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【つの版】倭国から日本へ16・高麗遠征

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭国が遣隋使とか国際交流とかして和やかに過ごしている頃、隋と高句麗の間には緊張が走り、ついには両国を揺るがす大戦争が勃発します。一体何が起きていたのでしょうか。各史料を見ていきましょう。

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第一次遠征

『隋書』東夷伝高麗条や文帝紀・煬帝紀等によると、高句麗が先に隋を攻撃したことが原因です。先に述べたように、隋が陳を平定すると(589年)高句麗は隋を恐れ、朝貢しなくなりました。それどころか国防を強化して不穏な動きを見せ、亡命者を匿ったり辺境を攻撃したりし、開皇17年(597年)に隋の文帝から問責の使者を送られています。高句麗王の高湯(平原王)は恐れおののいて陳謝し、同年に病没したため、子の高元(嬰陽王)が即位しました。隋は元を上開府・儀同三司・遼東郡公・高麗王に冊立し、衣を賜って即位を承認したので、王は返礼の使者を遣わし服属しました。

明年、元率靺鞨之眾萬餘騎寇遼西、營州總管韋沖擊走之。高祖聞而大怒、命漢王諒為元帥、總水陸討之、下詔黜其爵位。時餽運不繼、六軍乏食、師出臨渝關、復遇疾疫、王師不振。及次遼水、元亦惶懼、遣使謝罪、上表稱「遼東糞土臣元」云云。上於是罷兵、待之如初、元亦歲遣朝貢。

ところが翌開皇18年(598年)、高句麗王は靺鞨(高句麗の北の蛮夷)万余騎を率いて隋の遼西郡に攻撃をしかけ、営州総管の韋沖に撃退されました。文帝はこれを聞いて激怒し、自らの第五皇子である漢王楊諒と王世積を行軍元帥に任命すると、水陸両面から高句麗を討伐させ、また詔勅を下して高句麗王の爵位を剥奪しました。水軍総管には陳の将軍であった周羅睺を任命し東莱(山東東部)から平壌を攻めさせます。

しかし陸では兵站が続かず兵士が飢えて疫病が流行し、水軍は暴風に遭って多数の船を失い、功績を上げることができませんでした。なんとか軍が遼河に到達すると、高句麗王は使者を遣わして謝罪し、「遼東糞土の臣元」云々とへりくだった上表をします。文帝はやむなく兵を引き上げさせ、高句麗は以後毎年朝貢するようになりました。

同年に百済王余昌(威徳王)の使者が隋に朝貢し、高句麗討伐の軍を導くことを請いましたが、「もう高句麗王は謝罪したから赦している」と答えられました。忠誠を嘉して使者は厚遇され帰されましたが、高句麗はこれを聞いて怒り、百済の国境を侵略したといいます(東夷伝百済条)。新羅についてはこの時に何をしていたか語られません。

『三国史記』高句麗紀では、平原王の薨去及び嬰陽王の即位を隋が陳を平定した翌年(590年)としますが、即位2年と3年に隋へ朝貢したのち、在位4年から7年の間は空白です。8年にも朝貢記事だけです。嬰陽王9年(598年)2月、王は靺鞨の衆万余を率いて遼西を侵します。後は隋書にある通りです。呼号30万の隋兵のうち死者は十中八九、というのは誇張でしょう。

11年(600年)には新たに史書を編纂しました。14年(603年)8月には将軍の高勝を派遣して新羅の北漢城(ソウル)を攻めますが、新羅王自ら兵を率いて救援に来たので撤退しています。他は18年(607年)まで空白です。

藩禮頗闕

煬帝嗣位、天下全盛。高昌王、突厥啓民可汗並親詣闕貢獻。於是徵元入朝。元懼、藩禮頗闕。(隋書東夷伝高麗条)
煬帝が即位すると隋は全盛期を迎え、(西域の)高昌王、突厥の啓民可汗はともに自ら朝廷へ赴き、貢物を献上した。ここにおいて高元も入朝するよう求められたが、元は恐れをなし、藩国の礼儀(朝貢)をしばしば欠いた。

