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【つの版】倭国から日本へ03・磐井の乱

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

507年に河内楠葉宮で即位した継体天皇(ヲホド大王)は、511年に山背筒城宮、518年に山背乙訓宮、526年に大和磐余玉穂宮へ遷りました。この20年間に、チャイナや半島はどうなっていたでしょうか。

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北魏の混乱

515年に北魏の宣武帝が崩御して6歳の皇太子元詡(孝明帝)が即位すると、専権を振るっていた外戚の高肇(高句麗人)は誅殺され、皇太后の胡氏が実権を握ります。彼女は安定郡(甘粛省慶陽市)出身の漢人貴族の娘で、仏教に深く傾倒しており、あまり政治力のある人物ではありませんでした。同年6月には仏教系カルト教団(教匪・妖賊)の大乗教が教祖法慶のもと河北省で反乱を起こし(大乗の乱)、7月に鎮圧されたものの多くの犠牲者を出しました。まさに末法の世ですが、これは序の口です。

523年、旧都・平城の北方で国境を守る軍団であった内モンゴルの「六鎮」が反乱を起こします(六鎮の乱)。首都を守る名誉ある軍団であったのに、首都が洛陽に遷ってからは辺境の警備兵として見下されるようになり、30年・一世代ぶん蓄積していた不満がついに爆発したのです。沃野鎮で起きた反乱は次々に飛び火し、北魏全土を揺るがす大反乱に発展していきました。

柔然の可汗(君主)である阿那瓌は「北魏を救援する」と称して六鎮に攻め寄せ、525年から527年にかけては北京周辺や江蘇省北部で反乱が相次ぎ、南朝梁も介入してきます。将軍の爾朱栄は各地の反乱を平定してその兵力を吸収し、528年に娘を孝明帝に嫁がせます。焦った胡太后は孝明帝を毒殺し、幼女や幼児を即位させて権力を取り戻そうとしますが、爾朱栄は胡太后らを黄河に投げ込んで殺し(河陰の変)、元子攸(孝荘帝)を擁立して実権を掌握しました。北魏は滅亡へ向かってひた走っていきます。梁は好機に乗じて北伐を行い、529年には一時洛陽を奪還することに成功しました。

半島情勢

高句麗では519年に王の高雲(文咨明王)が薨去し、北魏から車騎大将軍を追贈され、子の高安(高興安、安臧王)が即位しました。520年2月には梁から寧東将軍・都督営平二州諸軍事・高句麗王に冊立されますが、梁の使者は海上で北魏兵に捕獲され、北魏は9月に安東将軍・領護東夷校尉・遼東郡開国公・高句麗王として安を冊立しています。『梁書』には普通7年(526年)に薨去し子の延が継いだとしますが、『三国史記』では531年に薨去し弟の宝延(安原王)が継いだとします。どちらか定かではありません。しばしば百済を攻撃して勝利したものの、かつての勢いは失われています。

新羅では514年に智証王が薨去し、子の原宗(法興王)が跡を継いでいますが、『梁職貢図』や『梁書』では521年に新羅が初めて朝貢使節を送ったと伝え、その王を「姓は募、名は秦」としています。この件は「新羅建国」の記事で触れましたのでそちらをご覧下さい。新羅の使者は百済の使者に随伴しており、両国はまだ比較的友好関係にあったようです。

磐井の乱

継体紀に戻ると、ヤマト遷都の翌年に事件が起きています。

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣率衆六萬、欲往任那爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年、恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍。
継体21年(527年)6月、近江毛野臣が兵6万を率いて任那へ行き、新羅に破られた南加羅(金官国、金海)・喙己呑を復興して、任那(倭国の勢力下にある南韓諸国)に合わせようとした。この時、筑紫国造の磐井(いわい)が密かに叛逆を企てたが、躊躇して年を経、事が成り難いのを恐れて常に間隙を伺っていた。新羅はこれを知り、密かに磐井へ賄賂を贈り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた。

えらいことです。この頃、新羅は百済と友好関係を結び(倭国とも間接的には結び)、国制を近代化して列強に対抗しようとしていました。そして百済に全羅道を奪われて弱体化した任那へ勢力を伸ばし、幾つかを服属させていたのです。倭国からすれば百済が友好国として発展するのは歓迎しますが、長年の交易相手で渡来帰化人も多い任那が脅かされるのは困ります。新羅には領土的野心を持たず、慶州付近の小国でいてくれないと困るのです。まあ新羅が倭国に友好的ならいいのですが、高句麗や百済や任那と結んで反倭的行動に出られると、倭国はとても困ります。

