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触れた生命線(シーセイド / ゆれる)

「目が悪い人がすきなんだよね」と話した数年前の春。
きちんと添削すれば
「目が悪くて、メガネが似合う人がすき」だったし
「メガネが似合う、素敵なあなたが好き」
が正解だったんだけれど

起き抜けに
「生命線、どこ?」とメガネを探す僕がいたのは
もうヒマワリが傾きはじめた頃の季節で
生命線って触れるのね、と私がテーブルにあるそれに触れながら話したのは
もうずいぶんと昔の話にも感じてしまう。


なんでこんな話を思い出したかというと
電車の中で、上書き保存や別名で保存とか
そんなことをイヤホンの外で聞いてしまったからなのかもしれない。
逆に聞くけど、その二択しか選べないのならどっちがいいのだろうねって考えてた。

「あなたと同じ香水を町の中で感じるとね 一瞬で体温蘇るから」
という一説のある、愛のかたまりという曲がすきで
でも、この意味を実感したり
納得するのに、こんなに時間かかってしまったのだなあと。
つい先日、電車で隣に座った男性が同じ香水で
「なるほど」と実感できた。
体温が蘇ったわけではないのだけれど
「そんな些細な日常的な偶然とかをさ、奇跡とかを運命みたいに思うから騙されやすいんだよ」
と、肩を揺らして笑う姿が重なったことぐらいで
体温までは思い出せないんだな、とか
笑う声もすぐには思い出せないのにな、ってことをぼんやり考えてた。
今でも運命的かどうかとか、ドラマチックかどうかの基準で考えちゃうんだけど
変な水は買わされてないし、幸せになれる壺も持ってないよ。
最後にそんな心配されたのはなんだか変な感じだったなあとか、
これは別名保存になるのだろうか。



生命線は今でも取り外し可能なのかな、外部付属でしょうか。
その生命線ごと、あなた越しに覗き込むのが好きで
そこからなら、同じ世界を見れる気がしたし
隣に座って覗き込むと、
なんも見えんやろって笑って話してたことも(視力僕のほうが悪いしって意味らしい)
別に、くっきり見えるだけが全部じゃないじゃん?って思ってたんだけど
はっきり見えないと生命線の意味ないからねって諭されて
ピントがあわない写真も好きな私は、なんとも不服そうな顔をしていたらしい。
不服というか、腑に落ちないというか。
自分ではわからないその顔を僕はまだ覚えててくれてるんだろうか、
別に覚えててくれなくていいから
どうせ覚えてるなら、坂ばかりに囲まれた大学近くの
かき氷をよく食べに行ってた時に並んで歩いたあの横顔だけ覚えててほしい
それか、僕がゲームをしている足元で本を読んでる姿だけ覚えててほしい。
まあ僕が上書き保存なら、仕方ないのだけれども。

私が覚えてるのは、ここに書かなくても私が覚えてるから
もうそれでいいような気もする。
何でもかんでも形にするのを嫌がる僕と
何でもかんでも形にしたがって、結局カメラマンになって
その時間を形にしている私と
正反対だったねなんて話してたのは最近のこと
同じだからいいとか
反対だからいいとか
そんなことじゃなくて、もっと単純なことで解決できたはずなのに
いつの間にかそうもいかなくなるのは、なんでなんだろう。

生命線が触れる僕と私は
西日が強く差し込むあの部屋で窓を開けたまま、まだ眠っている気がする。
もうそこには青い時計がなくなっても
黒の針が動かなくとも、目覚ましが鳴らないから眠り続ける。
過ぎてしまう眠りこそ、無くならないあの時間のまま留まっていて
それはハクモクレンの落ちる音では気づかない言葉たちが滾々と沈んでいく



※この言葉と話たちはフィクションとノンフィクションです。
どこから何処までが誰と誰で私と僕なのかは架空の場合もありますたぶん。

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