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【つの版】倭の五王への道12・辛卯年

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

百殘新羅、舊是屬民由來朝貢、而倭以辛卯年來渡海破百殘、□□、新羅以為臣民。(好太王碑文)

西暦391年、60年干支では辛卯の年、高句麗に好太王が即位しました。そして好太王碑文によれば同じ年、倭が渡海して百済や新羅を破り、臣民としました。好太王は即位6年目に百済を撃ち、大いに破って服属させます。倭が渡海襲来したことは事実のようですが、なぜでしょうか。また、好太王碑文では即位4年目まで行動が記されないのはなぜでしょうか。

◆西◆

◆海◆

参合陂の戦い

高句麗の動静には例によってチャイナの状況が関わって来ます。383年末の淝水の戦いで秦が崩壊すると、慕容垂は河北に去って384年正月に中山で燕王を名乗り、秦から自立します(後燕)。東方では高句麗を服属させて遼東を奪還し、東晋から山東を奪い、山西に割拠していた西燕も394年8月に滅ぼします。洛陽や河南は東晋が抑え、陝西には後秦が割拠していますが、燕はかつての勢力範囲をほぼ取り戻したのです。

フフホトで復興した代改め北魏は、当初は後燕と手を組んで盛んに交流していました。しかし後燕の高圧的な態度に腹を立て、391年7月から断交して西燕と手を結んでいます。後燕は西燕を滅ぼした翌年、395年5月に皇太子の慕容宝率いる大軍が北魏へ侵攻します。魏王拓跋珪は黄河を防衛線としてこれを阻み、後秦から援軍を招き、慕容垂が病死したと偽情報を流すなどして撹乱します。また慕容宝の庶兄の慕容麟の派閥を唆して仲違いさせ、冬を待ちます。11月(新暦12月)に黄河が氷結すると、北魏軍は渡河して参合陂で燕軍を撃ち破り、皇族ら多数を捕虜として穴埋めにしました。

慕容垂は396年に報復のため北魏を攻め、拓跋虔を戦死させるなど戦果を挙げますが、参合陂で戦死者の慰霊を行ったところ怒りと恥辱で吐血し、4月に71歳で崩御しました。慕容宝が跡を継ぎますが、北魏の攻撃と各地の反乱を支えきれず、397年12月には中山から龍城(朝陽)へ遷都。中原は北魏の手に落ち、398年には慕容徳が河南東部と山東で自立(南燕)、後燕は遼寧を支配する小国に逆戻りします。勝ち誇った拓跋珪は皇帝を号しました。

こうなれば高句麗が395年から396年にかけて軍事行動を起こした理由も理解ります。燕が混乱して高句麗に対する抑えが緩み、好太王も成人し、勢力拡大の好機が訪れたのです。では、倭はなぜ391年に渡海したのでしょうか。

辛卯年、倭渡海

『三国史記』によれば、好太王の父は最晩年の春に新羅王の甥を人質にとり、その年の5月に逝去しています。同年が好太王即位元年(永楽元年辛卯、391年)ですから、倭の渡海はこの年に起きています。(三国史記や三国遺事ではその翌年の壬辰年の即位としますが)

高句麗は百済の背後を脅かすため新羅と手を組んでいますから、弁韓・馬韓諸国にも百済を離れるよう働きかけていたはずです。倭国にも高句麗の使者が送られたり、弁韓を通じて情報が入ったりして不思議はありません。百済も離反されてはたまりませんから、弁韓や倭国へ使者を送り、様々な見返り(物品や人材、技術集団、牛馬など)を提供したはずです。高句麗・新羅には秦改め燕が、百済には東晋がついています。どちらが得でしょうか。

倭国側のパワーバランスを鑑みるに、出雲や丹波など日本海側諸国は、辰韓改め新羅との交易路が古くからあります。しかしヤマトと吉備、北部九州からすれば、弁韓こそ半島・大陸への主要な窓口です。弁韓が新羅・高句麗・燕に服属して百済が滅んでも、倭国への窓口自体は失われることはないでしょう。新羅や高句麗も倭国を交易相手にすればいいわけです。けれど百済の支配層には文字通り死活問題ですし、弁韓ルートが衰えて新羅ルートが主要経路になれば、吉備やヤマトは出雲や丹波に抑えつけられ、北部九州諸国も没落しかねません。

