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【つの版】ユダヤの秘密08・聖戦前夜

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ユダヤ人は古くから世界各地に移住しています。小アジア・ギリシア・イタリアはもちろん、遠くイベリア半島やアルプスの北にもユダヤ人が住んでいました。このうちイベリア半島のユダヤ人をセファルディム、アルプス以北のガリア(フランス)のユダヤ人をツァルファティーム、ライン川以東のユダヤ人をアシュケナジムと呼びます。

キリスト教・イスラム教世界において、皇帝や国王や聖職者は、しばしば宗教的情熱に駆られて(実際はユダヤ人の財産を狙って)国内のユダヤ人を迫害しました。しかしユダヤ人には独自のネットワークがあり、情報や商品をやりとりしてきました。然るべく賄賂を送ればお目溢しされ、いずれ迫害は下火になります。古代から彼らはそうやって生き延びてきたのです。
もともとヤハウェは「部族同盟の契約」を守護する神でしたが、申命記改革によって「ヤハウェは民と契約を結んだ」と置き換えられ、ユダ王国の民を一致団結させるため律法が造られ、ユダヤ教が形成されました。しかしバビロン・ペルシア・ギリシア・ローマによる支配が長く続き過ぎると、もはや自前の国家や神殿がなくても、民族アイデンティティを宗教で保つことが可能になります。律法学者は国家や神殿より律法を重んじ、「迫害されても待ち続けよ、神は必ず救われる」と自他を研修します。他の宗教に対しても「同じ創造主を崇めているには違いない」と比較的寛容になり、共存せざるを得ません。これも神の思し召しでしょうか。

◆Karl◆

◆Empire◆

南欧離散

では、中世欧州(ローマ・カトリック圏)におけるユダヤ人のあらましを見ていきましょう。まずは南欧からです。

東ローマによる対ゴート戦争の後、ゲルマン系のランゴバルド族がイタリアになだれ込んで大部分を制圧します(568年)。彼らはアリウス派を奉じており、東ローマはラヴェンナを拠点としてランゴバルド族と戦いましたが、南イタリアやシチリア、沿岸部を抑えるのが精一杯でした。

そこで東ローマは既に三位一体派に改宗していたフランク人の諸国と手を組み、イタリアへ圧力をかけさせます。フランク人はベルギー付近のゲルマン系諸部族連合を中核として発展し、アルプス以北のガリアからゲルマニアの西部にかけてを制圧していました。しかしあまりに広大なため結束が弱く、しばしば相続問題で揉めて分裂しています。

となれば、イベリアの西ゴート王国です。585年に北部のスエビ王国を征服し、勢力を強めていたこの国は、589年にアリウス派から三位一体派(カトリック)に改宗しました。しかし東ローマの味方になったわけではなく、しばしば両国は領土を巡り戦っています。

これらの諸国において、ゲルマン系諸族の人口は僅かであり、人口の大部分はローマ人(ラテン語が訛ったロマンス諸語の話者)です。キリスト教は東方で発生しギリシア語圏に広まったものの、西方では東ローマ皇帝やコンスタンティノポリス総主教の権威は及ばず、代わりにローマ教皇(司教)や各地の大司教の権威が高められました。このため西方の教会(ローマ・カトリック教会)は次第に東ローマの教会(正教会)と対立するようになります。

温暖で肥沃なイベリアには、古くから多くのユダヤ人(セファルディム)が住んでおり、カトリックに改宗した西ゴート王国は繰り返し彼らを迫害しました。ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことは禁止され、ユダヤ人に洗礼・改宗が強制され、ユダヤ教の儀式が禁止され、違反者は財産没収の憂き目に遭います。このような状況を救ったのは、イスラム教徒でした。

黄金時代

西暦711年、ウマイヤ朝イスラム帝国の軍勢がジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼします。ムスリムはこの地をヴァンダル族にちなんでか「アンダルス」と呼びました。長年キリスト教徒に迫害されていたユダヤ人は、イスラム教徒の支配のもとで「啓典の民」「庇護民」として扱われ、比較的にしろ良い時代を迎えました。

改宗や服属を拒んだキリスト教徒は半島北部へ追い詰められ、北のフランク王国と結んでイスラムに抵抗したので、少数派のムスリムは国内のユダヤ教徒を相対的に優遇します。750年にウマイヤ朝が崩壊し、ウマイヤ家の生き残りアブドゥッラフマーンがアンダルスに自立すると、この傾向はさらに強まったことでしょう。北アフリカやオリエント、欧州各地に分散していたユダヤ教徒は続々とアンダルスへ集まり、君主の庇護を受けました。

929年、アンダルス・ウマイヤ朝の首長(アミール)アブドゥッラフマーン3世はカリフを称し、アンダルスの繁栄は最盛期を迎えます。ハザールの王ヨセフと書簡をやり取りしたハスダイ・イブン・シャプルトは彼の侍医です。アンダルスの首都コルドバには多くのユダヤ人が集い、論争し、学者や詩人や商人が活躍しました。エジプトやイラク(バビロニア)など外国のユダヤ人とのやり取りも盛んで、ハザールはむしろ辺境の一国として珍しがられただけかも知れません(ハスダイさえ長年知らなかったのですから)。

しかしアンダルス・ウマイヤ朝は内紛によって分裂し、1031年に滅亡しました。アンダルスにはタイファ(分立諸侯)が群雄割拠し、北方のキリスト教徒はこれを機会にイベリアを再征服(レコンキスタ)せんと襲来しました。1066年にはグラナダでムスリムの暴徒によるユダヤ人の虐殺が起きていますが、これは宰相のヨセフが売国行為を行ったためと伝えられます。

