片道二時間だけのバカンス①

朝5時前。
ほとばしる夏の暑さが、まだ身を潜めている。クルッククーと鳴く鳥たちは、蝉に邪魔されない朝ぼらけを目いっぱい楽しんでいる。
「…交通情報です。中央自動車道は、上り線、小仏トンネルを先頭に5キロの渋滞です。下り線は順調に流れ」
起きしなに合わせたBGMに乗せて、滑舌のいい女性が交通情報を読み上げている。昨日はまた、ラジオを消さずに寝てしまったようだ。耳触りのいい声に釣られて夢の中へ戻ってしまいそうな自分を奮い立たせるように、僕はラジオの電源を落とす。

また長い一日が始まる。
軟式野球部の夏休みの練習場は、江戸川河川敷だと決まっている。学校から遠く離れた江戸川まで、僕は京王線、中央線、総武線、メトロ、京成線と乗り継いで行く。長期休みになる度に通い続けていても、未だに片道二時間をかけて練習に向かうドM行為には慣れない。
「また今日も江戸川だよ」
「あんた、もう江戸川行くのもあと何回かでしょ?」
「まぁね」
「ホントよく通ったわよね、六年間も」
リビングに降りると、既に母がキッチンに立っていた。中高に通う六年の間、この風景は変わらなかった。母は偉大だ、と思う。日テレでおは4が始まるくらいに起きて、夏休みに部活に向かう息子の朝飯を毎朝作るなんて、僕には出来ない。
先に顔洗ってきなさい、と声をかけられ、寝惚け眼の僕は洗面所へ向かう。夏のむし暑さにほだされて、蛇口の水もなんだかぬるい。少し時間が経って、水が生気を取り戻したことを指先で確認すると、僕は勢いよく冷水を顔にぶちまけた。

「いってきまぁす!」
右肩にパンパンに詰まったエナメルバッグをぶら下げて、僕は家を飛び出す。右投げなら右肩に負担をかけないように、左肩で荷物を背負え、と誰かに言われたことがあるが、僕はすぐにそれを諦めた。
右投げなら荷物も右肩で背負って鍛えた方がいいっしょ、という謎理論を掲げ、僕は頑なに左肩で荷物を背負わなかった。実のところは、左肩が撫で肩で、肩に掛けて歩く度にずり落ちてくる荷物が鬱陶しかったせいなのだが、それは誰にも言わない。なんかダサい気がするから。見えない意地に縛られて、自分を苦しめることが、今以上に多々あった。

家から最寄りのめじろ台駅までは、走って4分しかかからない。それでも、駅に着いてホームに並んで荷物を下ろすと、もう既に身体がじんわりと汗ばんでいる。
シャツを替えればよかった、と一瞬の後悔の後に、朝の忙しなさの中にその作業を挿し込む時間は無かったことを思い出す。
七月の太陽は、朝から威勢がいい。さっき食べた目玉焼きみたいだ、と僕は思う。半熟の黄身をナイフで割くと、じわぁっ、と液体が滲み出る。その下に敷かれたベーコンやキャベツの隙間に、液体は編み込まれていく。そのつやつやとした黄色を纏うと、ベーコンやキャベツは装いを新たにする。僕たちはベーコンであり、キャベツだ。太陽から痛いほどの光を一身に受けて、輝きは増す。
「まもなく、二番線に、各駅停車・高尾山口行きが参ります--」
汗ばんだシャツでぱたぱたと身体に風を送り込みながら、我先にと電車に乗り込む。