任那と伽倻(加羅)については、ややこしいので次回詳しくやります。

このため、391年以来新羅は倭国にとって厄介な存在でした。かつて卑彌呼の時代、邪馬臺國を盟主とする倭国連合が、熊本北部の小国に過ぎない狗奴國に北部九州を脅かされて騒動になったことがあります。それを新羅は半島側から加羅諸国を脅かすことで、恒常的にしでかしているのです。狗奴國のように倭国連合に取り込んでしまえばいいのですが、新羅は高句麗との関係も強いため取り込めず、征服すれば高句麗が攻めて来るでしょう。

新羅からすれば、倭国は自治独立を脅かす大国です。せっかく領土を広げても、この地域の覇権国である倭国が軍事介入してもとに戻してしまうため、不満が溜まるのは当然です。ついに新羅は倭地の地方豪族と手を結び、任那における新羅の権益を守ろう、拡大しようと動いたのです。

於是、磐井、掩據火豐二國、勿使修職、外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍。
ここにおいて、磐井は火国(肥前・肥後、長崎県と熊本県)、豊国(豊前・豊後、福岡県東部と大分県)を占拠して(貢納の)職務を果たせぬようにした。国外では海路を遮断して高句麗・百済・新羅・任那などの国が毎年貢物を送る船を誘致し、国内では任那に遣わされる近江毛野の軍を遮った。

北部・中部の九州諸国が倭国から切り離されました。磐井は「筑紫国造」ないし「筑紫君」として筑紫国(筑前・筑後、福岡県の大部分)を抑えています。かつての倭奴國(伊都國・奴國連合を中核とする北部九州諸国連合)に含まれていた地域を磐井が抑え、ヤマトにいる倭国王に逆らったのです。

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「筑紫」という地名は魏志倭人伝に出て来ず、伊都國・奴國などがあるだけですが、『隋書』倭国伝には「竹斯國」が現れます。この間に筑紫という地名概念が作られ、豊国や火国とは違う領域として設定されたわけです。前方後円墳や土器の分布からも文献記録上でも、ヤマトを中心とする畿内が北部九州に勢力を及ぼした形跡はあっても、北部九州が独立国としてヤマトの影響を受けずに存在していた形跡はありません。筑紫国造の祖は孝元天皇の子で四道将軍の大彦命とされています(後付かもですが)。

筑紫の語源は定かでありませんが、豊国や火国や日向国と同じく「ヤマト倭国が」命名して区分した行政区域に過ぎず、各々の地域を統治する独立政権は存在しませんでした。魏志倭人伝の時代、既に伊都國に一大率が置かれ諸国を監督しているのですし、300年を経て倭国王の権力も軍事力も強まった6世紀にはなおさら支配力は強まっていたでしょう。それでも国造や君、県主ら地方豪族は、しばしば連合して倭国王に逆らうだけの地盤を持つ地方勢力ではあったのです。九州王朝は幻想でも、それぐらいは可能です。

亂語揚言曰「今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前。」遂戰而不受、驕而自矜。是以、毛野臣乃見防遏、中途淹滯。
(磐井は毛野に対して)無礼な言葉を大声で公言した。「今は(倭王の)使者(将軍)となっているが、昔はおれの仲間(伴)で、肩肘をすり合わせて同じ釜の飯を食った仲ではないか。お前が使者になったからとて、おれがお前にひれ伏すとでも思ったか!」ついに戦って降伏勧告を受け付けず、驕り高ぶっていたので、毛野は先へ進むことができなかった。

磐井は筑紫の地方豪族で、毛野は近江の地方豪族です。両者が肩肘をすり合わせて同じ釜の飯を食うには、大王の宴席や各地の戦場で横に並ぶという共通の体験がなければなりません。埼玉県行田市稲荷山古墳出土鉄剣銘文などから、地方豪族の子弟が都に赴いて大王に仕え、中央の政治状況を把握するということは行われていたようですから、磐井や毛野もそのような時期があったのでしょう。「筑紫の大王である磐井様はそんなことしない!日本書紀編纂者のしわざだ!」とか言われても困りますが。

ともかく毛野は筑紫島(九州)に入れず、このままでは任那へ渡って新羅を責め、南加羅などを復興するという目的を果たせません。倭国中央政府はどう対処するのでしょうか。

磐井討伐

天皇、詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井反、掩有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再拜言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰、拯民塗炭、彼此一時、唯天所贊、臣恆所重、能不恭伐。」詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命、社稷存亡、於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」
天皇は大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らに詔をして言った、「筑紫の磐井が反乱し、西戎の地(九州)を占領した。今、誰を(磐井討伐軍の)将軍とすべきか」。大伴らは答えて「正直・仁勇で兵事に通じているのは、麁鹿火の右に出る者はありません」。天皇は「よし」と言った。云々。

