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【つの版】日本建国05・大宝律令

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

697年、持統女帝は孫の珂瑠皇子(文武天皇)に皇位を譲り、太上天皇となりました。若き文武に娘を嫁がせたのが、鎌足の息子・藤原不比等です。

◆鴉◆

◆鮪◆

役小角

三年…五月…丁丑、役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山、以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能、讒以妖惑。故配遠處。世相傳云、小角能役使鬼神、汲水採薪、若不用命、即以咒縛之。

文武3年(699年)5月、妖術師の役君小角(えんのきみ・おづぬ)を伊豆大島へ流刑にしました。彼は三輪系の葛城賀茂氏に属し、葛城山に住んで呪術をもって讃えられ、鬼神を使役して水汲みや薪採りをさせ、従わなければ術で禁縛すると噂されていました。物部氏に属する韓国広足(からくにの・ひろたり)は彼を師匠として学んでいます。のち誰かが(あるいは広足が)その能力を妬んで(ないし害悪だとして)、「妖術をもって人々を惑わしている」と讒訴したため、遠国へ配流したのです。

彼は修験道の開祖とみなされ、『日本霊異記』では「役優婆塞、孔雀王の呪法を修め、不思議な威力を得て、現に仙となり天に飛ぶ」としてありがた話が伝わっています。まことに怪しい人物ですが、方士のたぐいでしょうか。安倍晴明の師匠・賀茂忠行は同じ葛城賀茂氏の出自です。

韓国広足は朝廷に仕え、天平3年(731年)に外従五位下、翌4年(732年)には典薬頭に任命されており、『藤氏家伝』に呪禁の名人として記されます。大宝令の注釈に「道術符禁は道士の法で、いま辛国連がこれを行う」とあります。呪禁とは呪文を唱えて邪気・悪霊を禁じるマジナイで、病気治癒に効果があると信じられていました。太平道とか五斗米道もやっていますね。

大宝律令

それはさておき、文武天皇の行った事績は大きくふたつあります。その一つが大宝律令の制定、もうひとつが遣唐使の再開です。前者を見ていきます。

律令とは刑法である律(刑律)、その他の法(行政法・訴訟法・民事法等)である令の2つからなります。チャイナの法律制度は春秋・戦国時代から秦漢にかけて発達し、西晋の泰始律令を最初の律令として、隋の開皇律令をもって完成を見ました。唐の律令はおおむね開皇律令を踏襲しています。新羅等では唐の律令を採用し、独自の改変を加えていたようです。

倭国・日本では天智天皇の時代に「近江令」が発布されたともいいますが、確実には天武10年(681年)に律令制定が命じられ、持統/称制3年(689年)に飛鳥浄御原令が頒布されました。しかし律が完成しておらず、国情に適合させるために改訂作業が続いていました。刑部(忍壁)親王、藤原不比等、粟田真人、下毛野古麻呂らは共同して作業を進め、文武4年(700年)に令がほぼ完成します。

文武5年(701年)3月、対馬から黄金が献上されたとして「大宝」と改元します。とはいえ天武末年(686年)の朱鳥から15年も元号は使用されておらず、律令制に基づく新国家「日本」の建設に合わせての建元でしょう。

大宝元年8月3日、ついに律6巻・令11巻からなる律令が完成し、同年から翌年にかけて全国へ頒布されました。また学者を各地へ派遣して律令について講義させ、官吏への浸透を図ります。一般に元号から「大宝律令」と呼ばれますが、当時は「新律」「新令」と呼ばれていました。のち養老2年(718年)には不比等が補足と再点検を行い「養老律令」としますが、その施行は天平宝字元年(757年)になります。

大宝律令は原文が現存せず、『続日本紀』『令集解』などに逸文として残存しますが、現存する養老律令はおおむね大宝律令の引き写しですから、これをもとに復元可能です。その「儀制令・天子条」に「祭祀では天子、詔書では天皇、華夷(国内外)に対しては皇帝と称する」とあり、ついに天皇が公的に「日本国」の君主の称号となったのです。

天皇の下には神祇官・太政官の二官が置かれ、太政官は中務・式部・治部・民部・大蔵・刑部・宮内・兵部の八省に分けられ、地方行政区画は国・郡・里の三段階に分けられます(国郡里制)。60余の令制国は五畿七道に分けられ、中央から派遣される国司らが任命されます。国造や県主は残されたものの祭祀を司る名誉職となりました。こうして天皇を中心とし、国家官僚と文書行政を基盤とする中央集権型の統治体制が確立したのです。

