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【つの版】倭の五王への道16・仁徳天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

いよいよ倭の五王が現れました。記紀に記された天皇、古墳の推定被葬者とのすり合わせが行われていますが、完全に断定するのは不可能です。記紀の年代は明らかに改編されていて史実と程遠く、おぼろげに当時の状況が推定できるに過ぎません。前回は『日本書紀』で応神紀をざっと見ましたから、今回は仁徳紀を見てみましょう。

◆井◆

◆上◆

日本書紀巻第十一 大鷦鷯天皇 仁德天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_11.html

聖帝伝説

神功皇后・応神天皇の本紀には百済や新羅、高麗の様子が記されましたが、87年に及ぶ仁徳天皇の本紀にはあまり現れません。仁徳紀の内容も河内等の開拓を除けばぼんやりしており、まともな歴史ではありません。即位前紀は前述の通り菟道稚郎子と皇位を譲り合ったという有難話です。宇治や佐紀の王権を大鷦鷯尊(仁徳)が併呑し、河内に都を置いた起源譚になります。

仁徳元年は癸酉ですが、4世紀なら西暦313年か373年、5世紀なら433年となり、373年とすれば七支刀が到来した翌年です。応神は後付で、仁徳が40年在位したのかも知れません。都は難波高津宮で、大阪市中央区の高津宮が宮跡と伝えられます。北に大坂城、南に通天閣があります。ここは河内平野の中で一段高くなった上町(うえまち)台地の上です。

前にブラタモリでもやってましたが、海や沼沢地が多い河内では珍しくしっかりした地盤のある沖積台地です。住吉区南端の清水丘から北へ12kmほど伸び、北端はまさに大坂城です。西の端は豊中市から岸和田市まで大阪府を貫く上町断層で、この断層の力が台地を作りました(活断層なのでマグニチュード7.6クラスの大地震を起こす可能性があります)。古代には、西は大阪湾(茅渟の海)、東は河内湖/河内湾(草香江)に挟まれた半島で、数々の巨大古墳もここにあり、6世紀から7世紀にかけても都が置かれました。

仁徳4年2月、天皇は詔して言いました。「朕が高台から遠望するに、民が炊事を行う煙が見えぬ。畿内でさえこうなら、畿外諸国はなおさらだ」。そこで翌月「今後3年は課役を尽く除く」と詔し、自らも厳しく節約につとめ、衣服がボロボロになっても変えず、温かい飯も食べず、宮の垣根や屋根が壊れても直しませんでした。すると風雨順調で五穀豊穣となり、民の竈は賑わいにけり、という状態になります。仁徳7年4月、天皇は再び高台から遠望すると、百姓が炊事をする煙が盛んに立ち昇っており、「朕は富んだ、心配無用だ」と喜びます。しかしあと3年我慢しました。

仁徳10年10月、改めて課役を命じて宮殿を造らせると、百姓は老いも若きも駆けつけ、力の限り働いて、たちまち宮殿が出来ました。それで今(日本書紀編纂時)仁徳天皇を「聖帝」と称えています。……というのは『古事記』にも書かれていますが、これは儒教の聖人・周の文王の「霊台経営」の故事をパクった有難話で、このあと行われる大規模土木工事の導入です。

国土建設

仁徳11年、天皇は詔します。「朕が(河内)国を視るに、湿地帯が多く田圃が少なく、川の水の流れが悪い。多少長雨が降れば海水が逆流し、人は船に乗り道路は泥となる有様だ。運河を掘って海に通じさせ、逆流を塞いで田圃や宅地を守ろう」。そこで高津宮の北を掘って運河とし、河内湖の水を大阪湾へ通じさせ、堀江(ほりえ)と名付けました。大阪城の北、寝屋川と大川(天満川)の合流部から中之島に至るあたりです。

また北河(淀川)の洪水を防ぐため、茨田堤(まむたのつつみ)を築きました。この堤防は実際に発掘されており、枚方市から寝屋川市、門真市、大阪市旭区、福島区野田に至る長大な堤防でした。難工事だったようで、築造時にしばしば崩れ、河の神に人身御供を捧げて人柱にしたと書かれています。

仁徳12年には山背国の栗隈県(山城国久世郡、京都府宇治市)に大溝を掘って田を潤し、百姓は毎年豊かになりました。琵琶湖の南から流れ出る瀬田川は天ヶ瀬を通って宇治川となり、宇治から京都盆地へ流れ出ますが、丹波から流れ下る桂川、奈良盆地北端を区切り南から流れ込む木津川が合流して、巨椋池(巨椋の入江)という広大な湖を形成していました。当然水はけが悪く、洪水もよく起きていましたが、運河を掘ることで治水を行ったのです。

