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【つの版】ユダヤの謎05・申命改革

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前931年、ダビデの子ソロモンの死後にイスラエル王国は南北に分裂しました。北王国イスラエル(サマリア、エフライム)と南王国ユダ(ユダヤ)です。それから200年紆余曲折を経て、アッシリアの圧力が両王国に重くのしかかって来ました。その命運は、もはや風前の灯です。

◆残酷◆

◆天使◆

北朝滅亡

ダマスカスを滅ぼしたアッシリア王ティグラト・ピレセル3世は、北はウラルトゥ(アルメニア高原の王国)、南はバビロニアを屈服させ、広大な版図に覇を唱えました。彼が前727年に崩御すると子のシャルマネセル5世が即位し、これをチャンスとみた諸国はアッシリアからの自立を図ります。

同年イスラエル王ホセアはエジプト(第22王朝か)と同盟を結び、アッシリアへの貢納を停止しました。シャルマネセルは前725年に西方遠征を行い、首都サマリアを3年間の包囲の末に陥落させ、これを滅ぼします。同年にシャルマネセルは崩御しますが、サルゴン2世が即位し引き継ぎます。

アッシリアは、占領地の住民の一部を別の土地へ強制移住させていました。ティグラト・ピレセルからサルゴンに至る諸王により、ガリラヤ・ヨルダン川東岸・サマリヤの民は首都ニネヴェやメソポタミア北部(シリア東部)、及びイラン高原方面へ移住させられ、歴史から姿を消します。その数はサルゴンの戦勝碑文では2万7290人とします。これが「アッシリア捕囚」で、戻らなかった人々は「失われた十支族」と呼ばれるようになりました。

このうちヨルダン川東岸にいたのがルベン族とガド族、およびマナセ族の半分で、ガリラヤ地方にいたのがアシェル族、ナフタリ族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族の半分、サマリア地方にいたのがエフライム族、ペリシテ人の北にいたのがダン族です。これでは9つにしかなりませんが、ユダ族の地に分散していたシメオン族を加えて10としたようです。レビ族は祭司の一族で領地を持たず、各地に分散していました。

常識的に考えれば、「失われた十支族」とやらは現地で奴隷同然の暮らしを強いられるか、それなりの暮らしを与えられたのでしょう。彼らはヤハウェ崇拝にも熱心でなく、普通にバアルやアシュタルテを拝んでいましたから、それらの神やアッシリアの神々を雑多に崇めるようになり、世代を重ねるうちに周辺民族と文化的・血縁的に同化して消滅したはずです。しかし「どこかに残っているはずだ」と後の人々が考え、様々な幻想が生まれることとなりました。まあ多少はいたでしょうが、彼らは戻らなかったのです。

ユダ王国にはユダ族を中核として、エルサレム付近のベニヤミン族、南のシメオン族、祭司であるレビ族がいたはずです。しかし北王国の住民全てがいなくなったわけではなく、弱体化しながらも残っていましたし、当然ながら難民が発生してユダ王国に逃げ込んだりもしたようです。

アッシリアは代わりに征服地から様々な異民族を移住させ、旧北王国の地の住民と混血させました。彼らはガリラヤ人、サマリア人などと呼ばれるようになり、ユダ王国の遺民ユダヤ人から蔑まれることになります。

血統的・文化的に最もユダヤ人に近い民族は一神教徒になったサマリア人ですが、ユダヤ人は彼らを「混血者ですらない、全員イスラエル民族とは無関係なアッシリア人(クタ人)の末裔」とみなして忌み嫌っていました。サマリアより田舎のガリラヤ(そも「辺境」の意です)は言うに及びませんが、イエスはその地のナザレで生まれ育ちました。ベツレヘムで生まれたというのはダビデの血統と結びつけようという小細工です。

天使誅戮

さて、ユダ王国はアッシリアの属国となり、西のエジプトと最前線で対峙することになりました。前715年にアハズが逝去すると、子のヒゼキヤが即位しますが、彼はアッシリアによりもたらされた平和を利用して国力の増強に努め、城壁の修築や水道工事、行政改革などを行います。