長々と麗しいチャイナめいた漢文が並べ立てられていますが、このくだりは『芸文類聚』という唐初の類書(語彙事典)のコピペです。下のページで太字を検索してハイライトしてみて下さい。

今予發、惟恭行天之罰。今日之事、弗諐于六步七步、乃止齊焉、夫子勗哉、弗諐于四伐五伐、六伐七伐、乃止齊焉。帝曰、禹、惟茲有苗弗率。汝徂征。禹乃會群后、誓于師曰、濟濟有衆、咸聽朕命。蠢茲有苗、昏迷不恭侮慢自賢、反道敗德。君子在野、小人在位、民棄不保、天降之咎、肆予以爾眾士、奉辭伐罪。(尚書)
朝發鄰城、夕宿韓陵、霖雨讖塗、與人困窮。載馳載驅、沐雨櫛風、舍我高殿、何為泥中。在昔周武爰暨公旦、載主而征、救民塗炭。彼此一時、唯天所讚、我獨何人、餘不靜亂。(詩経)
良將之軍也、恕己治人、推惠施恩、士力日新。戰如風發、攻如河決。(黃石公三略)
大將、民之司命、社稷存亡、於是乎在。(抱朴子)
馮唐文帝曰、天下之將、獨有廉頗李牧耳。上曰、嗟乎、吾獨不得廉頗李牧為將。唐對曰、臣聞上古王者遣將也、跪而推轂曰。闑以內寡人制之、闑以外將軍制之。軍功爵賞、皆決於外。(漢書)

小賢しくも少し改変していますが、この程度は巻子を紐解けばわかります。「長門から東は朕が統治するが、筑紫より西は専断に任せる」というくだりも、「物部氏が筑紫を統治していた!」とかいう与太話ではなく、『漢書』の馮唐と文帝の問答のコピペです。また『史記』燕召公世家には「自陜以西召公主之、自陜以東周公主之」とありますし、『孫子兵法』に「将軍が君主から命令を受けて出陣する時、君命であっても危険な地を通るな」とありますから、将軍にある程度の専断の権利をもたせるのは古今東西で当然です。要するに単なる古典を引用した言い回しに過ぎず、物部氏が筑紫を統治したという状況は存在していません。監視のために駐留軍は残したでしょうが、麁鹿火は戦後処理をしたのちヤマトに帰っています。

ここでいう筑紫は筑紫島(九州島)のことでしょう。筑紫国とすれば長門と筑紫の間の豊国が宙ぶらりんになります。
廿二年冬十一月甲寅朔甲子、大將軍物部大連麁鹿火、親與賊帥磐井交戰於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井、果定疆場。十二月、筑紫君葛子、恐坐父誅、獻糟屋屯倉、求贖死罪。

継体22年(528年)冬11月、大将軍の物部麁鹿火は、筑紫の御井郡(筑後国御井郡、現福岡県久留米市周辺)で自ら磐井と戦いました。「旗鼓相望、埃塵相接、決機兩陣之間、不辭(避)萬死之地」は例によって『芸文類聚』武部からのパクリですが(北魏の文人・温子昇の上表文にあります)、磐井はこの戦いで戦死し、乱は鎮圧されました。

12月には磐井の子である筑紫君葛子(くずこ)が出頭します。彼は父の罪に連座して処罰されるのを恐れ、糟屋屯倉(福岡県糟屋郡の土地)を献上して死罪を贖うことを求めました。もともと天皇の直轄地である屯倉を献上するというのもおかしいですから、献上された土地を屯倉に定めた、というのを略しただけです。この年の記事はこれで終わっており、翌年から再び百済・新羅・任那に関するゴタゴタが続いています。筑紫君・筑紫国造はその後も存続していますから、葛子は許され、麁鹿火が戦後処理をしたのでしょう。

『古事記』では磐井の乱に関してこう記します。

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而、殺石井也。(古事記・継体記)

これだけです。麁鹿火(荒甲)だけでなく大伴金村も派遣されたことになっていますが、新羅が磐井に賄賂を贈ったとか近江毛野がどうとかは全く記されていません。日本書紀の編纂者が無駄に漢文の素養を発揮しただけで、この程度の騒ぎだったのかも知れません。それでも中央豪族が出向いて鎮圧するほどには、おおごとではあったのでしょう。