1085年にトレド王国がキリスト教側に征服されると、タイファ諸国は1087年にモロッコのムラービト朝を呼び込み対抗します。この戦いは長きに渡りましたが、ここらでピレネーとアルプスの北へ目を向けてみましょう。

佛蘭大帝

フランク諸国では宮宰(宰相)のカロリング家が勢力を伸ばし、7世紀末から8世紀にかけて事実上フランク王国を再統一しました。イスラム教徒の侵入を押し留め、ランゴバルド王国を討伐してローマ教皇の庇護者となったフランク王は、ヨーロッパにおける「皇帝」とみなされて行きます。

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797年、東ローマでは皇母エイレーネーが女帝として即位したため、ローマ教皇は「帝位は断絶した」と勝手に宣言し、西暦800年にフランク王カールをローマ皇帝に擁立しました。いわゆる「神聖ローマ帝国」の起源はこれに遡るともいいますが、東ローマ皇帝は承認してないので僭称に過ぎません。

フランク王国の領土においても、ユダヤ人はアンダルスほどではないものの存在しており、交易に従事していました。特に南ガリアのユダヤ人は地中海交易で大きな利益をあげ、フランク人の王侯貴族と取引がありました。732年にはポワチエでの定住が許可され、759年にはナルボンヌのユダヤ人共同体が国王ピピンの庇護を受けています。

カール大帝はユダヤ人に信仰・通商の自由を許可し、ユダヤ人共同体内部での裁判権も承認しました。またイタリアからユダヤ商人を招いてライン川流域に住まわせ、797年にはアッバース朝にユダヤ人イサクを使者として派遣し、イラクからユダヤ人の指導者をナルボンヌに招いたといいます。彼らは各種の特権を持ち、人々をユダヤ教に改宗させることさえ許可されました。キリスト教の聖職者は当然面白くなく、反対運動を行っています。

カール大帝の崩御後、フランク王国(帝国)は分割相続によって分裂し、西フランクがフランス、中フランクが北イタリア、東フランクがドイツの原型となります。「ローマ皇帝」の称号はあちこちを転々とし、最終的にドイツ王とイタリア王を兼ねたオットー1世が962年に帝位を受け継ぎます。

この時の教皇はヨハネス2世で、教皇領拡大の見返りに名目的な帝位を授けたに過ぎませんでしたが、オットーは「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇には叙任されない」と定め、皇帝が教皇より上位であるとしました。反発したヨハネスはオットーに廃位され、以後は皇帝により各地の聖職者が任命されるようになります。この「叙任権闘争」は1076年の「カノッサの屈辱」事件を挟んで1122年まで続き、ヴォルムス協定によって「叙任権は教会に、世俗の権威は皇帝に属する」と定められました。

この間、ユダヤ人はフランスやライン川流域に居住し、変わらず交易に従事していました。ハスダイもドイツ(エレツ・アシュケナジム)のユダヤ人を介してハザール王ヨセフと書簡をやり取りしています。時々の迫害はあったにせよ、カネによって世俗の権力と結びついたユダヤ商人は大いに繁栄していたのです。しかし、やがて風向きが変わりはじめます。

聖戦前夜

東ローマ帝国は、1018年にブルガリアを征服し、1025年に崩御したバシレイオス2世の時代に最盛期を迎えましたが、その後は無能な皇帝による悪政が続いて衰退します。南イタリアの領土はノルマン人に征服され、1054年にはローマとコンスタンティノポリスの教会が相互に破門して分裂し、西からはイスラム化したテュルク族のセルジューク朝が迫っていました。

アッバース朝によるイスラム世界の統一は100年も続かず、各地に軍閥が乱立して相争い、10世紀にはアンダルスのウマイヤ朝、エジプトのファーティマ朝(シーア派)がカリフを称します。バグダードのアッバース朝カリフはイラン高原からやって来たシーア派のブワイフ朝に傀儡として担がれ、実権を失っていました。1055年、テュルク系オグズ族のセルジューク朝はイラン高原を制してイラクへ攻め込み、ブワイフ朝を倒してカリフを奉戴します。セルジューク朝の君主はスルタン(権力者)の称号をカリフから授かって実権を握り、イスラム世界東部に君臨する大帝国を築きました。

1071年にはマラズギルトの戦いで東ローマ軍を撃破し、アルメニア高原とアナトリア半島の大部分を占領します。またファーティマ朝からシリアとパレスチナを攻め取ってエルサレムを占領しています。しかし1092年にスルタンのマリク・シャーが逝去すると、後継者を巡って大帝国は分裂します。これを好機として東ローマ帝国は反撃を開始し、1095年にはローマ教皇に傭兵の提供を要請しました。ところが、これが大変な事態を呼んでしまいます。

ローマ教皇ウルバヌス2世は「我がローマ・カトリック教会が東方の教会を服属させる時が来た」と考え、1095年の春から夏にかけてフランス中南部の王侯貴族を呼び集めました。そして同年11月、クレルモンにおいて「イスラム教徒の手から聖地エルサレムを奪還すべし!」と呼びかけたのです。群衆は熱狂し、噂が噂を呼び、爆発的なエネルギーが生まれました。世に名高い十字軍運動が開始されたのです。

◆神◆

◆帝◆

【続く】

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