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いろいろな資料集です。ご自由に活用して下さい。
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2022年3月の記事一覧

【つの版】度量衡比較・貨幣15

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  唐では安史の乱以後国内が混乱し、各地に軍閥(藩鎮)が割拠して半自立政権となり、ウイグルやチベットが勢力を伸ばします。唐の後期から宋代にかけての経済と銭について見ていきましょう。 ◆宋◆ ◆宋◆ 唐末五代 両税法によって唐の財政はやや建て直されたものの、北魏以来の均田制は崩壊します。土地を私有化した豪族たちは流民をかき集めて小作農とし、大規模農場で働かせました。朝廷は自前の土地を所有する者を主戸、そうでない者を客戸(佃戸

【つの版】ウマと人類史:近世編04・老帝晩年

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  オスマン皇帝スレイマンは、ハンガリーの大半を征服してウィーンを包囲し、イラクや北アフリカ、地中海にまで版図を広げました。しかし宮中では寵愛や後継者を巡って争いが起き、勢力拡大も限界を迎えつつあります。 ◆天国◆ ◆扉◆ 東方情勢 1543年、スレイマンと皇后ロクセラーナの長男メフメトが天然痘に罹って22歳で病没すると、スレイマンの最初の妻マヒデヴランが生んだ長男ムスタファに注目が集まります。彼は1533年にアナトリア西部のマ

【つの版】ウマと人類史:近世編・インデックス

 ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。  つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。  なお主な舞台となる中央ユーラシアは大変広く、世界各地に話が飛びますので、世界地図をご用意下さい。なければGoogle Mapで充分です。 ◆序◆01.

【つの版】度量衡比較・貨幣14

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  8世紀初め頃、倭国は「日本」と国号を改め、君主は「天皇」と自称し、唐の律令を真似た「大宝律令」を制定します。銅銭の鋳造と流通も国家事業として進められ、708年には新たな銅銭「和同開珎」が鋳造されました。日本政府(朝廷)の発行したこれらの銅銭について見ていきます。 ◆銅◆ ◆和◆ 和同開珎 持統天皇は697年に退位し703年に崩御しますが、次の文武天皇は在位10年で707年に崩御し、子の首(おびと)は幼かったため持統の妹

【つの版】ウマと人類史:近世編03・女人天下

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  スレイマン1世率いるオスマン帝国の大軍は、ドナウ川を越えてハンガリーに侵攻し、1529年にはハプスブルク朝神聖ローマ帝国の都ウィーンを包囲しました。これは頑強な抵抗に遭い撤退しますが、スレイマンはハンガリーの東半分を属国化し、続いて東方への遠征を行います。 ◆大◆ ◆奥◆ 東方遠征 オスマン帝国の東方の隣国はサファヴィー朝です。初代君主のイスマーイールは1524年に亡くなり、跡を継いだ息子タフマースブはまだ10歳で、配下の騎

【つの版】度量衡比較・貨幣13

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  倭国・日本は遣隋使・遣唐使を派遣してチャイナの制度を受け入れ、文明国の仲間入りを果たしました。唐の開元通宝を真似て独自の銭を鋳造してもいます。それまでにも古来交易はあり、様々な物品が貨幣として用いられていたはずです。古代倭国の貨幣について見てみましょう。 ◆鉄◆ ◆雄◆ 鉄鋌用銭 倭地・倭国では、古くは物々交換が自然に行われていたはずです。しかし弥生時代・古墳時代の遺跡からは、チャイナの金属貨幣である半両銭や五銖銭、王

【つの版】ウマと人類史:近世編02・欧州遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦1520年、オスマン皇帝スレイマン1世が即位しました。彼は46年もの治世の間に帝国をさらに拡大し、欧州諸国と渡り合うことになります。 ◆Solomon◆ ◆Megiddo◆ 要衝陥落 父セリム1世はサファヴィー朝に大打撃を与え、マムルーク朝を滅ぼして帝国を大きく広げましたが、1520年9月に在位8年で崩御しました。スレイマンはアナトリア西部のマニサの総督を勤めていましたが、セリムには他に男子がおらず、スムーズに帝位を継承