長年の交流で、韓地にも倭人や混血者はおり、倭国にも韓人や濊人、華僑、それらの混血者がいたはずです。人口比からして旧来の倭人よりは少なくとも、文字の読み書きや技術力などで倭国の政権中枢に彼らが食い込んでいたことは推察できます(神功皇后の母方の先祖は新羅王子のアメノヒボコとされます)。倭王がヤマトから佐紀へ移動するなど倭国内のパワーバランスも揺れ動いていました。さて、どうなるでしょうか。

結果として、倭国は「弁韓・百済を救援して新羅・高句麗と戦う」と決めました。弁韓系の華僑や韓人、それらと権益や血縁で繋がった勢力が勝った形です。150年前の卑彌呼の時代は狗奴國の乱にすら帯方郡の支援を求めていた倭国連合も、ついに対外戦争に打って出るほどになったのです。

むしろ対外戦争は、古今東西で国内の諸勢力を纏める強力な手段です。軍隊は指揮系統がきちんとしていないと動きませんし、現地調達ばかりも問題なので、ある程度の兵站は必要です。鉄や威信財の産地・交易立国である弁韓を倭国が支配下におけば儲かりますし、倭王やそれに繋がる豪族らの権威も高まるに違いありません。百済からすれば倭国が新羅を牽制してくれればそれでいいのですが、倭国では議論の過程で話が大きくなったのでしょう。迷惑な話ですが、戦争や掠奪は起きる時は起きます。

豊臣秀吉の唐入り、明治時代の日韓併合など、日本は歴史的に朝鮮半島を何度か侵略してきました。新羅高麗、李氏朝鮮も日本に対して侵略を行っています。それらは当時の事情や状況、命令者や行為者の意思決定によるものです。つのは日本国籍ですが、戦後は国民主権とはいえ、つの自身や家族がやったわけでもありませんし、過去の物事に文句を言われても知りません。国同士で話し合い、法的に解決し、適度に善隣友好して下さい。言いたくばチャイナやモンゴル、ロシアや欧米諸国にも文句を言って下さい。

さて、倭国は同盟諸国に呼びかけ、韓地への遠征を行うから将兵や武具、兵糧を集めて集合せよ、と触れ回ります。南から北へ渡るのですから、南風が吹く夏に北部九州から出発し、狗邪韓国改め金官加羅国の港に上陸したでしょう。弁韓諸国はこれを支援し、新羅との戦いに向かうわけです。

『日本書紀』応神天皇3年(西暦392年)11月条に、諸国の海人(あま)が騒ぎ立てて従わず、阿曇連祖の大濱宿禰を遣わして鎮めさせ、彼を海人の宰に任命したとあります。また応神5年(394年)10月には伊豆国に命じて長さが十丈(唐尺で30m)もある海船を作らせ、海の上を軽く疾走することから「枯野(軽野)」と名付けたとあります。日本書紀では神功皇后の時に三韓は従ったことにしてありますから、応神紀や仁徳紀に対外遠征は描かれませんが、年代的にはこの頃にあたるはずです。

新羅と倭国

『三国史記』において、倭の記事は新羅本紀に甚だ多く、百済本紀がそれに次ぎ、高句麗本紀には「倭山」という地名以外は全く現れません。しかも、新羅本紀では建国者とされる朴赫居世の代から倭人が現れ、瓠公という倭人が彼に仕えています。『三国史記』は12世紀の高麗で編纂された歴史書であり、日本人の手は入っていません。

4代目の王の昔脱解は「倭国の東北一千里にある多婆那国」での姿で生まれて海に流され、金官国を経て辰韓に漂着したといいます。この多婆那国を「丹波の国」とする説があります。とすれば倭国は丹波の南西千里=434kmで九州のどこかになりますが、記事自体が後世の造作で怪しいものです。まあ2世紀末以前は北部九州の倭奴國が栄えていますし、日本書紀にも唐宋の史書にも先祖は筑紫洲から出たとありますから、それらを参考にしたのでしょう。これをもって九州説云々は議論できません。

