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【つの版】度量衡比較・長さ編07:徒歩や馬での移動距離

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。武器に深入りしすぎたので戻しましょう。今回は徒歩や馬での移動距離についてだらっと見ていきます。

ようやくマガジン化しました。これまでのはこちらをご覧下さい。

人類は、何百万年もの間は自らの脚で歩き、数千年の間は馬やロバ、馬車などで陸上を移動しました。現代では車や飛行機であっという間に通り過ぎてしまう距離も、昔は地道に歩いて進んだものです。ここではそうした人類の歩みを振り返ってみましょう。異世界転移した時などの参考にして下さい。


▼歩行速度

人間の歩く速度は時速4km、早足が時速6km、駆け足が時速8km以上です。フルマラソンの世界記録が2時間として最高時速20km、100m走の世界記録で時速37kmほどです。はこれより速く、通常歩行(常歩)で時速6km、早足(速歩)で時速15km、駆け足(駈歩)で時速30km、全速力(襲歩)で時速60kmというところです。ラストスパートの瞬間には時速90kmにも及びます。激突されればただでは済まないでしょう。ただし速歩は1時間、駈歩は30分、襲歩は5分程度しか続きません。無理をさせるとカロウシします。

▼歩調

人間の歩調(両脚を交互に踏み出した時に進む距離)は個人差があれどおおむね1-1.5mです。チャイナでは「歩」という単位がありますが、周・漢代の指尺(17.2-23cm)なら1歩は6尺で0.86-1.38m、唐以後の歩尺(30cm)なら5尺で1.5mとなります。ペルシア、ギリシア、ローマでも1.5mほどが歩調の単位でした。時速4kmで歩いたとして、分速66.7m、秒速1.11mです。馬の歩幅(完歩)は走っている時ならば7-8mもあります。常歩時は人の1.5倍とすれば2.25mほどでしょうか。

ギリシアやローマでは、両手を広げた長さ(尋)を100倍したスタディオンを距離の単位として用い、おおむね180mです。1歩が1.5mなら120歩です。

▼里と町

古代チャイナでは300歩四方の面積を「」としており、字はまさに「田の土地」を意味します。のち300歩の長さが里という距離単位になりました。周歩なら300歩は258m、漢歩ならば400m余。唐以後は360歩が1里とされて540mです。また60歩を「」としましたが、これは90mほどです。里も町も本来は面積を指し、それが距離単位ともなったのです。

日本ではいつしか半刻(1時間)の歩行距離を1里と呼ぶようになり、およそ36町に伸びました。歩も1.8m(1間)に伸びたため、1町=60歩は108mになります。こうした尺度は時代や地域によりまちまちで、東国では小里が用いられており、千葉県の九十九里浜は1里6町として65kmほどです。

▼マイルとリーグ

ローマでは軍隊が進む速度をマニュアル化しており、歩調を1000倍(mille)した mile passus を移動距離の単位としていました。英語mile(マイル)の語源です。すなわち1ローマ・マイルは1.5kmほど(1.48km)になります。ヤード・ポンド法では歴史的経緯で100m伸びて1.6kmほどになっています。街道にはマイルストーンが置かれ、道標ともなりました。

古代ガリア人はレウカ(leuca)という距離単位を持ち、およそ1.5ローマ・マイル(2.2km)に相当しました。しかし中世には「1時間で進む距離」とされ、倍増して3マイル(4.5km)となりました。スペイン・ポルトガルのレグア、フランスのリュー、英国のリーグはこれに由来します。日本での里と似ていますが、マイルがと意訳されたのにリーグは訳されなかったため、海底二万リーグが二万マイルと縮んでしまいました。

似たような距離として、ペルシアのパラサング(アラビア語に入ってファルサク)があります。これはギリシアでいう30スタディア(5.4km)に相当するとされますが、時代や地域によって異なります。インドの『実利論』や仏典では2000尋を1ゴールタ(クローシャ、牛吼、約3.6km)とし、これを倍ないし4倍したものをヨージャナ(由旬、7.2-14.4km)としています。

▼旅程と駅伝、行軍距離

1日に人間が歩いて進む距離はどれぐらいでしょうか。24時間歩くわけには行きませんので、時速4kmで6時間歩けば24km、8時間で32km進みますね。ヘロドトスによれば、1日に5パラサンゲス(150スタディア=27km)から200スタディア(6.67パラサンゲス=36km)進むとしています。馬は時速6kmで進むとして、6時間で36km、8時間で48kmも進めます。