この年、文武天皇と藤原宮子の間に皇子が誕生し、首(おびと)と名付けられました。のちの聖武天皇です。第一皇子の外祖父として、藤原不比等の権威は高まりました。さらに同年には、不比等と県犬養三千代の間に女子が誕生し、安宿(あすかべ)媛と命名されました。のちの光明皇后です。

粟田真人

同年には遣唐使(当時は武則天の周ですが)の再開も決定され、粟田真人を遣唐執節使に任命して節刀を授けました。しかし風浪が激しく渡航できず、参議に任じられた後、大宝2年(702年)6月に改めて出発しました。

粟田氏は春日氏の一派で朝臣の姓を持ちます。粟田真人は少年期に出家して道観と号し、白雉4年(653年)には学問僧として入唐しています。のち還俗して天武・持統朝に仕え、大宰大弐を経て、大宝律令編纂に携わりました。50年前に10代前半としても既に60歳を越え、三代に仕えた重臣です。彼は自ら編纂した大宝律令を携えており、対等の文明国として唐(周)との国交を回復し、倭国から日本に改称したと伝える重要な使命を担っていました。

初至唐時、有人來問曰「何處使人」。荅曰「日本國使」。我使反問曰「此是何州界」。荅曰「是大周楚州塩城縣界也」。更問「先是大唐。今稱大周。國号縁何改稱」。荅曰「永淳二年(683年)、天皇太帝(高宗)崩。皇太后(武則天)登位。稱号聖神皇帝。國号大周」。問荅畧了。唐人謂我使曰「亟聞、海東有大倭國、謂之君子國。人民豊樂、禮義敦行。今看使人、儀容大淨、豈不信乎」。語畢而去。(続日本紀・文武紀三

楚州塩城県(江蘇省塩城市)に上陸した一行は、唐周革命のことも知りませんでしたが、大宝3年(703年、周の長安3年)に京師(長安)へ到着し、武則天に謁見しました。真人は進徳冠という上が花弁のように4つに開いた冠をつけ、紫の袍(上着)を纏い、絹布を腰帯にするという優雅な出で立ちで現れ、立派な風貌と奥ゆかしい振る舞い、見事な漢文知識で居並ぶ人々を驚かせました。武則天は彼に司膳卿という名誉職を与えています。

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者、猶中國戶部尚書、冠進德冠、其頂爲花、分而四散、身服紫袍、以帛爲腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止溫雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。(旧唐書・日本伝)
[大足元年]冬十月、幸京師、大赦天下、改元為長安。[長安]二年(702年)…冬十月、日本國遣使貢方物。…三年…京師大雨雹、人畜有凍死者。冬十月丙寅、駕還神都。乙酉、至自京師。(旧唐書・則天皇后紀

武則天は周の首都を洛陽に置き「神都」と呼びましたが、長安も「京師」として複都制にしています。長安元年10月に京師へ行幸し、長安3年10月には京師から神都へ還っているため、日本国使が武則天に謁見したのは長安のようです。粟田真人は少年の頃に来たといっても半世紀ぶりですから様変わりしていたでしょうし、知識も経験も積んでいます。

彼らがその目で見た長安や洛陽は、世界帝国の首都として空前の繁栄を迎えていた絢爛たる国際都市でした。武則天が重んじた仏教の寺院はもちろん、道教の寺院(道観)、西域から伝来した祆教(拝火教、ゾロアスター教)の寺院(祆祠)、シリアに総本山を置くネストリウス派キリスト教(景教)の寺院・大秦寺、さらには明教(マニ教)の寺院・大雲寺も建立されており、ソグド語やアラム語、テュルク語などが飛び交っていたことでしょう。

規模でも人口でも、文明度でも文化でも、紀元前から積み重ねてきた歴史の長さでも、辺境の島国に過ぎない日本の倭京や新益京が逆立ちしても及ぶものではありません。また『周礼』や新益京とは異なり、宮城は都城の北端中央に置かれるのが通例となっており、律令も不備を補うため格式を制定するなど柔軟な運用がなされていました。さすがは先進国です。粟田真人らは必死にこれらを学び取り、帰国後の国制改革を担うことになります。

ついでに、この頃の世界情勢を見てみましょう。

国際情勢

7世紀から8世紀初頭にかけて、世界は大きく動いていました。アラビア半島に突如興ったアラブ・イスラーム勢力は、ペルシアと東ローマ帝国が相次ぐ大戦で疲弊したのを好機としてシリア・エジプト・メソポタミアを奪い、爆発的に勢力を拡大しました。サーサーン朝ペルシア帝国は崩壊し、皇子ペーローズ(卑路斯)は唐の長安に亡命しています。

