を引き上げてしまった。
ところが、半井成美から三代目にあたる養子の半井広明が、親戚の六郷政殷の説得に応じ、嘉永7(1854)年に『医心方』30巻を幕府に提出した。そのときの但し書きには、今まで提出しなかった理由が、原本ではなく間違いもあるためであることが書かれている(ただし、現在では平安時代後期の写本であることがわかっている)。当時の多紀家当主・元堅は医学館の医師総勢29名を動員し、一ヶ月あまりで写本を完成させた。ようやく多紀家は『医心方』を取り戻すという、300年の悲願を果たしのであった。この写本は現在、宮内庁書陵部に所蔵されている。一方、原本はすぐに半井家に返却され、長く所蔵されたが、昭和57(1982)年に文化庁が買い上げ、成立から1000年の昭和59(1984)年に国宝に指定された。
現在、一般に流布している『医心方』は、萬延元(1860)年に医学館が中井家本を元に、仁和寺などによって校訂を加えて出版した、いわゆる安政本と呼ばれるものである。

種々薬帳と正倉院薬物

種々薬帳と正倉院薬物毎年10月、奈良国立博物館で「正倉院展」が行われる。ここで展示される「正倉院宝物」は、天平勝宝8(756)年、聖武太上天皇崩御四十九日の法要の一環として、光明皇太后が、天皇愛用の品々と朝廷所有の薬物を東大寺に献納したことに始まる。このときに献納されたものは、「東大寺献物帳」と呼ばれる目録に記されている。このうち、愛用の品を記したものを一般に「国家珍宝帳」、薬物を記したものを一般に「種々薬帳」と呼ぶ。この二つには共に、光明皇太后の信頼厚かった藤原仲麻呂、藤原永手、臣萬福信、賀茂角足、葛木戸主の5人の貴族が連盟で署名している。
ここでは特に、「種々薬帳」について触れる。
「種々薬帳」は、縦26.1センチメートル、 全長210センチメートルの巻物であり、前面に45個の天皇御璽印を押した上に、60種の薬物が21個の櫃という木箱に入れて収められたことが記されている。そして、「種々薬帳」には、病に苦しむものがいれば、これらのものを使って治療するようにと書かれている。実際に献納後100年くらいは利用されたことが、記録として残されている。

正倉院薬物

●第一櫃
・(1)麝香(ジャコウ):シカ科ジャコウジカの雄の分泌嚢の内容物。
・(2)犀角(サイカク):亡失。サイ科インドイッカクサイの角と考えられる。
・(3)犀角(サイカク):亡失。なぜか前の犀角と2つ記載されている。違いについては不明。
・(4)犀角器(サイカクキ):サイ科インドイッカクサイの角でつくった盃
・(5)朴消(ボウショウ):亡失。含水硫酸ナトリウムが主成分の鉱物。
・(6)蕤核(ズイカク):バラ科の扁核木の成熟した果実の種子
・(7)小草(ショウソウ):ケシ科のイヌキマケン。小草には現在はビャクダン科のカナビキソウも当てられている。
・(8)畢撥(ヒハツ):コショウ科ヒハツの茎と根茎。現在は未熟な果実が用いられている。
・(9)胡椒(コショウ):コショウ科のコショウの果実。
・(10)寒水石(カンスイセキ):方解石(炭酸カルシウムの結晶)凝水石とも。
・(11)阿麻勒(アマロク):亡失。ウルシ科アムラタマゴノキの果実と見られている。
・(12)菴麻羅(アンマラ):トウダイグサ科アンマロクウカンの果実片、種子。現在では余甘子と呼ばれており、葉や根も用いる。
・(13)黒黄連(コクオウレン):ゴマノハグサ科コクオウレンの根茎。現在は胡黄連と呼ばれている。
・(14)元青(ゲンセイ):亡失。ツチハンミョウ科アオハンミョウ属の昆虫と考えられている。
・(15)青葙草(セイショウソウ):亡失。ヒユ科ノゲイトウの茎と葉と考えられている。
・(16)白及(ハクキュウ):亡失。ラン科シランの球根と考えられている。
・(17)理石(リセキ):繊維状石膏(含水硫酸カルシュウム)。
・(18)禹余粮(ウヨリョウ):亡失。褐鉄鉱物の皮殻内部の鉄分の少ない白色、褐色の粘土。
・(19)大一禹余粮(ダイイチウヨリョウ):褐鉄鉱物の皮殻内部の鉄分の多い赤色の粘土。現存するのは皮殻のみ。
・(20)龍骨(リュウコツ):納められているのは化石鹿の角だが、一般には哺乳動物の骨の化石。
・(21)五色龍骨(ゴシキリュウコツ):亡失。龍骨の中でも色があるものと考えられる。
・(22)白龍骨(ハクリュウコツ):化石鹿の四肢骨や歯。
・(23)龍角(リュウカク):インド産の化石鹿の角。
・(24)五色龍歯(ゴシキリュウシ):大小2つあり、大きい方はほぼ完全なナウマン象の第三臼歯。
・(25)似龍流石(ニリュウコツセキ):化石木と言われている。
・(26)雷丸(ライガン):サルノコシカケ科ライガン菌の菌核。
・(27)鬼臼(キキュウ):ユリ科マルバタマノカンザシの根茎。現在の鬼臼はメギ科ハスノハグサを指す。
・(28)青石脂(セイセキシ):亡失。青色を帯びた粘土と考えられる。成分はケイ酸アルミニウム。「石脂」には白、黄、赤、青、黒があり、まとめて「五色石脂」という。
・(29)紫鉱(シコウ):ラックカイガラムシ科ラックカイガラムシの雌が出す樹脂状の物質。
・(30)赤石脂(シャクセキシ):「五色石脂」の一つ。二酸化珪素、酸化アルミニウムなどが主成分。
●第二櫃
・(31)鍾乳床(ショウニュウショウ):いわゆる鍾乳石。炭酸カルシウムを主成分とする。
・(32)檳榔子(ビンロウジ):ヤシ科ビンロウの種子。
・(33)宍縦容(ニクジュヨウ):亡失。ハマウツボ科ホンオニクの茎と考えられる。現在は肉蓯蓉と表記される。
・(34)巴豆(ハズ):トウダイグサ科ハズの種子。
・(35)無食子(ムショクシ):フシバチ科インクフシバチはカシ属のモッショクジュに寄生してできる虫こぶ。没食子とも。
・(36)厚朴(コウボク):現在はモクレン科ホウノキ属だが現存品はクルミ科コウキ(黄杞)と考えられる。
・(37)遠志(オンジ):ヒメハギ科イトヒメハギの根。
・(38)呵梨勒(カリロク):現在は唐呵子(カラカシ)。シクンシ科ミロバランノキの果実。
●第三櫃、第四櫃、第五櫃
・(39)桂心(ケイシン):クスノキ科ケイの樹皮。香辛料のシナモンのこと。
●第六櫃、第七櫃、第八櫃
・(40)芫花(ゲンカ):ジンチョウゲ科フジモドキの花蕾
●第九櫃、第十櫃、第十一櫃
・(41)人参(ニンジン):ウコギ科チョウセンニンジンの根
●第十二櫃、第十三櫃、第十四櫃
・(42)大黄(ダイオウ):タデ科ダイオウの根茎。
●第十五櫃、第十六櫃
・(43)臈蜜(ミツロウ):ミツバチ科トウヨウミツバチの蜜蝋。
●第十七櫃、第十八櫃、第十九櫃
・(44)甘草(カンゾウ):マメ科カンゾウの根。現存のものはウラルカンゾウの根。
●第二十櫃
・(45)芒消(ボウショウ):含水硫酸マグネシウムの鉱石。近代以降は含水硫酸ナトリウムを指し、芒消と朴消の区別がなくなった。