西暦173年にあたる阿達羅王20年5月には「倭の女王卑彌乎」が遣使来聘したとあります。卑彌呼がこの時在位していたら、西暦247年まで74年もあり、13歳で即位したとしても87歳になります。この記事は魏志を参考にして造作したものらしく、干支を1巡下げて233年とすればそれらしくなります。その他にも倭人関係の記事は多くありますが、393年に倭国が金城を囲んだ記事より前は多くが造作めいています。また倭人は必ず敗走しており、新羅を征服したとは記されていません。

しかしチャイナの史書である梁の『職貢図』斯羅國条には「或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘」とあります。韓とは辰韓が服属していた馬韓や百済で、倭とは倭国です。好太王碑文には「百殘新羅、舊是屬民由來朝貢、而倭以辛卯年來渡海破百殘、□□、新羅以為臣民」とあります。新羅が一時的にせよ倭に服属していたことは、同時代史料に書かれているのです。これらに日本人による改竄や捏造の手は入っていません。

ヤマト王権が連合の盟主程度で大した権力がなかったとしても、利権や名声を求めて倭人が大挙して(せいぜい数百か数千人程度でしょうが)押しかければ、小国である新羅は服属するしかありません。魏志東夷伝時点でも、辰韓・弁韓合わせて5万戸に対し、倭は15万戸以上で、三韓を合わせたよりも多い人口があります。面積でも慶尚南道が1万km2、慶尚北道が1.9万km2で両者を合わせても九州にも及びません。

百済と倭国

倭国が弁韓を助けて新羅を牽制・撃退・服属させたので、百済は安心して高句麗に当たれるようになったでしょうか。むしろ倭国が弁韓や新羅を従え、百済を背後から脅かす物騒な存在として見えたに違いありません。面積や人口規模からすれば高句麗に匹敵し、弁韓系の華僑や韓人が支援しており、多数の巨大な墳墓を建設し、国王が漢や魏晋から金印紫綬を受けた歴史ある大国です。同盟関係を結んだとはいえ海の彼方の蛮族と侮っていたら、そいつらが大挙して海を越え、近くに上陸して来たのです。

百済王は見返りとして威信財や交易路の権益を与えたでしょうが、初めて海外遠征して外国を服属させてしまった倭国の軍勢は、自分たちの結構な軍事力に驚き、「わしら、いけるやん」と思ったことでしょう。また弁韓諸国にたむろして直接彼らと接するうち、「これ持って帰ったら便利やな」となったでしょう。百済としては海外の胡乱な蛮族にはとっととお帰り願いたいところですが、彼らは居座ってしまったのです。少し後にブリタニアにやって来るアングロサクソンや、イングランドにやって来るノルド(デーン)人とあんまりかわりません。おそらくは弁韓諸国が百済や新羅に対抗するために倭人を呼び、居座らせたのでしょう。

調子に乗った倭国の軍勢は、辰韓・馬韓諸国を脅しつけて服属させ、いろいろなものを現地調達したでしょう。ムカついた百済王が「ええかげんにしなさいよ」と叱りにやって来たら、それはまあ、囲んでしまいますね。

是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿華爲王而歸。(応神紀三年壬辰=西暦392年条)

こうなるわけです。おそらくは百済に支配されてムカついていた弁韓の思惑もあったでしょう。この時の紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰は全員が武内宿禰の子とされ、特に石川宿禰は古事記では「蘇賀石河宿禰」と記されます。すなわち蘇我氏の祖です。

先に出た葛城襲津彦も武内宿禰の子です。名前からして葛城や紀伊の豪族のようですが、武内宿禰は実在が定かでなく、共通祖神として作られた存在と思われます。葛城氏は5世紀初頭に倭王の外戚として勢力を強めますが、彼らの墳墓と思われるのが奈良県北葛城郡の馬見古墳群です。その規模は墳丘長100から200mと準大王級で、彼らの権力の強さを思わせます。

それらの権力の源は、当然この遠征によって獲得した朝鮮半島における権益であり、物資や家畜であり、人材と技術力です。日本列島ではこの頃から牛や馬が移入され、耕作や一部の貴人層の乗用に用いられはじめたことがわかっています(埴輪にも現れます)。それらは「遊牧騎馬民族」が征服王朝として持ち込んだものではなく、倭国の支配層が奪い取ってきたものです。

