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拳の教え方

「拳」という、酒宴のうえで酒を飲み、飲ませるための遊びがある。いまではほとんど見かけなくなり、いつの間に神秘なベールに包まれるものとなった。それでも、かつて暮らしに笑いや賑わいをもたらしてくれたものとして、ときどき話題になる。

拳のルールというのは、思いのほか簡単だ。だれでも楽しめる、たとえ酔いが回ってきてもこなせるということが前提の遊びだから、思えば当たり前のことだ。それを簡単にまとめると、およそつぎのようなものだろうか。

遊びは二人でやる。拍子を取ってそれぞれに二つの数字を口と手で同時に出す。口ではゼロから九、手ではゼロから五という数字だ。二人のうち、一方が両者の手で出した数字の合計を言い当たり、かつ相手が言い外れた場合は勝負がつき、両方とも当たったり、外れたりしたらやり直しということなのだ。ちなみに口でいう数字は、中国語の発音に即したものを用いる。

以上のような簡単なルールなので、短く説明したら、だれでもすぐに覚えられ、どうしてもなら数字の言い方の一覧があると助かる程度のもので、それ以上の伝授など必要もないだろうと思ったら、この推測はみごとに外れた。江戸の読み物には、これを解説する大真面目な一冊がある。しかも、絵をふんだんに使っている。ここで眺めてみよう。

書物のタイトルは、『拳独稽古』である。山櫻漣々ほか著、文政十三年(1830)刊である。国文学研究資料館所蔵の底本を新日本典籍総合データベースで閲覧できる。拳をめぐる図解は、五丁表から八丁裏にかけて、あわせて八ページにおよび、十五図と数えられる。その内容を見ると、まずは「無手」というゼロから五にかけての六つの数字の出し方、さらに対戦する二人で出す一から九までの九つの組み合わせを順に掲げた。後者の九図はこのようなものだ。

この中から、一例として、六を表わす図を読んでみよう。

書き込まれた文字はつぎの通りだ。

図の如くだしたるとき、りうとよびたるかたかちなり。ほかのこへよびたるかたまけなり。そうほうりうと呼ぶあひけんなり。
(図の如く出したる時、「りう」と呼びたる方勝ちなり。ほかの声呼びたる方負けなり。双方「六」と呼ぶ、合い拳なり。)

ほかの組み合わせを表わす図も、ほぼこれとまったく文章で、正答となる数字が入れ替わるだけだ。

一読して、いかにも周到丁寧で、いたり尽くせりの説明が施されたものだと、感心するぐらいだ。一方では、それがあまりにも細かいだけに、思わず突っ込みを入れたくなる気持ちになる。「六」という数字は、どう考えても二と四の組み合わせだけに止まるものではなく、一と五、三と三もあるはずなので、文字を書き入れるのでしたら、それらの可能性まで言及すべきではなかろうかと、上から目線で正したくなった。

その答えはなにともあれ、素朴で思いやりのあって、身の回りのことを熱心に語ってきかせるという、江戸の出版物の性格の一つをここに垣間見ることができて、ほっとする思いだった。

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