煬帝紀にはこうあります。

(大業)三年…八月壬午、車駕發榆林。乙酉、啓民飾廬清道、以候乘輿。帝幸其帳、啓民奉觴上壽、宴賜極厚。上謂高麗使者曰「歸語爾王、當早來朝見。不然者、吾與啓民巡彼土矣。」
大業3年(607年)8月、帝の車駕は楡林を出発した(突厥領内へ入る)。突厥の啓民可汗は廬(ゲル、遊牧民の家)を飾り、道を清めて歓迎した。帝はその天幕(帳)に赴き、啓民は盃を捧げて帝の長寿を祈り、宴会は甚だ盛況であった。時に高句麗の使者がおり、帝はこれに言った。「帰ってお前の王に伝えよ。『すみやかに来て朝見せよ。さもなくば、朕と啓民がお前の国へ行くぞ』とな!」

啓民可汗は東突厥の王族で、勝手に東面可汗となって独立し、隋と手を組んで勢力を広げていました。文帝は彼に宗室の娘(義成公主)を娶らせて同盟しており、煬帝とも親戚づきあいしていたようです。彼の天幕に高句麗の使者が来ていたとはどういうことでしょうか。『三国史記』ではこうです。

十八年、初、煬帝之幸啓民帳也、我使者在啓民所。啓民不敢隱、與之見帝。黃門侍郞裴矩說帝曰「高句麗本箕子所封之地、漢晋皆為郡縣。今乃不臣、別為異域、先帝欲征之久矣。但楊諒不肖、師出無功。當陛下之時、安可不取、使冠帶之境、遂為蠻貊之鄕乎。今其使者、親見啓民擧國從化、可因其恐懼、脅使入朝。」帝從之、勑牛弘宣旨曰「朕以啓民誠心奉國、故親至其帳、明年當往涿郡。爾還日語爾王、宜早來朝、勿自疑懼、存育之禮、當如啓民、苟或不朝、將帥啓民、往巡彼土。」王懼、藩禮頗闕、帝將討之。

やや詳しくなっていますが、おおむね隋書のとおりです。実はこのことは隋書北狄伝突厥条にもあります。

先是、高麗私通使啟民所、啟民推誠奉國、不敢隱境外之交。是日、將高麗使人見、勑令牛弘宣旨謂之曰「朕以啟民誠心奉國、故親至其所。明年當往涿郡。爾還日、語高麗王知、宜早來朝、勿自疑懼。存育之禮、當同於啟民。如或不朝、必將啟民巡行彼土。」使人甚懼。

高句麗が隋に朝貢せず突厥に通じていたのを、啓民が隋への忠誠心を見せるため敢えて隠さずに煬帝に見せたというのです。高句麗は驚き恐れ、王自ら朝貢…すれば済む話だったのですが、返って朝貢しなくなりました。隋も突厥も敵に回し、百済や新羅も敵に回してどうするつもりでしょうか。

倭国はこの年に遣隋使を派遣し、返答使を歓迎して隋の友好国となっています。高句麗も倭国とは友好関係にありますが、隋に攻められたら援軍を送ってくれるほどではありませんし、そんな義理も実力も倭国にはありません。高句麗が倭国を介して隋との関係を修復する道もありますが、倭国は百済との関係が深く、新羅とも一応友好関係を結んでいるので頼りになりません。

隋も高句麗にばかりかかずらわってはおれません。大業4年と5年には西の吐谷渾を討伐していますし、流求(台湾)に派兵したり大運河を造ったりいろいろしています。高句麗はこの間に百済や新羅と小競り合いしていたと『三国史記』には書かれています。大業5年(609年)には突厥の啓民可汗が薨去し、子の始畢可汗が即位しました。

