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【つの版】ユダヤの謎15・異端論駁

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

135年にバル・コクバの乱が平定された後、エルサレムはユピテル神殿が立つ非ユダヤ人の都市とされ、ユダヤの地名もパレスチナと変えられました。ただハドリアヌスの後の皇帝たちは穏健派のユダヤ教徒との関係を修復し、融和路線をとって東方を安定させました。パルティア側にもユダヤ教徒がいる以上、敵対すればパルティアが反乱を煽ってきます。この時代にローマが警戒していたのは、むしろキリスト教徒の方でした。

◆異◆

◆端◆

基督教団

ナザレのイエスが西暦30年頃に刑死し、ヤコブ・ペテロ・パウロらが西暦60年頃に相次いで世を去り、ユダヤ戦争でエルサレムが壊滅した後、キリスト教はユダヤ教と分離します。ただしユダヤ教の聖典も「イエスの出現を予言していた」として聖典とされ、イエスをメシアと認めるか否かであって崇める神は同じだ、としていました。モーセ以来千年以上の伝統を持つユダヤ教の権威と背景があってこそのキリスト教です。

エルサレム教会は、ユダヤ戦争勃発前に過激派ユダヤ人から迫害を受け、エルサレムを去ってヨルダン川東岸のペレアへ逃れました。彼らは孤立を深めて分裂し、一部はエッセネ派やクムラン教団のように洞窟に住まい、エビオン派(貧者派)という一派を形成しました。そして律法を守り禁欲生活し、ユダヤ人以外への布教を拒んで終末を待ち望むうち、ジリ貧になって消滅します。彼らはナザレのイエスを洗礼によって「神の養子となった」とし、生まれた時からの神の子とはしていなかったようです。

一方、アンティオキアを本山とするパウロ系の教会組織は非ユダヤ人への伝道を積極的に行います。割礼をしなくても洗礼すれば入信可能とし、豚やタコを食べるなといったユダヤ教の食事に関する律法規則(カシュルート)を撤廃し(使徒行伝10章に基づく)、小難しい律法を学びマナーを厳しく守らなくても「悔い改めてイエスを信じれば誰でも救われる」としたため、多数の非ユダヤ人の信者を獲得出来ました。教団内部でも論争がありましたが、組織を維持拡大して生き残るには最善で、こちらが主流となりました。

男性しか入信できなかったミトラス教とは異なり女性の入信者も多く、教会内で執事など重要な役目を持つ女性もいました。カリスマ的存在としてイエスや使徒たちもおり、テロなど社会倫理的にアウトな行動を起こしたりもしていません。教会は互いを同胞とする互助組織で、共同体に所属すれば心の安定が得られ、貧しい者は施しを受けられます。怪しいカルト宗教として嫌われていたキリスト教も、次第に世間に受け入れられるようになりました。

しかし、キリスト教の教会組織全体を統括する代表者はまだいません。小アジアやギリシア、ローマまで広がったものの、アンティオキア教会は総本山というほどの権威はなく、ユダヤ教の聖書に匹敵するような権威のある聖典もありませんでした。

そして、いつまで待っても終末はやって来ません。偶像崇拝を行う邪悪なるローマ帝国は富み栄え、聖都エルサレムと神殿を破壊しましたが、多少の内乱はあるものの天変地異で滅んだりしておらず(ポンペイはイタリアの地方都市に過ぎません)、イエスの再臨も天使の降臨もなく、パルティアの侵攻さえも起きていません。聖書の予言が間違っていたのでしょうか。それともグノーシス主義の説くように、ヤハウェ自身が嘘つき野郎なのでしょうか。

異端論駁

この頃に出現した「グノーシス主義」と総称される宗教思想では、造物主(プラトン哲学でいうデミウルゴス)を盲目で無知な(アンラ・マンユめいた)悪神とし、この世の外の理想世界を粗雑に模倣して物質世界を造ったとします。彼は傲慢にも自分が唯一神だと勘違いしており、理想世界から人間に与えられた光の霊を逃すまいと穢れた肉体に閉じ込めていますが、蛇や女性が人間に霊的な知恵(グノーシス)を与え、人間は自分がこの世の外に属する者だと悟る…といったスピリチュアルな神話を説いています。

そのため物質世界を否定し子供を儲けず、瞑想と禁欲の果てに理想世界へ帰還することを夢想し、そのまま滅びました。インドの修行僧みたいですが、実際インドと海路で交易していたエジプトで流行したため、なにか繋がりがあるのかも知れません。のち東方でゾロアスター教と習合し、マニ教などになりました。こうしたスピ系の思想は、中世や近現代にも流行しています。学術的にも興味深いですが、深入りすると危険なので深入りしません。

