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【つの版】度量衡比較・貨幣19

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 世界帝国モンゴルはアフロ・ユーラシア大陸の交易路を結びつけ、莫大な富が世界中から帝都に集まり、また流れ出していくシステムを構築します。遠くヨーロッパにもその影響は及び、商業と経済を活性化させ、現代資本主義社会の基盤が形成されたのです。中世ヨーロッパの貨幣と経済について見ていきましょう。中世と言っても長いので、今回は十字軍以前です。

◆VINLAND◆

◆SAGA◆

佛蘭幣制

 476年に西ローマ帝国が消滅し、欧州はいわゆる中世を迎えます。中世初期/古代末期には、西ヨーロッパでも東ローマ帝国のソリドゥス/ノミスマ金貨が広く流通していました。トラキアやアナトリア、エジプトからもたらされる黄金によって純度は高く、国際的な基軸通貨として信頼されたのです。

 しかし6-7世紀にかけて東ローマは対外戦争を続け、疲弊したところをイスラム勢力に攻め込まれ、エジプト・北アフリカ・パレスチナ・シリアを失いました。アナトリアとトラキア、ギリシア、南イタリアとシチリアは確保したものの、地中海の覇権はイスラム帝国に奪われてしまいます。8世紀初めにはイベリア半島の西ゴート王国もウマイヤ朝イスラム帝国に征服され、シチリアやイタリア、南フランスも危うくなります。

 現在のフランスとドイツ西部、ベルギーなどを支配していたフランク王国では、6世紀頃から東ローマを真似て王名入りの金貨を発行するようになりましたが、造幣権を王が独占できなかったこともあり品質も重量もまちまちで、ソリドゥスや純金ほどの信頼は得られていません。ただソリドゥスは高額なため、1/3ソリドゥスのトレミシスが西欧諸国に広く流通しました。7世紀後半には金が不足して1gほどのデナリウス銀貨が発行されたものの、ブリタニアで発行された銀貨の方が質がいいぐらいでした。

 この頃にはフランクやゴート、アングロサクソンなどの諸王国でラテン語による法典が作成され、1ソリドゥス(S)=40デナリウス(D)と定められています。1Sが15万円とすれば1Dは3750円です。フランク王国の『サリカ法典』によれば子豚の窃盗の罰金は40D=1S、乳飲みの豚は120D(3S=45万円)、2歳の豚は600D(15S=225万円)、牛は1400D(35S=525万円)。他人をオカマとかクソ野郎と呼べば120D、偽証や中傷は600D、手を傷つけたら2500D(62.5S=937.5万円)。殺人の賠償金は、一般のローマ人なら4000D(100S=1500万円)、フランク人は8000D(200S=3000万円)、女子供や国王の従士なら2.4万D(600S=9000万円)などとなっています。

 751年、カロリング朝フランク王となったピピン3世は、経済活性化を背景として754年に貨幣改革を行います。彼は金貨の発行を停止し、デナリウス銀貨を基軸通貨と定めました。ソリドゥスは計算単位としてのみ残され、240D=20S=銀1リーブラに当たると定められます。当時の1リーブラ(リーブラ・ポンドゥス)は327gですから、1デナリウスは銀1.36gに相当します。

 これは東ローマの1ノミスマ=12ミリアレンセ=180フォリスを採用したもので、ミリアレンセをデナリウスにしただけです。しかしこれまでは40デナリウスで1ソリドゥスだったのですから、3倍以上に価値が上がっています。和同開珎めいた通貨発行益を狙ったものでしょうか。

 768年、ピピンの跡を継いでフランク王となったカールは、781年に貨幣鋳造権を国王に限定し、1リーブラを408gに引き上げてデナリウスを1.7gに増量しました。793-794年には1リーブラを491gに引き上げ、1デナリウスを2gに増やして「新デナリウス」としました。また飢饉が起きたことから勅令を発して物価統制をはかり、1ミュイ(209リットル)につき燕麦なら1D、大麦2D、ライ麦3D、小麦4Dと定め、1Dにつき2リーブラ(654g)の燕麦のパンが25個、ライ麦パン20個、大麦パン15個、小麦パン12個と定めました。