そして大業7年(611年)、ついに隋は再び高句麗への遠征を行います。

第二次遠征

大業七年、帝將討元之罪、車駕渡遼水、上營於遼東城。分道出師、各頓兵於其城下。高麗率兵出拒、戰多不利、於是皆嬰城固守。帝令諸軍攻之、又勑諸將「高麗若降者、即宜撫納、不得縱兵。」(隋書東夷伝高麗条)
大業7年(611年)、帝は高元の罪を問うため討伐軍を起こし、自ら兵を率いて遼河を渡り、遼東城(遼陽市)に宿営した。そして各道に分けて部隊を出発させ、高句麗の首都へ進軍させた。高句麗は兵を率いて防衛したが、戦況は不利となり、みな籠城して固守した。帝は諸軍に攻撃させ、また諸将に勅して「高句麗がもし降伏すれば受け入れよ、乱暴するな」と命じた。

文帝の時とは違い、煬帝は自ら遼東までやってきました。高句麗を滅ぼすつもりではなく、朝貢して謝罪すれば赦すと言っているのですが、高句麗は頑なに守って降ろうとしません。外交に失敗して突厥も新羅も百済もみな敵なのですから、流石に降伏して国際社会に復帰した方がいいと思うのですが。

煬帝紀ではどうなっているのでしょうか。

七年…二月…乙亥、上自江都御龍舟入通濟渠、遂幸于涿郡。壬午詔曰「武有七德、先之以安民。政有六本、興之以教義。高麗高元、虧失藩禮、將欲問罪遼左、恢宣勝略。雖懷伐國、仍事省方。今往涿郡、巡撫民俗。其河北諸郡及山西、山東年九十已上者、版授太守、八十者、授縣令。」…夏四月庚午、至涿郡之臨朔宮。

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大業7年2月、煬帝は江都(江蘇省揚州市江都区、南京の北岸)から龍舟(御座船)に乗って通済渠(黄河と淮河を結ぶ大運河)に入り、涿郡(幽州、北京)に向かいました。詔勅して「高麗の高元の罪を問う」と称し、河北・山東・山西に命じて民を慰撫させ、4月に臨朔宮に入ります。

『三国史記』にもこうあります。

二十二年(611年)春二月、煬帝下詔、討高句麗。夏四月、車駕至涿郡之臨朔宮、四方兵皆集涿郡。

しかし、ここからが大変です。煬帝紀はこう続きます。

秋、大水、山東、河南漂沒三十餘郡、民相賣為奴婢。冬十月乙卯、底柱山崩、偃河逆流數十里。十二月…于時遼東戰士及餽運者填咽於道、晝夜不絕、苦役者始為羣盜。

秋には山東・河南で大洪水が起き、民は困窮して互いに身を売り合い、奴婢となりました。10月には底柱山(河南省三門峡市の砥柱山)が崩れて黄河を堰き止め、逆流すること数十里に及びます。12月には遼東に集まった戦士や輜重兵が道を塞ぎ(填咽)、日夜絶えることなく、苦役に耐えきれず逃亡して群盗になる者も現れました。隋書は唐代に編纂され、唐を称揚するために煬帝を暗君・暴君として貶めていますが、こうしたことはあったでしょう。

大業8年(612年)正月、涿郡に総勢113万3800人、呼号200万もの大軍(輜重兵はこの倍)を集めます。また高句麗討伐の詔勅を発し、左右十二軍ずつに兵を分け、各道に向けて進発させます。山東半島から水軍も派遣し、その規模は前代未聞でした。いくら隋でもこれだけの兵を動かせたとは思えず、せいぜい10分の1というところでしょう。それでも総勢11万3380人、輜重兵はその倍という未曾有の大軍です。大将軍には段文振らを任命しました。

しかし寒冷時に北方へ大軍を集めたせいか疫病が流行し、任命した将軍たちも次々と病死していきます。3月、しびれを切らした煬帝は自ら兵を率いて東へ進み、遼河に橋をかけて渡ろうとしますが、高句麗軍に阻まれて果たせず、将軍たちも次々と戦死します。なんとか遼河を渡り、対岸の高句麗軍を撃破すると遼東城を包囲します。6月にようやく遼東城を陥落させますが、高句麗軍は既に各地の城に籠もっており、煬帝は諸将を叱責しました。