それが証拠に、倭国・日本には遊牧の伝統が全く根付いていません。馬を去勢する知識すらなく、羊も近代ですら珍獣扱いです。馬具は当時の百済から伝わった最新ファッションでステータスシンボルでしたが、戦争で騎兵が運用された形跡がなく、記紀にも馬に乗って戦う英雄がいません。ヤマトタケルも馬に乗ったかも知れませんが、船に乗った話はたくさんあっても、馬に関しては一言も触れていません。スサノオは馬の生皮を剥いで投げ込んでいますが、神代の話ですから後世の造作です。

牛(うし)の語源は韓語の「ソ(sjo)」と思われ、古くは「うじ」と呼んだようです。馬(うま)は古くは「むま」と訓じますが、韓語mal、満洲語morin、モンゴル語morj、上古漢音*mˤraʔ のような r 音がつかないため、中古漢語の「馬(mˠaX)」が直接伝わったものと考えられます。高句麗にも百済にも新羅や三韓にも、夫余や漢人や匈奴や鮮卑が牛馬を飼う文化を持ち込んでいました。また3世紀から4世紀には大勢の胡人が奴隷として取引されており、牛馬の世話をしていたことが晋書に書かれています。倭国に持ち込まれた牛馬の文化は、そうした人々によるものに過ぎません。

こうして、倭国の軍勢は弁韓や辰韓(新羅)、馬韓南部に駐屯し、倭地から仲間を次々と呼び寄せます。そして掠奪した物資や人々を船に乗せて倭地へ送り、ヤマトにまで届かせたでしょう。倭王や豪族たちは大いに驚き、このやり方がめちゃくちゃ儲かる上に、権威や国力の拡大に繋がることを確信したでしょう。ちまちま平和な交易で稼ぐのがアホらしい稼ぎです。こうなるともう止まりません。倭地全土から一旗揚げたい野郎どもが続々と集まり、韓地へ押し寄せます。ヴァイキングや十字軍もかくやという一攫千金の時代が訪れましたが、三韓や百済にはとんでもない迷惑です。

高句麗と倭国

ちょうどその頃、チャイナでは後燕が急速に崩壊し、北魏が台頭します。高句麗は遼東方面へちょっかいをかけつつ、倭人に蹂躙されている百済を先に屈服させるチャンスと見て、永楽6年丙申(396年)に南征を行うわけです。

百殘王困逼、獻出男女生白一千人、細布千匝、歸王自誓、從今以後、永為奴客。太王恩赦先迷之御、録其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人、旋師還都。(好太王碑文)

果たして高句麗は百済に大勝利をおさめ、58城700村を獲得して百済の首都(ソウル)に迫り、百済王の弟や大臣らを人質にとって凱旋します。新羅を牽制するために呼び寄せた倭人は百済領内を荒らしまわり、百済王を殺してすげ替える有様で、高句麗を防ぐのにはクソの役にも立ちませんでした。百済には踏んだり蹴ったりですが、現実問題としてどうしようもありません。また、高句麗王は遠く丸都城まで去ってくれましたが、倭人はうじゃうじゃと国内にとどまっており、機嫌を損ねたら何をされるかわかりません。

六年夏五月、王與倭國結好、以太子腆支爲質。(三国史記)
八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿華王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」(応神紀)

阿華王が「無礼(旡禮)」というのは、高句麗に服属したことを言います。おそらく密かに高句麗の力を借りて倭人を追い払おうとしたのですが、倭人は怒って百済の土地を攻め取りました。枕彌多禮(とむたれ)は済州島(耽羅)、峴南は不明ですが支侵は忠清南道洪城郡、谷那は全羅南道谷城郡、東韓は応神16年条に「甘羅城・高難城・爾林城なり」とあり、忠清道や全羅道のどこかと思われます。

西暦397年、阿華王は人質として腆支(直支)を差し出し、倭国と手を組んで高句麗に対抗するという覚悟を決めました。これにより、倭国は百済と高句麗の戦争に引きずり込まれて行くのです。

◆蛮◆

◆夷◆

【続く】

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