巨椋池は各地から川が集まるため河川交通の要衝で、物資の集積所としても有用であり、河内と近江・山背・丹波とを繋いでいました。菟道稚郎子が宇治に宮を置いていた理由も理解ります。

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仁徳13年には食糧生産拠点(屯倉)として茨田屯倉(まむたのみやけ、交野市)を設置し、脱穀を行う専業組織の舂米部(つきしねべ)を定めました。また和珥池(富田林市の粟ヶ池か)を作って内陸部の農地の灌漑用水とし、横野堤(大阪市生野区横野神社か)を作って上町台地の東岸を固めます。

仁徳14年には上町台地東岸の猪甘津(いかいつ、平野川)にを懸け、小橋と呼びました。猪甘津とはここに定着した渡来人・帰化人が豚(猪)を飼育していたことからそう呼ばれたもので、のち猪飼野と呼ばれました。現在の生野区桃谷・鶴橋や東成区で、生野は猪飼野の訛りです。古代の渡来人や帰化人とは無関係ですが、近現代にもコリアタウンがあります。

さらに京中に大道を作り、南門からまっすぐ多比邑に向かわせます。これは高津宮から南に伸びて堺市に至るもので、百舌鳥古墳群が存在するあたりに及びます。ここから東へ大津道(長尾街道)と多比道(竹内街道)が伸び、奈良盆地に入ります。ヤマトや葛城も河内と接続されました。葛城氏は仁徳天皇の皇后の実家であり、葛城襲津彦は韓地へ派遣されています。

また感玖(こむく、南河内郡河南町)の大溝を掘り、大和川の支流・石川の水を引いて鈴鹿と豊浦(東大阪市豊浦町)を潤し、4万余頃の田圃を開墾したので、百姓は凶作の心配がなくなりました。4万余頃云々は戦国秦の鄭国渠のくだりのパクリですが、治水と農地開発が並行して進められたのです。

すべてが仁徳一代で成ったものではなく、何代かの倭王が行ったことをまとめたのでしょうが、河内・山背・ヤマトを繋ぐ壮大な国造りの様子が理解ります。これらの大土木工事は『古事記』にも書かれています。

又秦人を役ちて茨田堤及茨田三宅を作り、又丸邇池・依網池を作り、難波の堀江を掘りて海に通し、又小椅江を掘り、又墨江の津を定めたまひき。

また『古事記』仁徳記には、『日本書紀』では応神紀にあった大船「枯野」の話が掲載されています。ただし作られたのは伊豆ではなく河内です。

此の御世に、免寸(うき)河の西に、一つの高き樹有りき。其の樹の影、旦日に当れば淡道島に逮び、夕日に当れば高安山を越ゆ。故、是の樹を切りて船を作るに、甚捷く行く船なり。時に其の船を号けて枯野と謂ふ。故、是の船を以て、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて大御水を献る。玆の船破れ壊れて、塩を焼き、其の焼け遺れる木を取りて琴を作るに、其の音七里に響む。

磐之媛と八田皇女

仁徳15年は空白で、仁徳16年からはほぼ皇后の話です。天皇は宮女の桑田玖賀媛を愛していましたが、皇后磐之媛の嫉妬を恐れて近づけませんでした。そこで播磨国造祖の速待に与えましたが、玖賀媛は喜ばず、桑田へ帰る途中で死んだといいます。桑田は丹波の地名で、亀岡市に桑田神社があります。

仁徳22年、天皇は皇后に「八田皇女を娶って妃にしたい」と相談しますが、皇后は許しませんでした。彼女は菟道稚郎子の同母妹です。しかし仁徳30年、皇后が紀伊国の熊野岬へ旅行に出ている間に、天皇は八田皇女を宮中に入れました。皇后は激怒して帰ろうとせず、天皇は船を遣わして大津(港)まで出迎えましたが、皇后の船は着岸せずに淀川を遡り、巨椋池から山背河(木津川)に入って倭(やまと、奈良盆地)へ向かいました。那羅山を越えて故郷葛城を遠望した後、山背に戻って筒城宮に引きこもります。皇后は天皇が迎えに来ても会おうとせず、仁徳35年に薨去し、仁徳37年に乃羅山(那羅山)に葬られました。佐紀盾列古墳群の東部にあるヒシアゲ古墳(墳丘長218m)は磐之媛の陵に比定されています。