城將陷、賊輒言請降、諸將奉旨不敢赴機、先令馳奏。比報至、賊守禦亦備、隨出拒戰。如此者再三、帝不悟。(隋書東夷伝高麗条)
城が陥落し、賊は降伏を申し出たが、諸将は「敢えて機を急ぐな」という命令を奉じ、まず帝に報告して指示を待った。これを聞いて賊は防御を固め、出撃して戦おうとはしなかった。このようなことが再三であったが、帝は(何が問題かを)悟らなかった。

ワンマン天子を戴く巨大官僚帝国の限界です。文帝のように他人に任せればよかったのですが、煬帝自ら大口叩いて前線に来てしまった以上、ここで撤退すれば天下に恥を晒し、天子の権威に傷が付きます。しかし…

由是食盡師老、轉輸不繼、諸軍多敗績、於是班師。是行也、唯於遼水西拔賊武厲邏、置遼東郡及通定鎮而還。(隋書東夷伝高麗条)

兵糧が足りなくなり兵站が続かず諸軍が敗れたため、ついに隋は「班師」、すなわち撤退しました。遼河の西に砦と守備隊を置いたものの、高句麗王を入朝させるという目的は果たせず、屈辱的な敗北に終わります。

七月壬寅、宇文述等敗績於薩水、右屯衞將軍辛世雄死之。九軍並陷、將帥奔還亡者二千餘騎。癸卯、班師。九月庚辰、上至東都。(煬帝紀)

宇文述が薩水(清川江)で敗れたことは、『隋書』宇文述伝『三国史記』乙支文徳伝に記述があります。彼は高句麗の将軍・乙支文徳の撤退戦術にハマって深追いし、偽って降伏を告げる使者に騙されて気を緩め、川を渡ろうとしたところで背後を突かれ潰滅したのです。どうにか逃げ延びたものの、煬帝は激怒して彼の官位を剥奪し、庶人に落としました。

散々な結果に終わった高句麗遠征でしたが、煬帝は罪を臣下に押し付けて身代わりとし、次の遠征を計画します。しかしこの年には天下を旱魃や疫病が襲い、多数の死者が出ました。ことに高句麗遠征の拠点となった山東ではもっとも被害が甚だしく、怨嗟の声は高まる一方で、反乱も勃発しました。

第三次遠征

九年、帝復親征之、乃勑諸軍以便宜從事。諸將分道攻城、賊勢日蹙。會楊玄感作亂、反書至、帝大懼、即日六軍並還。兵部侍郎斛斯政亡入高麗、高麗具知事實、悉銳來追、殿軍多敗。(隋書東夷伝高麗条)
大業9年(613年)、帝は再び高句麗を親征し、勅して諸軍に便宜をはからせ従事させた。諸将は各道に分かれて高句麗の城を攻め、敵の勢いは日に日に縮まった。しかし楊玄感が反乱を起こし、帝は報告を聞いて大いに恐れ、即日全軍を撤退させた。兵部侍郎の斛斯政は高句麗へ亡命し、高句麗は知事(将軍)に任命して追撃させたので、隋のしんがりは大いに敗れた。

今度はついに遠征中に反乱が起き、敵側へ寝返る将軍まで現れました。楊玄感は隋の重臣・楊素の子で、隋の皇室とは別系ですが同じ弘農楊氏とされ、父の死後は楚国公・礼部尚書として河南に駐屯していました。ただ父が煬帝に疑われて失意のうちに死んだため、恨みに思っていたようです。

煬帝紀を見ていきます。大業9年正月、煬帝は天下の兵を徴集・募集し、涿郡に集めました。しかし大業7年頃から山東・河北一帯では反乱が勃発しており、群盗を率いて荒らし回っていました。さらに西方では霊武(寧夏)の白榆妄が突厥と結んで反乱し、隋は将軍を派遣して討たせましたが勝つことが出来ませんでした。山東では次々と数万人規模の反乱が起き、高句麗征伐どころではなくなります。煬帝は諦めることなく兵を集め、3月には遼東へ遠征して4月に遼河を渡り、平壌へ使者を送り降伏を勧告します。