 銀1gは古代から近世初期まで現代日本での3000円ほどの価値がありますから、1新Dを6000円とすれば、小麦のパン1リーブラ(斤)が500円、大麦なら400円、ライ麦なら300円、燕麦なら240円となります。のちリーブラやDは縮小していき、Dは結局1-1.67gほどの重量で推移しました。とすると1Dは3000-5000円です。仮に1D=5000円とすれば1S=12D=6万円1リーブラ=20S=240D=120万円です。これぐらいでしょうか。

 フランク王国が発行した貨幣はこのデナリウスと、少額貨幣の需要に応えるため半分にしたオボルスだけです。同時期にブリタニアのマーシア王国でも同様の貨幣制度が定められ、互いの交易が盛んになりました。

 この「1リーブラ=20ソリドゥス=240デナリウス」という計算式は、その後も長く西欧諸国の貨幣の基本単位となりました。各国語ではそれぞれ訛り、イタリアではリラ・ソルド・デナロ、フランスではリーヴル・スー/ソル・ドゥニエ、英国ではポンド・シリング・ペニー/ペンス、ドイツではプフンド・シリング・プフェニヒです。

 ポンドやプフンドはラテン語リーブラ・ポンドゥスのポンドゥスが訛ったものですが、シリング(shilling,schilling)はゲルマン諸語で「分割されたもの」を意味し、ポンドを20に分割したことから計算単位として定められたものです。ペンス/ペニー(pence/penny)もデナリウスの訛りではないようですが、語源は定かでありません(「かけら」や「重さ」を意味するとも)。それぞれのイニシャルによらず、英語ポンドは£(リーブラ)、シリングはs.(ソリドゥス)、ペニーは1971年までd.(デナリウス)が略字です。

 814年にカールが崩御すると、その帝国は三人の息子たちによって分割相続され、せっかくの統一は失われます。中央集権もうやむやになり、各地の領主や教会は勝手に独自の貨幣を発行して流通させるようになりました。同じドゥニエでもパリとトゥールアンジュートゥールーズなどで貨幣価値が違うようになったのです。イスラム世界に近いトゥールーズなど南フランスの方が経済的にも先進的で、北部より大きめの銀貨を使っていました。

北狄襲来

 また分裂の隙をついて北方からデーン人(ノルマン人)が、南方からサラセン人(イスラム教徒)が、東方からマジャル人が西欧諸国を襲撃するようになり、多くの金銀財宝が掠奪され、身代金や貢納として収奪されます。特にデーン人によって課された貢納、あるいはデーン人にみかじめ料を支払うための現地勢による税金を「デーンゲルド(デーン税)」と呼びます。

 古くは810年頃、デンマーク王ゴズフレズが北フリジア(オランダ)の住民に銀100リーブラ(1.2億円)を貢納させたといいますが、彼は同年傭兵に殺されています。その後もデーン人の侵入と貢納要求は増え、傭兵として雇われるデーン人も現れます。862年、ヴォルムスガウ伯ロベール4世(カペー家の祖)はヴァイキングの船団を銀6000リーブラ(72億円)で雇い、ブルターニュ公サロモンの領地を襲わせています。9世紀末にパリを襲ったデーン人(ノルマン人)4万への立ち退き料は700リーブラの黄金で、金が銀の10倍の価値とすれば銀7000リーブラ(84億円)です。

 特に被害が大きかったのがブリタニア/イングランドで、878年にはイングランド東部に「デーンロウ」という入植地を作り、みかじめ料を取り立てています。991年にモルドンの戦いで敗れたイングランド王エゼルレッド2世は1万ポンド(120億円)もの銀を支払って和平していますが、その後もデーン人は繰り返しイングランドを襲撃し、多額の銀をせびり取りました。