仁徳38年、八田皇女が皇后に立てられました。仁徳40年にはその同母妹である雌鳥皇女を妃にしましたが、彼女は仁徳の異母弟隼別皇子と恋仲にあり、共に天皇を殺そうと企みます。これを知った天皇は激怒し、追手を差し向けて殺そうとしました。二人は菟田の素珥山を越えて伊勢へ逃亡しますが、追いつかれて殺されます。その後も八田皇女は皇后として在位したものの、天皇との間に子はなかったといいます。没年や陵墓地は定かでありませんが、佐紀盾列古墳群の東部にあるウワナベ古墳(墳丘長280m)は彼女の陵の参考地とされています。

単なる恋物語のようですが、皇后や妃の背後には外戚となる豪族たちがいますから、政治的にはシリアスです。丹波との仲が微妙であったこと、菟道稚郎子の残党が山背や佐紀で反抗的であったことが伝わってきます。

外国に関する記事

仁徳紀にも海外に関する記事はありますが、チャイナの史書や『三国史記』などで裏付けが取れない記事ばかりです。またそれぞれに主人公がいます。

的戸田宿禰

仁徳12年に高麗国が鉄の盾を貢いで来ましたが、群臣に命じてこれを射させたところ、盾人宿禰だけが鉄の盾を射抜きました。そこで彼に的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)の名を賜いました。彼は的臣(いくはのおみ)の祖です。ただ彼は55年前の応神16年に平群木菟宿禰と共に新羅へ派遣され、新羅にいた葛城襲津彦を呼び戻したことがあり、相当老齢のはずです。仁徳17年、新羅が朝貢しなかったので、砥田(戸田)宿禰と賢遺臣を派遣して問責しました。新羅は恐れて絹1460匹を献上し、その他の財宝を80隻の船に乗せて送り届けたといいます。なお仁徳58年には呉と高麗が朝貢しました。

酒君

仁徳41年、紀角宿禰を百済へ遣わし、国郡の図録を差し出させました。この時、百済王族の酒君が無礼だったので紀角宿禰が叱責すると、百済王は恐れて酒君を鉄鎖で縛り、葛城襲津彦に附けて献上しました。倭国に着くと、酒君は石川錦織許呂斯という百済系渡来人の家に逃げ込みましたが、天皇はやがて彼の罪を許しました。43年に珍しい鳥が捕らえられた時、酒君は「百済に多くいる倶知(鷹)という鳥で、飼い馴らせば鳥を捕らえることが出来ます」と答えたので、命じて飼い馴らさせました。これが鷹甘部の祖です。

上毛野田道

仁徳53年、新羅がまた朝貢しなかったので、上毛野君氏の竹葉瀬を派遣して問責しました。さらに竹葉瀬の弟の田道に兵を授けて新羅と戦わせると、田道は敵軍を撃破して4つの邑の民を虜囚とし、凱旋しました。仁徳55年に蝦夷が叛いた時、田道は派遣されて戦いましたが、伊峙水門(宮城県石巻市)で戦死しました。蝦夷らはさらに人民を襲撃し、田道の墓を暴いたところ、中から大蛇が出て毒を吐き、多数の蝦夷を殺したといいます。

大仙陵古墳

その他にもいくつか怪異譚がありますが、特に内政や外交に直結する話ではありません。仁徳67年から87年の間は18年も空白です。仁徳87年、天皇は110歳(古事記では83歳)で崩御し、百舌鳥耳原中陵に葬られました。67年は陵墓の地を定める記事なので、18年かけて築いたのでしょうか。

宮内庁による治定では、仁徳天皇陵は大仙陵古墳とされます。5世紀前半から中期の前方後円墳で、墳丘長525m、後円部径286m、高さ39.8mあり、言うまでもなく日本最大の古墳、世界でも最大級の墳墓です。周囲には三重の濠があり、15基の陪塚を備え、倭国の大王の陵墓としても張り切り過ぎではないかというほど巨大です。位置は上町台地の西の端で、かつては海に面していましたから、入港する船からランドマークとしてよく見えたでしょう。

しかし、なぜこんなに巨大な墳墓を建設したのでしょうか。内外に権力や権威を見せつけるためもあったでしょうが、運河や周濠を掘って水はけを良くした後、残った土を盛ったらこれぐらいになったのかも知れません。一石二鳥です。大土木工事を行った伝説のある仁徳の陵墓には相応しいでしょう。

