見出し画像

【つの版】倭国から日本へ21・大化改新

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

中大兄皇子は蘇我入鹿・蝦夷らを始末し、母の皇極天皇を退位させて叔父の孝徳天皇を擁立、皇太子となって政権を握ります。皇位候補者であった古人大兄皇子も排除すると、都を飛鳥から河内の難波宮に遷し、大規模な国政改革を行います。これを時の元号から「大化の改新」といいます。

◆大◆

◆化◆

大化改新

日本書紀巻第廿五 天萬豐日天皇 孝德天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html

『日本書紀』孝徳紀によると、大化2年(646年)元日「改新の詔」が発布され、天皇を中心とする中央集権国家の建設が宣言されました。まず全国の私有地・私有民を全廃し、京師(首都)・畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制を設置し、さらに戸籍と計帳(課税調査書)が作られ、公民に農地を分配する班田収授法が制定され、租税制度も改革されました。

いちいち見ていくのはめんどいので飛ばしますが、皇帝を戴く先進国である唐の制度を導入し、臣下の権力を制限した、明治維新めいた大改革が行われたかのようではあります。しかし研究により、これらの諸制度はもっと後の改革を前倒しして記したに過ぎないことが判明しています。私有地・私有民の全廃はまだまだ豪族の反発が強くて無理ですし、郡はまだ存在せずと表記されていたことが木簡記録からわかっています。

全国的な街道・防衛組織の整備は20年以上も後、白村江の戦いののち唐の侵略を警戒して行われたものですし、戸籍の作成もその頃です。班田収授法に至っては天武天皇以後で、いわゆる律令国家の成立はまだ先になります。

それがなぜここに記されているかというと、ひとつには「白村江で負けたから急いで国政を改革した」とありのままに書けば、例によって倭国・日本国のメンツに関わるからです。もうひとつは壬申の乱で中大兄=天智天皇系の政権を打倒した天武天皇にとって、天智天皇の時の政治改革の功績をありのままに書くと現政権に差し障りがあります。かといって全部無視するには時代が近過ぎ、天智政権で活躍した人々や天智系の皇族のメンツにも関わるので、彼が皇太子だった孝徳天皇の時のことにし、ついでに近年出来た律令制度を全部載せにして潤色を加えたのです。チャイナやコリアの史書がそうであるようにジャパンの史書も当然いろいろ忖度するものです。

そんなわけで「大化の改新」の実態は甚だ怪しいものですが、唐を真似た中央集権国家を作るぞ、ぐらいの気構えはあったかも知れません。また孝徳紀から盛んに「明神御宇日本倭根子天皇」と詔勅に書かれていますが、日本の国号も天皇の称号も、この頃にはまだ存在しません。『旧唐書』東夷伝倭国条の最後に「至二十二年、又附新羅奉表、以通起居」とありますから、貞観22年(648年)にはまだ倭国であったことになります。

天可汗

この頃の海外情勢を確認しましょう。630年、東突厥は鉄勒薛延陀部の反乱と唐の攻撃で崩壊し、頡利可汗は唐に捕縛されました。唐の太宗は遊牧民の諸部族から宗主として推戴され「天可汗(テングリ・カガン)」の称号を奉られますが、実態は薛延陀が東突厥に取って代わっただけです。

唐は薛延陀を牽制すべく、639年に東突厥の王族である思摩を東突厥の可汗に冊立して北の防衛を担わせます。薛延陀の夷男可汗はこれを憎み、641年から盛んに思摩を討伐して、唐の援軍と戦いました。しかし勝利できず、国内では東突厥の残党が反乱し、西では西突厥が健在であるため、ついに唐と和平を結びます。思摩は644年に唐へ帰還し、645年の高句麗遠征に従軍しますが戦死しました。幸い同年には薛延陀の夷男可汗も病死します。