・(46)蔗糖(ショトウ):亡失。イネ科サトウキビの茎から得られる樹液を煮詰めたもの、つまり砂糖と考えられる。
・(47)紫雪(シセツ):亡失。金属や、鉱物性、植物性、動物性の各生薬合計17種類を配合したもの。
・(48)胡同律(コドウリツ):樹脂の乾燥物であるため、詳細は不明。現在の胡同律はヤナギ科の胡楊の樹脂であるが、おそらく同じものと考えられている。
・(49)石塩(セキエン):亡失。岩塩の一種で主成分は塩化ナトリウム、つまり塩。
・(50)猬皮(イヒ):亡失。ハリネズミ科ハリネズミの皮と考えられる。
・(51)新羅羊脂(シラギヨウシ):亡失。新羅産の羊の脂と思われるが詳細は不明。
・(52)防葵(ボウキ):亡失。セリ科の植物であろうと考えられている。現在の防葵はツヅラフジ科シマハスノハカズラ。
・(53)雲母粉(ウンモフン):ケイ酸塩鉱物。現存のものは滋賀県産の白雲母と成分が同じ。
・(54)蜜陀僧(ミツダソウ):亡失。一酸化鉛のこと。
・(55)戎塩(ジュエン):石膏、硫酸ナトリウム、食塩などの水溶性成分と石英などの水不溶性成分の混合物。簡単に言えば、一種の土。
・(56)金石陵(キンセキリョウ):亡失。朴消、石膏、寒水石などを配合したもの。
・(57)石水氷(セキスイヒョウ):亡失。「七水凌」という配合薬のことではないかと考えられている。朴消、芒消、滑石、石膏などを配合する。
・(58)内薬(ナイヤク):亡失。詳細がまったく分かっていない。
●第二十一櫃
・(59)狼毒(ロウドク):亡失。サトイモ科クワズイモの根茎などが考えられている。
・(60)冶葛(ヤカツ):断腸草あるいは胡蔓藤のクマウツギ科。

これら正倉院薬物は、これまで数度の調査が行われ、特定と成分分析などが行われた。それによって、1200年前に実際に使われていた生薬の正体が明らかになった。しかも、薬物の多くが現在でも使用できる状態にあることがわかっている。
さらに、そのほとんどが中国大陸から渡来したもので、その他、インド、タイ、ベトナム、トルコ、ペルシアなどが産地と分かっている。
このことは、当時どれだけの薬物の流通経路が確立されていたということの証であり、またその当時のものがそのまま残されているという点でもきわめて貴重なものである。
このほかに、「帳外薬物」として、「種々薬帳」に記載されていない薬物が、雄黄、白石英、滑石、蘇芳など十数種類保管されている。
中でも有名なのが「黄熟香」と呼ばれる香木で、これは「沈香」という生薬でもある。またこれを有名にしているのは、「蘭奢待」という別名がついていることであろう。天皇の許しがなければあけることができない正倉院の宝物は、時の権力者にとっては、まさに自分の権力を権威付けるには格好のものであった。特に、その最大の象徴ともなったのが「蘭奢待」である。

室町幕府の三代将軍足利義満は正倉院を開封して見学したことが記録に残されている。宝物を持ち出したり、切り取ったりした記録はないが、後に「蘭奢待」を切り取った記録が4件だけ残されている。室町幕府の八代将軍足利義政、戦国覇者である織田信長、そして明治天皇が2度切り取ったことが分かっている。

チェックテストはこちら

総まとめテストはこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?