「共感」こそが、差別や争いの元凶だ

metooムーブメント以降、ネットでは様々な立場の弱者やマイノリティが、告発や啓蒙を活発に行うようになった。

「同性愛者は権利を認められていない、法律を変えてほしい」

「女性はこんなに差別されている、男女差別をなくしてほしい」

「化学物質に過敏な人もいる、香水をやめてほしい」

わたしは平和主義者である。だから、こういうムーブメントが、大嫌いだ。

この記事では、ムーブメントを助長させる「共感」の有害性について論じたい。

根拠1:「共感」は、人間の視野を狭める

冒頭で述べたような人たちを、私は「わかってちゃん」と呼んでいる。私を含むメンヘラを揶揄する表現である「かまってちゃん」の亜種である。

「わかってちゃん」は、大衆にとって可哀想に見えるという特徴を持つ。

大衆にとって可哀想に見えるとは、どのような意味か?例を挙げて説明しよう。

【ケース1. 大衆にとって可哀想に見える人の例】

たとえば、不妊で悩んでいる30代の女性がいるとする。どんなに不妊治療を頑張っても成果が出ない。夫との関係も怪しくなってきた。

このような女性に、事情を知らない初対面の50代ぐらいのおばちゃんが、社交辞令の一環でこう言った。

「お子さんはいらっしゃるんですか?」

女性は傷ついた。そして、大衆に向けてnoteで訴えた。

「私は思いやりのない言葉に、こんなに傷つきました」

記事は炎上し、おばちゃんは非難され、子供の有無を尋ねるような発言はタブーとする世の中に変わっていった。

【ケース2. 大衆にとって可哀想に見えない人の例】

たとえば、痩せすぎた貧相な体型に悩んでいる女性がいるとする。体質的に太れず、量を食べられない。乳の大きさも小さく、手足もガリガリ。

このような女性に、事情を知らないスポーツジムの仲間が、何気ない気持ちでこう言った。

「あなたは痩せてていいわよね~」

女性は傷ついた。そして、大衆に向けてnoteで訴えた。

「私にとっては、太っている人が「太ってるね」と言われたのと同じです」

しかし、記事は大した注目を浴びず、痩せている人に対して「痩せてるね」と言うことをタブーとする世の中には変わらなかった。

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この二人の女性に共通するのは、「相手の発言に対し、自分の解釈の都合で、自分が傷ついた」という点である。傷ついた人間を可哀想と考えるのであれば、二人は同じくらい可哀想なはずだ。どちらも遺伝的な体質が問題であり、努力での解決が難しい点も共通している。

しかし、前者は世の中を変え、後者は世の中を変えなかった。この違いは何だろうか?

答えは、大衆が「共感」できるかどうかだ。

大衆は、子供を授かれない人は可哀想と思う。しかし、痩せている人に対してはうらやましいと感じる人が多数であり、可哀想だという感覚が低下する。

共感という心的機能は、特定の対象にのみ注目し、特定の対象を無視するという性質を持っている。

共感を軸に行動を起こすことは、痩せている女性の例のような「大衆の目に見えづらい可哀想な人」を無視することにつながる。これは共感が生み出す、”見えない差別”ではないだろうか?

さらに、共感による盲目は「世の中やその場全体にとって最もメリットのある解決策は何か?」という思考を阻害する。

特定の可哀想な弱者や、特定の可哀想な動物を助けるためにリソースを割くことは、それ以外のことにリソースを割かないことに等しい。それは本当に、問題と関係のない人間も含む社会全体にとって、価値のある選択なのだろうか?これを吟味することもなく特定の価値観を押し付けることは、本当に正義なのだろうか?私は疑問が尽きない。

根拠2:「共感」は、善悪対立を生み出す

私は平和主義者であり、争いごとに巻き込まれたくない。平和主義と聞くと、やさしく温かく、博愛的なイメージがあるかもしれない。

しかし、私にとっての真の平和主義者の定義こうだ。

「どの立場に対しても肩入れをせず、すべてを客観的に眺める観察者」

争いの勃発の前提にあるのは、善悪の対立構造が存在することである。世の中には、万人に共通する絶対的な善悪は存在しない。(法律はあくまで、人間集団が次世代の個体を産み育てて種を維持していきやすい生活環境を作るために作られた、便宜的な善悪だ。)

では、なぜ善悪が発生するのか?そのきっかけの一つが「共感」だ。

誰かを可哀想に思い、共感することは、可哀想な人の主張を「善」とし、そうでない立場を「悪」とみなす行為に他ならない。

善の存在は、悪を排除する行動を引き起こす。当事者の周辺だけでやっているのであれば、もちろん構わない。好きにやればいいだろう。問題は、ネットのような、関係のない人まで巻き込む場所にまで波及することだ。

善悪は、いつだって、一部の人にとっての善悪でしかない。悪を排除しようと行動している人たちは、その自覚がない。だからこそ、個人の善を、社会全体の善として押し付けるような無神経なことができる。

私は、自分以外の人が持つどの価値観に対しても、客観的に眺める観察者であることに徹したい。自分の中に、善悪の幻想を生み出したくない。なぜなら、そのほうが、全体にとっての最適解が見つけやすいからだ。

つまり、共感によって場当たり的に突き動かされるのではなく、冷静に全体を見て、最大多数の最大幸福につながる選択をするために、どの価値観にも肩入れしないスタンスを取りたいのだ。

このような考えのものにとっては、全体ではなく共感や一部の人の善悪を基準に、「社会」や「世の中」単位での価値観の矯正を強いられることが、ひどく窮屈であり、迷惑だ。一部の人の善悪に合わない意見を言いづらい"空気"が蔓延している社会はゴメンである。

だが、私の声が尊重されることはない。なぜなら、共感されないから。

結び:「共感」だけでは平和は作れない

"共感反射"する人は、他者を思いやる気持ちが強い、優しい人なのかもしれない。しかし、思いやりのある優しい人のほうが、かえって好戦的ではないだろうか?

インターネットをきな臭い空間にしている元凶は、共感である

共感は、共感が喚起されなかった対象の幸福を、「正義」を盾にあっさり切り捨てる残酷な行為でもあるのだ。

共感反射で、社会をよくしている気でいるみなさん。

あなたの価値観は本当に、社会全体にとっての「善」であり「正義」なのでしょうか?

あなたの行動は本当に、「平和」につながっているのでしょうか?

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コメント2件

優しい人こそ好戦的とは、そうかもしれませんね。愛情深く、周囲を愛して、その人を傷つけるものなら全てを「悪」と捉えてしまいそうになってしまう自分を省みました。
「共感=良いこと」というイメージに一石を投じていて、おもしろかったです。
ぜひ『反共感論』という本を読んでみてほしいです。
この本でも共感が正しい判断をできなくする。と書かれていました。
僕も共感にある気を付けるべき点を意識して、行動していこうと思います。
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