西暦140年頃、ローマのキリスト教会にマルキオンという人物が現れます。彼は小アジア北部、黒海に面したポントス地方シノペ市の出身で、父はユダヤ人の船主でしたがキリスト教に改宗し、聖職者になっていました。マルキオンも熱心なキリスト教徒でしたが、パウロの教説や磔刑の意味について深く考えすぎた結果グノーシス主義の影響を受け、「ユダヤ教の神とキリスト教の神は別である」と説き始めました。そのため父から破門され、小アジアの諸教会からも追放されてローマにやって来たのです。

彼によれば、ユダヤ教の神ヤハウェは全知全能ではなく、彼が創造した世界は不完全です。ユダヤ教の聖書を読む限り、彼なりに正義や善の心は持ち合わせているのですが、自分の創造を悔いて大洪水を起こし、自分の選民さえ意のままに従わせることができず、すぐブチ切れて災害をもたらすなど、ちっとも全知全能らしくありません(古来神々はそんなもんですし、ユダヤの神話はいろんな神話の継ぎ接ぎなので仕方ありませんが)。

これに対しイエスの説いた「父なる神」は恵みと愛に満ちた慈悲深い神で、律法を押し付けたりもしません。その神はヤハウェやその被造物とは全く無関係で、グノーシス主義のように「失われた光を物質世界から取り戻そう」という利己的な理由ではなく、「無償の愛によって」イエスを遣わしたというのです。またイエスは人間ではなく、この世の外の「父なる神」の化身であって、その肉体は幻に過ぎなかったといいます(仮現説)。彼は全くの無償の愛によって別の宇宙からやって来て、無関係な人類のためにその身を捧げ、ヤハウェから人類を贖いとったというのです。

このため、マルキオンは「ユダヤ教の神に従う者は全て救われない」とし、ルカ伝と使徒行伝、パウロ書簡の一部だけをキリスト教の正典とすべきで、ユダヤ教の聖書からの引用も全部カットせよとしました。合理的といえば合理的ですが、この教説は既存の(少なくともパウロらの説いた)キリスト教の教義にそぐわず、ローマの諸教会からも異端として破門されます。しかしマルキオンは独自の教会を設立して信者を集めました。

このような「異端」に対抗するため、主流派を自認する諸教会では教義の確立や正典の編纂が進められ、異端反駁の論説が張られました。宗教ですから完全な合理化は難しいとしても、ある程度なら論理的に理論や証拠を積み上げ、理論武装して戦うことができます。こういうのが得意なのは哲学や雄弁術を磨いたギリシア人やギリシア的教養を持つ人物ですから、正統派も異端とされた側も次々に哲学者をオルグし、自派に引き入れました。

2世紀初頭から8世紀にかけて、多数のキリスト教の教義・神学に関する著作が出現するのはこうした理由です。彼らのうち正統教義の確立に寄与したとみなされる者を「教父(教会の父)」といい、使徒に続く宗教指導者として尊敬されました。彼らはギリシア哲学やユダヤ教の教説をキリスト教に導入し、難解な教義や神学理論を形成しますが、オリゲネスのように後世の都合で異端とされる者もいました。

一般大衆はそうした教義や神学論争には関わらず、互助組織として教会を利用し、またこの世の苦しみからの救済を願いました。150年頃に小アジアのフリュギアではモンタノスが現れ、「私は聖霊を受けた!もうすぐイエスが再臨する!」と叫んで信者を集め、正統派から異端と認定されます。とはいえこうした「異端」を処罰する法的機関は存在せず、ローマ帝国も取り締まったりしなかったため、彼らはそれなりに長期間存続したようです。同様の宗教運動はその後も繰り返し起きており、近現代でも珍しくありません。

何が正統で何が異端かは、結局は存続できたか否か、多数派を形成し世論の支持を集めたか否かです。その宗派の中にいれば他は異端に見えるでしょうし、無関係な異教徒から見れば大差なくとも、中の人には大問題です。現代先進国は信仰の自由が保証されていますが、かつては(あるいは現代も)そうではありません。現代的な目線で過去を裁くのは程々にしましょう。

大迫害

ローマ帝国は、このような新興宗教の広まりを「社会不安を煽るもの」として警戒していました。彼らは皇帝の像を礼拝せず、ユピテルら神々にも敬意を払わず、ローマ帝国自体を「穢れた悪の国」とみなしていましたから、反乱こそ起こさなくとも不気味がられて不思議はありません。ただ散発的な迫害はあったものの組織的なキリスト教徒への迫害や処刑はなく、この時代の殉教者とされる人々も実際殉教したかどうかは疑わしいようです。

3世紀になると、アルサケス朝はサーサーン朝にとってかわられます。この新たなペルシア帝国は権威付けのためゾロアスター教を国教とし、逆らう者を迫害しました。またローマと盛んに戦って勝利をおさめ、260年にはエデッサの戦いでローマ皇帝を捕虜にするという快挙を成し遂げます。

この頃、ローマ帝国は軍人皇帝が各地に乱立して混乱しており、ガリアやパルミラが一時独立したほどでした。蛮族や盗賊は跳梁跋扈し、重税がのしかかり、地方の住民は戦乱を逃れて土地を捨て、ローマなど都市部へ押し寄せます。マッポーの世には宗教が流行するのが世の常で、この時期にキリスト教は大いに勢力を広げ、難民や貧民からカチグミにまで信者を獲得します。301年にはアルメニア王国がキリスト教に改宗しました。