イスラーム帝国は数十年でインダス川からイベリア半島までを征服し、ウマイヤ朝のカリフが君臨していました。唐ではこの国をペルシア側の呼称から「大食(タージ)」と呼んでいます。

同じ頃、チベット高原にはソンツェン・ガンポ王のもとで吐蕃(チベット帝国)が勃興しました。唐とは国交を結びつつ、青海の吐谷渾を巡って争い、641年には唐の皇女・文成公主を息子の妃に迎えています。649年頃にソンツェン・ガンポが逝去し、文成公主の子が後を継ぐと、宰相のガル・トンツェン(禄東賛)が国制改革を行い、唐に匹敵する強国となりました。ガル氏はその後も権勢を振るいますが、699年に国王に滅ぼされています。

北方では、682年に突厥の阿史那骨咄禄(アシナ・クトゥルグ)が自立してイルティリシュ・カガンと号し、唐の羈縻支配を離れて突厥を再興します。彼の弟・默啜(カプガン・カガン)はしばしば周を脅かし、「武氏が帝位についているのはけしからん、唐の李氏に戻せ」とクレームをつけています。西突厥は一応羈縻支配下にありますが衰退しており、テュルク系の別の部族連合・突騎施(テュルギシュ)に取って代わられています。西突厥の西端にいたハザール部族は自立してハザール・カガン国となりました。

696年には遼西の松漠都督府(朝陽)で契丹人の反乱が起き、これに乗じて粟末靺鞨の乞乞仲象乞四比羽が高句麗の遺民を率いて反乱します。やがて乞乞仲象の息子・大祚榮は東へ移動し、高句麗の故地である東牟山(吉林省敦化市)に本拠地を置いて「震国」を建国しました。とは八卦図において東を表します。のち震国王大祚榮は唐の冊立を受けて渤海郡王となり、孫は渤海国王に封じられているため、この国を「渤海国」と呼びます。

箔付けのためもあって高句麗の後裔と称していますが、たぶん王族は粟末靺鞨で、対外用に漢風の姓氏を名乗ったのでしょう。実際に高句麗の故地に存在し、高句麗の遺民もいるので全くの嘘とも言えません。靺鞨を従えて北には高句麗より広がったものの、遼東半島や平壌は手に入れ損ないましたが、唐の文化を取り入れて「海東の盛国」と呼ばれるほど栄えました。727年からは日本海を渡って日本と頻繁に使者をやり取りするようになります。

その南の新羅では、681年に文武王が薨去すると子の神文王が立ち、ついで692年に孝昭王が5歳で即位します。震国の建国もあって唐との関係は改善し、699年には遣唐使を再開しました。702年に孝昭王は薨去し、弟の聖徳王が即位しています。

女帝崩御

大宝2年(702年)12月、持統上皇は病気に罹り、58歳で崩御しました。一年間の殯(もがり)ののち、薄葬令に従って天皇としては初めて火葬され、遺灰は銀の壺におさめられて、夫の天武と同じ檜隈大内陵(野口王墓)に埋葬されました。喪が開けた大宝4年(704年)、成人した文武は瑞兆により慶雲と改元し、時代が変わったことをアピールしました。

慶雲元年、粟田真人らは白村江の戦いで捕虜になっていた倭国(日本)人を連れて帰国の途につき、7月に五島列島福江島の玉之浦に漂着します。10月には都に戻って拝朝し、功績により田20町と穀1000石を賜りました。

この頃、武則天は老齢で病臥しがちになったため、宰相の張柬之は兵を発して佞臣の張易之・張昌宗兄弟を斬ると、武則天に則天大聖皇帝の称号を奉る代わりに李顕への譲位を迫ります。神龍元年(705年)2月に武則天は退位し、李顕(中宗)が復位して唐の国号を復活させ、周は一代で滅びました。翌年、武則天は82歳で崩御し、高宗と合葬され、遺詔により帝号を取り去って則天大聖皇后と称されました。ひとつの時代が終わったのです。

そして、同時期に日本では粟田真人らによる「慶雲の改革」が始まります。平城京への遷都もこの中で議論され、実行に移されることになりました。『古事記』『日本書紀』の完成はもうすぐです。

◆慶雲◆

◆機忍◆

【続く】

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