磐井の墓

『釈日本紀』に引用された『筑後国風土記』逸文には、磐井のことが記されています。

磐井之墓:上妻縣。縣南二里、有筑紫君磐井之墓。墳高七丈、周六十丈、墓田南北各六十丈、東西各卅丈。石人石盾各六十枚、交陣成行、周匝四面。當東北角、有一別區。號曰衙頭。【衙頭、政所也。】其中有一石人、縱容立地、號曰解部。前有一人、裸形伏地、號曰偷人。【生為偷豬、仍擬決罪。】側有石豬四頭、號曰賊物。【賊物、盜物也。】彼處亦有石馬三疋、石殿三間、石藏二間。
上妻県(かみつやめのあがた、筑後国上妻[こうづま]郡、現福岡県八女市・筑後市付近)。県の(県庁の)南2里(唐里は540m、2里は1km余)のところに筑紫君磐井の墓がある。墳の高さは7丈(唐尺1丈は3m、7丈は21m)、周囲は60丈(180m)、墓域は南北各60丈、東西各30丈(90m)。石人・石盾が各々60枚あり、交互に陣を成して周囲四面を守っている。東北の角に別区があって衙頭(役所)という。その中に石人が一つあり、立っているのは解部(裁判官)、その前に裸で地に伏しているのは偷人(盗人)と呼ばれる。傍らに石の豚が4頭あり、これが盗品だという。そこにまた石馬三疋、石殿三間、石蔵二間がある。

これは福岡県八女市吉田の岩戸山古墳に比定されます。墳丘長135m、古墳総長170m以上の前方後円墳で、年代は6世紀前半、大きさも別区も石人・石馬なども風土記に書かれた通りです。北部九州では最大であり、磐井の墓にほぼ間違いありません。この地には4世紀前半から7世紀前半まで古墳300基を含む八女古墳群があり、筑紫君一族の墓に相当すると考えられています。

古老傳云「當雄大迹天皇[繼體]之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。生平之時、預造此墓。俄而官軍動發、欲襲之間、知勢不勝、獨自遁于豐前國上膳縣、終于南山峻嶺之曲。於是、官軍追尋失蹤。士怒未泄、擊折石人之手、打墮石馬之頭。」古老傳云「上妻縣、多有篤疾、蓋由茲歟。」
古老が伝えていうには、「雄大迹(ヲホド)天皇の世に、筑紫君磐井は強く暴虐で、天皇の命令に従わなかった。生きていて平和な時にこの墓を造ったが、にわかに官軍が襲いかかると、勝てぬと悟って独りで逃げ、豊前国の上膳県(上毛郡、福岡県豊前市)へ逃亡した。そのまま南の山の中へ身を隠してしまい、官軍が追跡したが見失ってしまった。兵士たちは怒りのやり場がなく、石人の手を撃って折り、石馬の頭を打って落とした」。また古老が伝えていうには、「上妻県に病人が多いのは、このせいであろう」と。

古老の伝説です。しかし筑後と豊前では随分離れており、磐井が豊前で麁鹿火の軍を迎え撃ったとしても、本拠地たる筑後で戦わず独りで山の中へ逃げたとは奇妙な話です。上膳県と上妻県を取り違えたのではないでしょうか。「磐井は官軍に殺されなかった」「官軍が石人石馬を壊して祟りを招いた」というのは、地元住民の願望的な伝説でしょう。平和に暮らしていた磐井が突然ヤマトに襲撃された、という被害者的な言説も既に見えます。

地元住民からすれば、磐井は横暴な中央政権に逆らった地元の(九州の)英雄かも知れませんが、倭国からすれば新羅と結んで独立を図った逆賊です。外国と手を組まなかっただけ平将門の方がまだマシです。磐井が新羅と組んで独立したとしても、筑紫は半島・大陸と倭国中枢を結ぶ重要拠点であり、早晩潰されるのは目に見えています。吉備や出雲も同調すれば違ったでしょうが、結局そうはなりませんでした。邪馬台国九州説や東遷説、九州王朝説の信者には、磐井を筑紫の王として持ち上げる向きがありますが、反中央・反体制に酔って安易に地方独立を歌い上げるのもどうかとつのは思います。

◆石◆

◆人◆

さて、磐井の乱というトラブルはありましたが、近江毛野派遣の本来の目的は任那の復興です。磐井を唆して反乱させた新羅は、倭国にとって完全に敵に回りました。百済は友好国ですから、これを味方として新羅に対抗するのがよいでしょう。毛野は果たしてうまくやってくれるでしょうか。

【続く】

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