皇帝たちは国家への忠誠心とか過去の栄光とかを喧伝し、しばしばキリスト教を弾圧して財産を没収し軍資金にしたりしたようですが、組織的な迫害はディオクレティアヌスによるものが最大です。

284年に即位したディオクレティアヌスは、ローマではなく小アジア北西部のニコメディア(現イズミット)に駐留し、マクシミアヌスを西方の皇帝に任命して異民族の侵攻を防がせます。彼自身は東方を管轄し、副帝ガレリウスを派遣してペルシアを攻撃させ、有利な条件で講和を結ばせます。また国内では官僚制を整備して属州を再編し、卓越した政治力でローマ帝国を再建しました。ただ官僚や軍が肥大化して税がますます重くなり、統制経済を行うなど社会主義国めいたことにもなっていきます。

専制君主と化したディオクレティアヌスは、ローマ帝国臣民の失われた愛国心や忠誠心を取り戻そうと、民衆に対して皇帝崇拝とローマの伝統的な神々への礼拝を義務付けました。民衆はこれに反発し、特にキリスト教徒は従おうとせず、軍を離脱するなど反逆行為に出ました。怒った皇帝は西暦303年にキリスト教徒を弾圧する勅令を発し、聖職者の逮捕・投獄、強制的改宗、聖書の焼却や教会の破却、教会財産の没収を命じます。

この大迫害はかつてない規模で組織的に行われ、数千人のキリスト教徒が処刑されて殉教します。殉教者は穢れた俗世を離れて天国へ行けると信じられていたため、敬虔な信徒は喜んで死んだといいますが、やはり怖くなって棄教した者も相当数いたようです。報復としてニコメディアの宮殿にはキリスト教徒による放火が繰り返され、体調を崩した皇帝は305年に退位し、アドリア海のほとりに豪勢な宮殿を立てて引きこもりました。

跡を継いだガレリウスはキリスト教徒への迫害を続けますが、ディオクレティアヌスのように帝国全土へ権力を及ぼすことはできず、ローマ帝国は東西に二人ずつ皇帝(正帝と副帝)がいるという「テトラルキア(四人による支配)」状態が継続します。311年、ガレリウスはキリスト教弾圧の勅令を撤回して寛容令を出し、直後に病死しました。

統治之具

313年、西方正帝コンスタンティヌスと東方正帝リキニウスはミラノ勅令を発布し、キリスト教を含む全ての宗教を公認して、信教の自由を保証しました。コンスタンティヌスはこれを根拠として没収された教会財産を返還したので、大いにキリスト教徒の支持を集めます。もともとキリスト教徒は帝国の東部に多く、西部では少なかったため、これは帝国東部のキリスト教徒に「リキニウスではなくコンスタンティヌスを支持した方が得だぞ」というメッセージを送ったことになります。彼自身はキリスト教徒ではありませんでしたが、母ヘレナはキリスト教徒でした。

果たしてコンスタンティヌスはリキニウスとの戦いを始め、324年にこれを打倒してローマ帝国を再統一します。そして325年には小アジアのニカイアに主だったキリスト教会の聖職者らを呼び集め、公会議を開催しました。

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この当時、キリスト教はアリウス派アタナシウス派に大きく分裂していました。アリウス派は「子なる神(イエス)は父なる神(ヤハウェ)より劣る被造物である」とし、人間ナザレのイエスが被造物である聖霊を受けて神の養子となり、救世主になったとします。一方のアタナシウス派は「父と子と聖霊は、完全に、永遠に神であり、ひとつの本質と3つの位格を持つ」という「三位一体」を主張していました。合理的に考えるならアリウス派の方が筋が通っていますが、神秘的に考えればアタナシウス派の方が魅力的です。

コンスタンティヌスからすれば、手駒であるキリスト教徒が教義を巡って分裂されると困ります。敵対者がつけこんでくる可能性も充分あります。そこで彼はアタナシウス派を正統教義と認定し(彼はキリスト教徒ではないのですが)、それに基づく「ニカイア信条」を発布させて、全キリスト教徒の基本信条と定めます。また地方によって異なっていた復活祭の日付を定め、棄教者の復帰や、異端とされた聖職者による洗礼の効果の有無についても論じられました(ケースバイケースとされたようです)。

かくしてキリスト教はローマ帝国に公認され、皇帝の庇護を受けるようになりました。しかしミラノ勅令によるならば、他のあらゆる宗教に対して信仰の自由は保証されており、ユダヤ教徒も例外ではありません。ローマ帝国によるユダヤ教徒への迫害がハドリアヌス帝の崩御と共に終わったとすれば、現代まで続くユダヤ人への差別や偏見は、キリスト教によるものです。

◆十◆

◆字◆

【続く】

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