ただ考古学の年代的に5世紀前半から中期の古墳なので、倭の五王でいうと「讚」の陵墓にあたることになり、系譜関係からして仁徳ではなく履中の陵である可能性もあります。まあ江戸時代から「仁徳さん」として親しまれて来たわけですし、野暮は言わないでおいたが吉でしょうか。大坂城ももとは古墳だったともいいますし、ここにも大王が埋葬されたかも知れません。

応神と仁徳

応神と仁徳の紀を見比べてみると、海外の記事は応神(及び神功)に多く、国内の記事は仁徳に多いことが理解ります。在位期間も応神が41年、仁徳が87年と、仁徳の方が異常に長く、事績も飛び飛びです。応神も神功皇后が69年摂政し、70歳で即位するなど荒唐無稽な年数引き伸ばしを行っています。

また、『古事記』神功記にこうあります。

故、建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。

応神天皇が太子であった時、かつて仲哀と神功が筑紫へと出港した角鹿(つぬが、敦賀)の伊奢沙和氣大神と名(魚=な)を取り替えたというのです。これは応神紀にも記されています。

一云「初天皇爲太子、行于越國、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。

とすると、応神のもとの名はイザサワケで、名を換えてホムダワケになったわけですが、意味はよくわかりません。ともあれ応神のルーツは神功ともども近江や若狭、丹波に近いようです。一説にイザサワケは但馬国出石(いずし)に鎮座した新羅王子アメノヒボコだともいいますし、意富加羅国王子の都怒我阿羅斯等が上陸したのも敦賀です。さらに垂仁と狭穂姫の子ホムツワケは「ホムダワケ」ではないか、とも言われます。

仁徳が河内に勢力を持ち、佐紀や宇治を併呑したのに対し、応神はもともと佐紀に近いのです。応神の五世孫が越前出身の継体天皇で、仁徳の玄孫である武烈天皇の後に皇位につき、武烈の姉妹の手白香皇女を娶っています。継体の子が欽明天皇で、記紀が編纂された当時の天皇はみなその子孫です。

河内王権に抑圧されていた佐紀・山背・近江・丹波・越国といった北方諸国で、共通祖神として応神天皇(ホムダワケ)が作られたのかも知れません。あるいは実在した佐紀の倭王の子孫が、先祖を神格化して祀っていたのかも知れません。河内王権が衰退した後に政権を取った継体とその子孫は、直系の先祖を称揚するため河内王権の祖・仁徳(オホサザキ)の前に応神を設定し、仁徳の実際の事績を神功や応神に振り分けたのかも知れません。真相は謎ですが、それなりに説得力のある説ではあると思います。

応神や仁徳や継体がこれまでの王統と全く無関係の人物であれば、王統断絶や王朝交代が起きていることになります。しかし怪しげな傍流とはいえ一応豪族たちに承認され、海外からも一続きの王統として認められているのですから、まあたぶん男系で繋がってはいるのでしょう(継体・持統という漢風諡号はぎりぎりさを物語りますが)。

今の皇室の直系の祖である光格天皇は、江戸時代に傍系の閑院宮家から立てられて即位した人物で、東山天皇の曾孫にあたりますが父も祖父も天皇ではありません。その程度でガタガタ言っても、後漢の光武帝劉秀は前漢の武帝の異母兄劉発の玄孫の子(景帝の6世孫)ですし、安帝は章帝の孫で清河王家、質帝は章帝の玄孫で渤海王家、桓帝は章帝の曾孫で河間王家、霊帝は桓帝の叔父の孫です。また蜀漢の劉備は景帝の子劉勝の末裔です(劉発や劉舜の子孫ともされますが、どちらも景帝の子です)。劉備は景帝の12世代ほど後で、系譜もはっきりしませんが、あまりに疎遠な宗族でも「属尽」として多少の特権があったようです。ローマ皇帝は頻繁に血統が変わってますが、皇帝と漢訳されていても実態は終身大統領みたいなもので、元老院とローマ市民(S.P.Q.R.)が主権者なので問題ありません。

◆陽◆

◆水◆

ともあれ河内に倭王が遷り、朝鮮半島南部に軍隊を送り込み、新羅や百済を服属させ、多数の渡来人・帰化人を倭国へ連れてきて、大規模な土木工事を行ったことは歴史的な事実です。そして倭の五王のうち讚(履中天皇か)が現れ、劉宋に朝貢しました。そろそろ国際情勢に戻ってみましょう。

【続く】

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