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前705年にアッシリア王サルゴン2世がタバル(アナトリア中部)で戦死すると、抑圧されていた諸国は再び立ち上がりました。まずバビロニア(カルデア)でエラムの支援を得て反乱が起き、ユダ王ヒゼキヤはこれに呼応してアッシリアへの貢納を停止します。またエジプトやアシュケロンと同盟して親アッシリア勢力を攻撃し、テュロスとシドン(フェニキア)も同盟に加わります。バビロニア王メロダク・バラダンはヒゼキヤらに使節を派遣し、共にアッシリアと戦うことを誓いました。

これに対し、アッシリア王センナケリブはバビロニアを全力で叩き、メロダク・バラダンをエラムへ追い払います。前701年には返す刀で西方遠征を行い、大軍を率いて圧力を加えました。フェニキア、アンモン、モアブ、アシュドド、エドムなどは報復を恐れて速やかにアッシリアに帰順します。

センナケリブ率いる主力はペリシテへ向かい、アシュケロンとエクロンを制圧し、エジプトの援軍を打ち破ります。またユダ王国南部の町ラキシュを包囲する一方、エルサレムへ将軍率いる軍勢を派遣して、ユダの言葉(ヘブライ語)で降伏勧告を行います。ユダ王国は滅亡寸前となりました。

この時、宮廷預言者イザヤは再び「恐れるな、神を信じよ。アッシリアの王がエルサレムに入ることはなく、攻めることもない。彼は来た道を帰って行くであろう」と預言します。その夜、恐ろしいことが起きました。

その夜、主の使が出て、アッスリヤの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆、死体となっていた。(列王記下19:35イザヤ書37:36

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出エジプトの時のように、ヤハウェは殺戮の天使を遣わし、アッシリア軍18万5000人を一夜のうちに滅ぼしてしまったというのです。強大なニンジャが破滅的なジツを用いたのか、ウルトラマンか巨神兵めいた天使が降臨して破壊光線を放ったか、大量破壊兵器でも使用したというのでしょうか。

常識的に考えると、これはユダ王国のデマです。アッシリアはラキシュを陥落させて多数の捕虜を獲得し、ヒゼキヤを服属させて貢納を再び納めさせたとアッシリア側の戦勝碑文には書かれています。満足したセンナケリブは首都ニネヴェへ凱旋し、エルサレムには手をつけなかったというだけです。彼がユダ王国から奪った領土はペリシテ人の都市国家に分配されました。敵国バビロニアの記録にも、センナケリブが敗北したとは書かれていません。

また、ヘロドトスはこの伝説をエジプトで伝聞して、こう記しています。

サバコスとアニュシスの後にヘパイストス(プタハ)の神官セトスが王位についたが、サナカリボス(センナケリブ)率いるアッシリア・アラビア連合軍の侵攻を受けた。セトスが神殿に入って祈ると、夢枕に神が立って勇気づけたので、セトスは人々を率いて国境へ向かった。すると夜になって野鼠の大群が敵軍に押し寄せ、武具を噛み潰して丸腰にしてしまった。

当時のエジプトは南のヌビア(クシュ)人が支配しており、シャバタカが王位にありました。神官セトスとはヒゼキヤをエジプト人に置き換えたものでしょう。天使ならぬ野鼠がアッシリア軍を撃退したというのは、ペストなど疫病が彼らを悩ましたことを暗示するという説もあります。

大軍で遠征したのですから多少は疫病も流行ったでしょうが、結局ユダもエジプトもアッシリアには敵わず、センナケリブは普通に勝利して凱旋したのです。しかしそれではユダやエジプトの王や神のメンツが丸潰れですから、「神の御業でアッシリア軍は去った」と王や聖職者が喧伝したのでしょう。敗走を転進と言い換えるぐらいの大本営発表ぶりです。まあ事情を知らない後世の人々は「マジかよ、すげえな」とぐらいは思ったでしょうが。

センナケリブはバビロニアで再び勃発した反乱を鎮圧し、前699年には自分の長男をバビロニア王に任命しますが、彼は5年後にエラムに敗れ捕虜となります。怒ったセンナケリブは繰り返しバビロニアを討伐し、前689年にはついにバビロンを陥落させ、都市を破壊して水浸しにし、主神マルドゥクの像を持ち去ったといいます。しかし王妃の推薦で末子エサルハドンを後継者に指名したため、他の王子らから恨まれ、前681年に暗殺されました。

アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰って行ってニネベにいたが、その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子アデランメレクとシャレゼルが、つるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げて行った。そこでその子エサルハドンが代って王となった。(列王記下19:36-37

申命改革

センナケリブが帰国した後、ヒゼキヤは前687年まで在位しました。結局はアッシリアへの貢納も再開され、服属することになりましたが、おかげで王国は平和を享受したわけです。彼の子マナセもアッシリアに貢納し、その神を祀って媚びへつらい、45年もの間平和を保ちました。ヤハウェの祭司や預言者らはこれを非難しましたが、反アッシリア派とみなされて弾圧・粛清され、イザヤもこの頃死んだ(あるいは殺された)と伝わっています。

この間、エジプトは前673年にアシュケロンの対アッシリア反乱を唆しましたが、アッシリア王エサルハドンに鎮圧されます。彼はさらにエジプト本土へ侵攻し、下エジプトを占領しますが、前669年に崩御しました。彼の後を継いだのがアッシュールバニパルです。アッシリアは帝国として西アジアの主要な文明領域を征服し、その勢力は当時並ぶものがありませんでした。

マナセの死後、子のアモンが即位しますが、前640年に在位2年で暗殺され、子のヨシヤが8歳で王位につけられました(ヨ・シュア[ヤハウェは救う]ではなくヨシ・ヤフ[助けるヤハウェ])。そして前631年にアッシュールバニパルが崩御すると、アッシリア帝国は急速に崩壊し始めます。

成人したヨシヤは、この機に乗じてアッシリアから独立し、混乱するアッシリア領へ侵攻します。そしてサマリア、ガリラヤなど旧北王国領を制圧し、300年ぶりに南北イスラエルを統一することに成功しました。そしてユダ王国の守護神であり、イスラエル十二支族の軍事同盟を守護する神であるヤハウェを大いに喧伝し、挙国一致の中央集権体制を造ろうとします。

旧約聖書『列王記・下』22-23章、『歴代誌』34章によると、ヨシヤ王は即位18年目(紀元前621年)にエルサレム神殿を修復しました。この時、大祭司ヒルキヤは神殿で「失われた律法の書物」を発見し、王と女預言者フルダ(王の衣装係シャルムの妻)に見せました。フルダは「これは本物だ」と神に誓って証言したため、王は民衆の前で読み上げ、神と民の契約の更新を確認すると共に、以後の儀式をこれに基づいて行うと定めました。

これはモーセ五書(律法、トーラー)の最後の一つ、『申命記(デヴァリーム)』です。モーセが書いたということになっていますが、モーセの死とその後の状況、モーセの時にはいないはずの「王についての掟」まであり、明らかに新しく編纂されたものです。また他の律法にはない「神を祀る聖所はただひとつにせよ」という記述があり、ヨシヤはこれに基づいて国内各地に存在したヤハウェの聖所をひとつにまとめ、ユダ王国の都にあるエルサレム神殿に統合する政策を推し進めました。

これを「申命記改革」といいます。要は日本が明治維新を迎えた際、神仏分離令や廃仏毀釈を行い、伊勢神道や復古神道の教義を元にして「国家神道」を作り上げたのと良く似た状況です。アマテラスを唯一神として崇めたりはしませんでしたが、天皇を現人神とし、天皇を戴く明治政府の権威と権力を強め、徳川幕府に代わる近代的な統一国家・国民国家を建設するための政策です。ヨシヤとその協力者らがやろうとしたのは、そうしたことでしょう。

漢の劉歆は「孔子の家の壁から発掘された」と称する「古文経」を編纂し、王莽はこれを利用して漢の天子から帝位を禅譲させています。申命記も同様に捏造されたのでしょう。なおエジプトはこれに先立ってアッシリアの支配から独立し、「サイス・ルネサンス」と呼ばれる復古様式が盛んになっていました。ヨシヤ王の改革はこれを模倣したものかも知れません。