高句麗遠征から戻った太宗は、646年に薛延陀へ遠征して大いに打ち破り、これを滅ぼして諸部族を唐に服属させ、官位を与えます(羈縻政策)。東突厥の残党は車鼻可汗のもとにいましたが、唐に敗れて服属しています。ここにチャイナと旧東突厥領は唐の天子・天可汗のもとに統合され、一種の世界帝国が出現しました。その実態は甚だ怪しく、族長たちを名目的に服属させたに過ぎませんが、これを祝賀して648年に新羅や倭国の使者が来たわけです。翌649年に太宗は崩御し、皇太子の李治(高宗)が即位しました。

三国争乱

高句麗では淵蓋蘇文が宝蔵王を戴いて国政を牛耳っています。唐の大軍を撃退したことで権威と権力は相当なものとなったでしょうが、相次ぐ激戦で国内はボロボロとなり、国際的に孤立する羽目になったのも事実です。数少ない友好国は百済と倭国で、高句麗はこれらと組んで唐や新羅に対抗します。

淵蓋蘇文は日本書紀で「伊梨柯須弥(イリ・カスミ)」と表記されており、イリは高句麗語で淵や泉を意味するようですが、唐の高祖李淵の諱とかぶるので新旧唐書では「泉蓋蘇文(蓋蘇文、蘇文)」と表記されます。朝鮮・韓国語で泉は saem ですが(漢字音か)、ツングース系の満洲語では šeri というので何か関係があるかも知れません。またペルシア語で泉を čašmag 、タジク語で čašma といいます。突厥にはイラン系のソグド人が多くいたのでカスミが泉だとすると、淵蓋蘇文は安禄山のようなソグド系突厥人かも知れません。かつて煬帝の軍勢を撃退した乙支文徳の乙支姓も胡姓めいており、鮮卑には尉遅部・尉遅姓がありましたが、これはもと西域のホータン王国の国姓で、梵語ヴィジャヤ(勝利)の音写ともいいます。こうした人々が突厥から高句麗へ送り込まれ、国政や軍事を担っていた可能性はあります。新羅や百済、倭国にもいくらかは来ていたでしょう。

百済は倭国に王子を人質として送るなど密接に関わりますが、倭国は新羅を討伐する構えをたまに見せるだけで半島出兵はせず、地続きの高句麗を頼みにするしかありません。義慈王は盛んに新羅を攻撃して領土を拡大しますが唐の介入を招き、649年には金庾信率いる新羅軍に大敗を喫しています。

新羅では百済と高句麗に攻められて疲弊した上、国内では親唐派と反唐派が対立していました。王族の金春秋は642年に高句麗へ援軍を求めに赴きますが果たせず、643年には唐から援軍の見返りに「善徳女王を廃位して唐の皇族を王位につけよ」という通牒が届きます(たぶんフェイクニュースでしょうが)。これを巡って親唐派と反唐派の対立は激しくなり、647年には貴族の毗曇が反乱を起こして女王を廃位しようとしました。倭国に続き新羅でもクーデター騒ぎがあったわけです。鎮圧されたものの善徳女王は同年に薨去し、金庾信らにより妹の勝曼が擁立され、真徳女王として即位します。

(貞観)二十二年…十月…癸未、新羅王遣其相伊贊千金春秋及其子文王來朝。是歲、新羅女王金善德死、遣冊立其妹真德為新羅王。(旧唐書太宗紀
二十一年、善德卒、贈光祿大夫、余官封並如故。因立其妹真德爲王、加授柱國、封樂浪郡王。二十二年、真德遣其弟國相、伊贊子金春秋及其子文正來朝。詔授春秋爲特進、文正爲左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論、太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑並新撰晉書。將歸國、令三品以上宴餞之、優禮甚稱。(旧唐書東夷伝新羅条

女王は親唐派で、唐へ使者(金春秋とその子の金文正)を派遣して冊立されています。この使者に倭国の使者が随行したということは、倭国も新羅を経由して唐と友好関係を結んだことになります。『日本書紀』によると大化2年(646年)に高向玄理が倭国から新羅へ遣わされ、翌年に金春秋を伴って帰国したとありますから、この時に金春秋と倭国首脳陣が会談して親唐路線を選び、共に使者を派遣することに決定したのでしょう。別に金春秋が倭国を脅しつけたわけではなくて、国際情勢を見据えた現実的な外交戦略です。ただしこの時の遣唐使は日本書紀に記されていませんし、金春秋は「人質としてとどまった」と書かれています。当然嘘です。