 1007年には3.6万ポンド、1012年には4.8万ポンドもの銀が支払われ、エゼルレッド王は駆逐されて死に、イングランド全土はデンマーク王スヴェン、次いでその子クヌートのものとなります。イングランド諸侯は大王クヌートへ7.2万ポンド(864億円)を貢納しました。さらにクヌートはデンマークとノルウェーの王を兼ね、北海帝国を築き上げました。1035年にクヌートが没するとエゼルレッドの子エドワードが帰国して即位しますが、1066年にエドワードが没すると後継者争いが起き、ノルマンディー公ギヨームが入国して国王となります。こうしてイングランドはノルマン人に支配されました。

 この頃のゲルマン諸国では、マルク(mark、刻印)という計量単位が使われています。1マルクはおおむね8オンス(233g)で、ポンドの半分ほどでした。銀1gを3000円とすると、1マルクは70万円、1オンス/エイリル/バウグ(29g)は8.75万円となります。デーン人は銀で腕輪を作って身につけ、装身具かつ財産としていました。支払う時はこれを腕から抜いて渡すか、折り取って差し出したのです。黄金は銀の8倍の価値で見積もられました。

 中世北欧の叙事詩や記録によると、ノルウェーの農場1つが安く見て15マルク(1050万円)、富農の遺産が銀にして288エイリル=36マルク(2520万円)。幽霊が出るので荒れ果てていた農場が3マルク(210万円)で女奴隷一人ほど。殺人の賠償金は5-10マルク(350万-700万円)ないし牝牛20-40頭。地方豪族に与えられた租税徴収権が12-20マルク(840万-1400万円)です。

 ヴァイキングは東方のバルト海やドニエプル川、ヴォルガ川流域にも進出し、ルーシ(櫂を漕ぐもの)と呼ばれました。彼らは船を担いで川から川へ移動し、交易や掠奪を行いながら東ローマやハザールを目指したのです。ルーシはマルクに相当する銀のグリヴナ(grivna、首飾り)を通貨単位とし、毛皮や奴隷、琥珀などを交易品としていました。特に毛皮は森林地帯から古来貢納として集められ、銀と並んで通貨となってもいます。

 グリヴナの重さは地域や時代により変化しますが、おおむね200g前後で半ポンドに相当し、銀1g3000円で換算すれば60万円です。熊や狼のような大型動物の毛皮はノガタ(nogata)といい、キエフ・ルーシの法典では20枚で1グリヴナでした。銀に換算すれば1ノガタ10g(3万円)です。テンなどの毛皮はクナ(kuna、輝く)といい、古くは1/4グリヴナ(15万円)もの価値がありましたが、次第に値段が下がって1/25グリヴナ(銀8g=2.4万円)となり、その半分(銀4g=1.2万円)をレザナ(カットしたもの)と呼びました。リスの毛皮はベクシャ(veksha)といい、銀2g(6000円)に相当しますが、これも時代と地域により価値が変動しています。

 現ウクライナの通貨はフリヴニャといい、グリヴナが訛ったものです。ロシアの通貨ルーブル(ruble)の語源はラテン語リーブラ(libra)ではなく、スラヴ諸語で「切断されたもの」を意味し、銀塊をカットして秤量貨幣としていたためです。またクロアチアの通貨クーナはクナに由来します。

◆VINLAND◆

◆SAGA◆

 これらヴァイキングの活動により、イスラム世界からは大量のディルハム銀貨が北欧へ流れ込み、西欧の銀は北欧を通じて東へ流れ、やはりイスラム世界へと流れ込みました。地中海にもノルマン人が進出し、東ローマとイスラムが争っていたシチリアや南イタリアを攻撃します。盛んな交易や戦争、掠奪によって、経済は活性化し、商業が盛んになります。そして11世紀末に始まる十字軍運動によって、西欧経済は大いに沸き立つことになりました。

【続く】

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