はもともと伝令が使うための替え馬(伝馬)を等間隔で用意しておいた施設のことで、これを利用すれば1日に100km以上の距離を進むことができました。ペルシアやローマ、チャイナやモンゴルなど世界各地に見られます。最高速度であれば1日160kmに及びました。江戸時代の飛脚は江戸から京まで124里(約500km)の東海道を7日で駆け(1日18里=72km)、交代で走る継飛脚なら3日で駆けた(1日41里=164km)といいます。

軍隊は輜重や武装もあるので軽装の旅人よりは遅く、ローマ軍の行軍速度はあのローマ街道をもってしても通常1日25kmでした。マケドニア軍もそのぐらいです。強行軍すればもっと進めますが兵士に疲労がたまり、肝心の戦闘で使えなくなります。これでも相当に早い方で、『荀子』『説苑』や『漢書』王吉伝などに「師行(行軍)は日に三十里、吉行(行幸)は五十里、奔喪(親の葬儀に駆けつける、全速力)は百里」とあります。1里を400mとすると行軍は1日12km、行幸は20km、奔喪は40kmです。『唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあり、唐の1里を540mとすれば、馬で1日37.8km、徒歩や驢馬で27km、車で16.2kmとなります。車(輜重隊)は遅いのです。インドにおいても帝王の1日の行軍速度は1ヨージャナ(14.4km)でした。『太閤記』高麗陣ニ就イテノ掟條々でも「人数おし之事、六里(16㎞)を一日之行程とす」とあります。

精鋭の騎兵や軽装兵だけで強行軍すれば、軍隊は結構速く進めます。アレクサンドロス大王はガウガメラの戦いの後、昼夜兼行でアルベラまで90kmを追撃し、アンティゴノスは7昼夜で480kmを踏破しました。第二次ポエニ戦争のメタウルスの戦いではネロ率いる精兵が8日で800kmを駆けました。着いた頃にはへろへろになっていたと思うのですが大丈夫でしょうか。

後漢末の武将・夏侯淵は「三日で五百里、六日で千里」と言われましたが、1里を400mとすれば3日で200km、6日で400kmとなり、1日平均67km程の速度です(魏里は434mなのでもう少し速いですが)。モンゴル帝国の騎兵は遠征にあたって1人あたり7から8頭の馬を連れて行き、頻繁に乗り換えることで1日70kmを走破しました。彼も替え馬を利用したのかも知れません。

魏の司馬懿が太和2年(228)に孟達を討伐した際は1200里(520km)を昼夜兼行で8日で駆け抜けました。1日150里=65kmもの速度です。1ヶ月はかかると踏んでいた孟達は応戦準備が間に合わず、16日ほどで城を落とされ斬首されました。景初2年(238)に遼東の公孫淵を討伐した時は洛陽からの3600里を100日で行軍しましたが、これは1日36里=15.6kmほどです。

日本では建武年間、北畠顕家が12月22日に奥州白河関を進発し、7日ほどで270kmほどを進み、1月2日に鎌倉を占領。1日40kmもの強行軍です。翌3日には鎌倉を出て、1月6日に遠江へ到着。鎌倉から大井川までとして160kmを4日、日速40kmです。1月12日には近江国愛知川に着きましたが、230kmほどを6日で移動しており日速38km。1日かけて琵琶湖を渡り坂本に到達、新田義貞と合流して足利尊氏を攻撃しました。騎兵なら可能でしょう。

羽柴秀吉の「中国大返し」は備中高松城から山城山崎まで200kmを10日で踏破したものとされますが、1日平均20kmほどで、途中で休みも取りました。ただ沼城から姫路城まで70kmを1日や2日で大軍が移動することは難しく、通説より2日ほど早く動いていたともいいます。

賤ヶ岳の合戦での「美濃大返し」では、申の刻(午後4時)に大垣を騎馬で出発し、二時半(5時間)かけて13里(52km)を駆け、戌の刻(午後9時)に木之本に到着しました。時速10kmほどですが、秀吉はこの間に2回馬を替えています。15-20kmほど全力疾走させては乗り替えたのです。

また、江戸時代の参勤交代の大名行列は経費節約のため強行軍で、1日8里(32km)から10里(40km)進んだといいます。

このような迅速な移動は、優れた軍隊でなければ出来ません。中世や近世の欧州の軍隊は1日に5マイル(8km)以下の距離しか進みませんでした。無数の非戦闘員が付随し、重い大砲を引きずり、規律もなく士気も低いなどいろんな要因が重なっていたらしく、ナポレオン戦争の時でもこの有様でした。七年戦争では1日20-30kmで移動している軍もいたようですが……。

◆Ceddin deden◆

◆Neslin baban◆

今回は以上です。次は船での移動についてしていきます。速度や面積などもありますので、まだまだ先は長いですね。

【続く】

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