出どころはどうあれ、ヨシヤ王の政治・宗教改革はある程度は成功し、統一イスラエル王国はアッシリアの崩壊を好機として大きく勢力を広げました。民は「ヤハウェ神に選ばれた国民」として一致団結し、律法に書かれたように国内の異教徒・異民族を弾圧し、偶像や祭壇を次々と破壊していきます。排他的で破壊的な国家主義・民族主義(ナショナリズム)の始まりです。

エジプトやアッシリアなど超大国に長年圧迫されてきたイスラエル人・ユダヤ人が、より弱い相手や国内の異分子、衰退した敵国に対して「神の正義」の名のもとにどのように振る舞うか、想像は容易でしょう。あまりやると逆に国力が衰えるため、どこまで徹底されたかは不明ですが。

最終戦争

その頃、東方ではバビロニアがナボポラッサルのもとアッシリアから独立しました。彼はイラン高原北西部のメディアの王キュアクサレスと手を結び、アッシリア本国に攻め掛かります。諸都市は次々に陥落し、首都ニネヴェも前612年に陥落、王太子アッシュール・ウバリト2世は西へ逃れハッラーンで王位につきますが、もはやアッシリアの命運は尽きようとしていました。

この時、エジプトはアッシリアの救援要請を受け、カナアン・シリアへ出兵しています。前616年にはプサムテク1世がシリアへ遠征してバビロニア軍と戦い、前610年に跡を継いだネコ2世も自ら兵を率いてアッシリア救援に向かいます。前609年にアッシリアはハッラーンをも失い、ユーフラテス川の渡し場であるカルケミシュにまで追い詰められていました。

◆猫◆

エジプトの遠征は、アッシリアをバビロニアやメディアとの緩衝国として残し、シリアへエジプトの勢力を広げるための行動です。ファラオ・ネコ2世はユダ王国に軍隊の交通を許可するよう要請しましたが、ヨシヤはこれを拒否し、エジプト軍を迎撃すべくガリラヤ地方のメギドの丘(ハル・メギド)に陣営を張りました。ここはナザレの南西、カルメル山の南東にあり、エジプトとシリアを結ぶ交通の要衝で、古来要塞(ミグドル)が置かれました。

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ヨシヤにすれば、エジプトが勝ってアッシリアが復活すれば大問題ですし、そうでなくてもエジプトに服属することになって独立が失われます。ナショナリズムが吹き上がって国力が最盛期を迎えている今、エジプト軍を迎え撃って撤退に追い込んだとすれば、今後の国際社会でも大きな顔ができます。首都エルサレムを遠く離れたメギドに陣取ったのは、背後(南)からも攻撃する備えがあったのかも知れません。

しかし、衰えたりとはいえ大国のエジプトと、南北合わせても日本の九州にも及ばぬ小国のユダ・イスラエル王国では素の国力が違います。ユダ軍は大敗を喫し、ヨシヤは矢傷を負って戦死します。エジプト軍はそのまま進んでカルケミシュに向かい、アッシリアを助けてハッラーンを包囲しますが、奪還を果たせず撤退します。エルサレムではヨシヤの子ヨアハズが王位についていましたが、ネコ2世は帰還途中に彼を退位させ、異母弟エルヤキムを王位につけてエホヤキムと改名させます。ヨアハズは3ヶ月王位にいただけで人質としてエジプトへ連れ去られ、ユダ王国はエジプトの属国となります。

ヤハウェの忠実なしもべとして宗教改革を行い、理想国家を現出させたヨシヤ王は、現実的なパワーの差の前に完膚なきまでに敗北したのです。これはヤハウェを崇める聖職者らに深刻なショックを与え、後世に「メギドの丘で神の選民(イスラエル民族)と異教徒との最終戦争が起き、今度こそ選民が勝利して永遠の神の王国を打ち立てる」という夢想を産みました。いわゆる「ハルマゲドン(ギリシア語形)」ですが、中東や世界で数知れぬほど大戦争が繰り返されたにも関わらず、まだ神の王国は建設されていません。

◆Arma-goddamn◆

◆motherfuckin-geddon◆

こうしてエジプトの属国となったユダ王国に、さらなる神の試練が降りかかります。王国の滅亡と強制移住、すなわち「バビロン捕囚」です。

【続く】

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