そして6月、楊玄感が黎陽で反乱を起こします。彼は食料輸送の任務を与えられていましたが、各地で反乱が頻発するのを見て嫌気が差し、東都洛陽を攻撃したのです。斛斯政は鉄勒(テュルク)系の将軍で北魏以来の名門でしたが、楊玄感と仲が良かったため高句麗へ亡命し、撤退する隋軍の背後を攻撃する有様でした。怒り狂った煬帝は洛陽へ宇文述らを派遣し、楊玄感は洛陽を落とすこともできず、8月に追い詰められて自決しました。

しかしもはや反隋の火の手は全土に及び、河北・山東・河南ばかりか江南でも反乱が勃発します。煬帝は9月に遼東から上谷(北京付近)まで戻ったものの、兵站は各地で断ち切られ、食糧にも事欠くようになります。翌月には博陵(河北省衡水市)に遷りますが洛陽へは戻れず、群盗は離合集散しながら各地で王や皇帝を号します。群雄割拠の時代がやってきました。

第四次遠征

大業10年(614年)正月、煬帝は宗女を信義公主として西突厥の曷娑那可汗に嫁がせます。彼は高句麗遠征に随行しており、煬帝の傍らにいました。2月、煬帝は三度高句麗討伐を計画し会議を開催しますが、群臣は数日間誰も口を開きませんでした。煬帝も流石に弱気になり、「せめて遼西で戦死者の合同慰霊祭を行いたいのじゃが」とか言い出しました。

3月、煬帝は涿郡に赴きますが、軍服を着たまま黄帝を祀り、反乱軍の捕虜を斬って軍鼓に血を塗り、戦勝を祈願しました。4月には北平、7月には遼河のほとりに築いた懐遠鎮に到達します。反乱が頻発するチャイナ本土をほっぽらかして攻め込んできた煬帝の執念に恐れをなしたか、高句麗は降伏の使者を送り、斛斯政を囚えて送り返したので、煬帝は大喜びしました。まあ高句麗も連年の戦争で疲弊していたので、このへんが落とし所でしょう。

8月に煬帝は兵を戻し、10月に東都洛陽へ至り、同月に大興城(西安)へ帰還しました。11月、煬帝は斛斯政を金光門外に磔にし、百官に射殺させました。また『資治通鑑』によると死体を釜茹でにして百官に人肉を振る舞い、官吏で媚びを売る者はなるべく多くの肉を食ったといいます。そんなことをしている間にも反乱はやまず、12月に煬帝は東都洛陽へ向かいます。

十年、又發天下兵、會盜賊蜂起、人多流亡、所在阻絕、軍多失期。至遼水、高麗亦困弊、遣使乞降、囚送斛斯政以贖罪。帝許之、頓於懷遠鎮、受其降款。仍以俘囚軍實歸。至京師、以高麗使者親告於太廟、因拘留之。仍徵元入朝、元竟不至。帝勑諸軍嚴裝、更圖後舉、會天下大亂、遂不克復行。(隋書東夷伝高麗条)
大業10年(614年)、また天下の兵を発したが、盗賊の蜂起に遭って人民は多く流亡し、兵站が途絶して軍は苦しんだ。遼河に至ると、高句麗もまた連年の戦争で疲弊し困っていたので、降伏の使者を遣わし、贖罪として斛斯政を囚え送った。帝はこれを許し、懐遠鎮で降伏条約を結び受け入れた。捕虜を率いて帰還し、都に至ると、高句麗の使者に太廟へ謝罪を報告させ、そのうえで抑留した。また王の高元に入朝せよと命じたが、高元はついに至らなかった。帝は勅して諸軍の装備を調え、またも遠征を計画したが、天下大乱により結局また遠征することはできなかった。

なんと、煬帝はまだ高句麗王の入朝を諦めていませんでした。隋書東夷伝高麗条はここで終わっています。唐がよほど煬帝をあほに描きたいのか、マジでヤバい執念に衝き動かされていたのかはわかりませんが、度重なる高句麗遠征が多数の反乱を招き、隋を崩壊させたのは間違いありません。文帝が頑張って築き上げ、煬帝の時代に最盛期を迎えた隋が滅ぶ時が来たのです。

◆鉄◆

◆空◆

【続く】

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