しかし、倭国が新羅・唐と結んだということは、百済・高句麗にとっては大問題です。頼みの綱の突厥や薛延陀も唐に服属したりボコられたりしていてどうしようもありません。貞観20年(646年)には高句麗が美女2人を唐に贈って謝罪しましたが、太宗は「故郷が懐かしかろう」と送り返します。貞観22年(648年)には山東半島から海路で鴨緑江の河口部へ兵を送り、軍船や兵士・兵糧・兵器を集めて高句麗を討伐しようとしましたが、649年に太宗が崩御したため沙汰止みとなりました。また百済は唐が結ばせた不戦条約を無視して新羅を攻撃しており、覇権国たる唐としては見過ごせません。

大臣冤罪

孝徳紀に戻ると、大化3年(647年)にも盛んに礼法を定め、冠位十二階を拡大して七種十三階の冠位を制定したり、越国の淳足(新潟市沼垂)に蝦夷を防ぐ栅(き、城塞)を設けて栅戸(屯田兵)を置いたり、有馬温泉へ湯治に出たりしています。大化4年(648年)には磐船(新潟県村上市岩船)にも柵を築き、越国と信濃国から民を送って屯田兵としました。

大化5年(649年)3月、左大臣の阿倍倉梯麻呂が薨去し、君臣はみな哭泣しました。しばらくして蘇我日向が皇太子(中大兄)に密かに近づき、「兄の右大臣・倉山田麻呂がお命を狙っています」と伝えました。中大兄にとって彼は妻の父でしたが、この密告を信じて天皇に上奏します。

天皇が人を遣わして尋問させると、右大臣は「直接申し上げたい」と答えるばかりで、怪しんだ天皇は兵を遣わして彼の家を包囲させます。右大臣は子らを連れて東へ逃げ、長男の興志が建築中であった山田寺(奈良県桜井市山田)に逃げ込みます。興志は兵を集めて抗おうとしますが、右大臣は「わしは日向に讒言されて冤罪を被っただけで、主君には忠実でいたい。寺に来たのは後生の安楽を求めてのことだ」というや、妻子と共に自決しました。

蘇我日向らはこれを聞いて兵を返しましたが、右大臣に殉じて自ら死ぬ者、連座して死ぬ者や流刑に処された者は数十人に及び、右大臣の資産は没収されました。皇太子は後から冤罪であったと悟り、涙を流して悲しむと、蘇我日向を筑紫宰に任命して左遷しました。皇太子の妃・蘇我造媛(遠智娘か)は一族の死を聞いて激しく嘆き悲しみ、ついに薨去したといいます。

悲しい事件ですが、被害が大きい割に元凶の蘇我日向は左遷といいつつ死を免れており、皇太子と日向が計画して右大臣一派を粛清したものと思われます。また左大臣には巨勢徳陀古、右大臣には大伴長徳が任命されましたが、この間に中臣鎌足は一切名が見えません。彼は「内臣として諸官の上にあった」わけではなく、実際は皇太子の私臣に過ぎなかったのでしょう。

同年、新羅へ使者を遣わし、新羅からは人質と多くの従者が送られて来ました。親唐・新羅外交の一環です。この時に右大臣一派が粛清されたのは、彼らが親百済派だったからかも知れません。倭国は長年新羅と敵対し、百済と誼を通じていたので、急な外交政策の転換には反対者もいたのでしょう。別に唐や新羅が倭国を脅して言うことを聞かせたわけではなく、国際情勢を見据えた現実的な外交戦略です。