【つの版】度量衡比較・貨幣12

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  漢の武帝によって導入された五銖銭は、以後700年以上に渡りチャイナの基軸通貨となりました。ただ需要に対して銅が不足し、悪銭が横行します。魏晋から隋唐にかけてのチャイナの貨幣について見てみましょう。 ◆金◆ ◆田◆ 銭文陌貫 漢末から魏晋南北朝時代には、各地に割拠した政権によって様々な重さや銘文の銭が発行され、私鋳銭や変造銭も溢れかえります。民間ではこうした混乱を解決するため、銅銭の価値を重さや品質ではなく枚数で測るよう

【つの版】ウマと人類史:近世編01・海洋進出

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。今回から近世編です。  近世という時代区分がいつからいつまでかは諸説ありますが、つのはシンプルに今から500年前(1522年頃)を起点としてみます。日本は戦国時代に突入していますが、500年前の世界はどんな様相だったのでしょうか。 ◆世界を◆ ◆リメイク◆ 韃靼割拠 1521年、明朝では嘉靖帝が即位しました。その北の大元大モンゴル国(北元・韃靼)では、この頃ダヤン・ハーンが亡くなり、子のバルス・ボラト、孫のボディ・アラクが即位し

【つの版】遊牧民と世界史・参考文献

 ドーモ、三宅つのです。つのが遊牧民関係の記事を書く時に参考にしている文献集です。すでにいくつか参考文献を列挙していますが、追加します。  つのは全くのド素人で、先行研究の上澄みを掬って浅瀬でチャプチャプしているだけです。インターネット上の記事や歴史読み物的な新書・文庫本などをつのなりに読み、図書館とかで調べて考えてはいますが、つのの書いていることを鵜呑みにはせず、あなたはあなたで調べて考えて下さい。  なお、つのは「面白いからこの方がいい」的な考え方をあまりとりません。

【つの版】度量衡比較・貨幣11

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  漢の武帝が導入した五銖銭は、紆余曲折ありながらも漢の基軸通貨として流通しました。しかし後漢末には悪貨が蔓延します。 ◆漢◆ ◆末◆ 董卓破銭 189年、霊帝崩御後の混乱に乗じて政権を掌握した董卓に対し、190年には各地で反董卓連合軍が決起します。これは袁紹が盟主となり、東方諸侯のみならず北の河内郡、南の荊州や益州の長官(刺史・州牧)も呼応します。連合軍は帝都洛陽を包囲すべく進軍しますが、董卓は傀儡天子の劉協を西方の長安

【つの版】ウマと人類史:中世後期編20・陸海平定

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1512年、オスマン帝国皇帝バヤジット2世は退位させられ、息子セリムが跡を継ぎました。彼は8年という短い治世の間に領土を大きく広げ、オスマン帝国は黄金時代を迎えるのです。 ◆野望◆ ◆世界◆ 波斯撃破 セリムが即位した頃、オスマン帝国の最大の敵は東方のサファヴィー朝でした。彼らはアナトリア半島に割拠する多数のトゥルクマーン(イスラム化したテュルク系騎馬遊牧民)を煽動して味方に引き入れ、東方を不安定化させていました。かつてバヤ

【つの版】度量衡比較・貨幣10

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  始皇帝による天下統一後、チャイナでは円形方孔の青銅貨幣「銅銭」が基軸通貨となりました。当初は半両銭(8g)でしたが、漢の武帝はより軽い五銖銭(3.3g)を大量発行して軍事費にあて、天下には銭が溢れかえります。 ◆なんだ◆ ◆漢だと◆ 漢代歳入 漢代の税制や財政について見ていきます。税とは人(兄)から穀物(禾)を抜き取る(脱)ことで、祖霊に捧げる穀物を租と言いました。田地に課す租税を田租といい、戦国時代は10分の1税が基

【つの版】ウマと人類史:中世後期編19・皇弟流浪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  1481年、オスマン帝国皇帝メフメト2世は崩御しました。しかしオスマン帝国は滅ぶことなく、さらなる拡大を続けます。 ◆楽園◆ ◆放浪◆ 皇弟流浪 メフメト2世の息子にはバヤジット、ムスタファ、ジェムがいましたが、ムスタファは1474年に死亡しており、帝位は33歳のバヤジットと21歳のジェムによって争われます。バヤジットはアナトリア北東部のアマスィヤの総督として白羊朝を防いでおり、メフメトの政策に批判的な人々がその宮廷に集まり