白雉改元

翌大化6年(650年)2月、長門国から白い雉が献上されました。これを百済君豊璋(百済の太子で倭国の人質)に聞くと「漢の明帝の永平11年に白雉が出現したといいます」と答え、法師らは「見聞したことがありません。大赦を行うのがいいでしょう」と答えます。また道登法師や僧旻は「これは諸外国でいう祥瑞(めでたいきざし)で、王者の徳が四方に行き渡り、祭祀が正しく行われ、行いが清素で仁政を為している時に現れます」云々と説いたので、宮中の園に放ちました。

さらに群臣や三韓の人々を集めて盛大な式典を催し、白雉を輿に載せて彼らに示し、詔勅を下して「白雉」と改元しました。また天下に大赦を行い、長門国での放鷹を禁じて三年間の税を免除し、各位に下賜品を授けました。これが史上最初の生前改元です。右大臣一派を冤罪で粛清しておいて仁政もないものですが、改元はそのことをごまかすために違いありません。改元とはそういうもので、政変や災害があるとちょくちょく変えられます。

永徽遣使

この年は唐の高宗の永徽元年にあたりますが、太宗の崩御と高宗の即位を受けて改元したものです。『旧唐書』によれば、新羅はこの時に弟の法敏を派遣して朝貢し、「太平頌」という讃歌を献上してご機嫌をとっています。

永徽元年、真德大破百濟之衆、遣其弟法敏以聞。真德乃織錦作五言「太平頌」以獻之、其詞曰「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。止戈戎衣定、修文繼百王。統天崇雨施、理物體含章。深仁偕日月、撫運邁陶唐。幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。外夷違命者、翦覆被天殃。淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。四時和玉燭、七曜巡萬方。維嶽降宰輔、維帝任忠良。五三成一德、昭我唐家光。」帝嘉之、拜法敏爲太府卿。(旧唐書東夷伝新羅条)

高句麗は反唐姿勢を改めず、高宗は将軍の任雅相・蘇定方・契苾何力らを遣わして討伐させていますが、大きな戦果を得られず撤退しています。唐といえども海陸の彼方の高句麗を滅ぼすのは難しく、外交努力や持久戦での消耗を図り、その一環として新羅や倭国と手を組んだのです。隋の文帝も煬帝も唐の太宗も為し得なかった高句麗討伐を成功させれば、唐の天子の権威が高まることは疑い得ませんが、気をつけないと煬帝の二の舞です。

百済は永徽元年には遣使せず、翌年に初めて遣使朝貢しました。高宗は百済王の義慈に璽書を下し、「新羅は朕の属国であるのに、高句麗と手を組んで攻撃するとはけしからん。戦争をやめて和平せよ」と叱責しています。

そして『新唐書』によると、永徽元年に倭国王の孝徳も朝貢し、大きな琥珀と瑪瑙を献上したといいます。琥珀は岩手県久慈市でとれるものが有名で、蝦夷から献上されたものでしょうか。高宗は新羅が高句麗・百済に侵略されているのを止めさせるため、倭国の使者に璽書(天子の印璽が押された国書)を賜い、倭国王に「出兵して新羅を助けよ」と命じています。

永徽初、其王孝德即位、改元曰白雉、獻虎魄大如斗、碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅。(新唐書東夷伝倭国条
当時はまだ存在しないはずの漢風諡号が使われているのは、新唐書が1060年に成立し、983年に日本僧の奝然がもたらした『王年代紀』を参考にしているからです。945年成立の『旧唐書』では倭国王・日本国王の名や諡号が記されていません。

この遣唐使も唐の国書についても、日本書紀は一切黙殺しています。ただ白雉2年(651年)に百済と新羅が貢納したこと、盛んに法会を催したこと、難波宮が完成して行宮から遷ったことなどを伝えています。

また新羅の使者が唐国の服を着ていたので「勝手に服制を変えたことを憎んで追い返した」とあり、巨勢左大臣が「新羅を攻めましょう」と提案していますが、特に出兵したとも書かれていません。倭国では高句麗・百済派と唐・新羅派が対立していたようです。この先どうなるのでしょうか。

◆圧◆

◆圧◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。