高尾駅に到着すると、大半の乗客は中央線に乗り換えようと移動を開始する。僕も急ぐ。早ければ早いほど、角の席に座って快適に眠れる確率が高まる。
中央線は高尾駅を始発とした電車が多い。朝6時を回ったばかりにも関わらず、高尾駅は都心に向かう人で溢れている。京王線からの乗り換え客がやってきたすぐ後に、中央本線に乗って甲府方面からやってきた通勤客が大挙する。
通勤客は、皆おしなべてつまらなさそうな顔をしている。太陽の光を一身に浴びても、恨めしそうに上を見上げるだけだ。大人たちは、目玉焼きを焼きすぎて完熟にしてしまったのだ。僕はそんな大人たちを見上げる度に、ああはなるまいと心に決めていた。大人になっても、半熟のままに鮮度を保っていたい、と願った。きっと、火加減次第で黄身を半熟に保てるはずだ。
思考を妨げるように、ぷしゅ、と間の抜けた音を立てて、ドアは閉まった。ゆっくりと動き出した電車の振動が、僕は好きだった。いちばん寝るのに適した振動を生むのは、たぶん中央線だ。
僕は、乗り換えの御茶ノ水駅に到着する直前に起きられるという特殊能力者だ。六年かけて会得したこの特殊能力は、電車でしか効力を発揮できない。暇さえあれば寝てばかりいる僕も、電車の中では自在に睡眠を操れる。豊田を過ぎたあたりだろうか。イヤホンから流れる音楽が徐々に遠くなっていき、気づいたらもう別世界へ飛んでいた。

御茶ノ水駅の乗り換えは忙しない。中央線と総武線のホームはひとつにまとまっており、対向する番線に乗り移るだけでいい。時計の針は7時を少し過ぎたところだ。
総武線は座れない。途中、秋葉原駅でさらに乗客は増える。おじさんたちの疲労と仕事への意気込みを乗せたため息が、すぐ近くから僕を襲う。さっきまで表面がぴんと張っていたエナメルバッグが、申し訳なさそうな表情を浮かべる。左肩でおじさんたちに戦闘態勢をとるバットケースを制するように、僕は身体の中心に移動させた。

そんな地味な攻防を繰り広げていると、まもなく浅草橋駅に到着する。
ここで地下に潜り、都営浅草線に乗り換える。がら空きの浅草線で、また角に身を投じて、眠りに落ちていく。柔らかい毛布のような朝日の光を瞼の向こうに感じた時には電車は既に地上に戻っていて、僕は乗り過ごさないように気合を入れ直す。
押上駅を境に、都営浅草線は京成線に接続する。京成線に乗ると、[Champagne]の『Me No Do Karate.』というアルバムが今でも耳を衝く。インストゥルメンタルのRiseから始まり、Stimulater、Starrrrrrr、Kick & Spinなど11の曲が収録された名盤だ。10曲目にはThis Is Teenageという曲があり、このあたりで京成江戸川駅に到着する。コンクリートが剥き出しの閑散とした駅に降りると、そこはむわっとした熱気の遊び場になっていた。そのテリトリーは広く、どこまで行っても境界線を見つけられない。途中、Suicaに2000円をチャージして改札を抜ける。

熱気の中、駅の裏の土手を登り、反対側へ抜けると、そこには16面の広大な野球場が広がっている。夏休みも始まったばかりで、まだ他の高校の姿は少ない。
イヤホンをとって土手を駆け下り、おはぁざーす、と声を出して一礼し、土に足を踏み入れる。仮にも体育会系ということで、僕たちはグラウンドへの敬意を無意識的に脳ミソに刷り込まれている。
近場にエナメルバッグを置き、道路上の「止まれ」の文字より真っ白に洗濯された練習着に着替える。8時の練習開始は、もうまもなくだ。

「ならんでえー」
再度グラウンドに挨拶するために、部員全員が一列に並ぶ。スパイクに履き変えるのに手間取っていた僕も、急いで列の中に溶け込む。
おねァしゃあーす!、と自分を鼓舞するように大声を出して、それぞれランニングの隊形に散る。一塁側のファールゾーンから外周を回るように、その列は掛け声に合わせて進んでいく。スパイクの刃が土に刺さり、足を進める度に乾いた土を跳ね上げる。ソックスに隠されたいくつもの逞しいふくらはぎが伸縮し、その上下動を支えている。

This Is Teenageのサビにはこんな一節がある。

We believe in brighter days
An optimistic thoughts are burning down
But hang on
We got to get up
And let the whole world see it

僕たちは、数ヶ月後に迫った大学の推薦の可否の不安なんて全く考えなかった。そんなに野球が強くなくても、軟式のくせにデカい態度をとるなんて揶揄されようとも、自分たちが最強だと無条件に信じていた。僕たちがそこに存在して、喋っているだけで、球場は、世界は、全てが思うままに動かせると思っていた。

ランニングを終えて、キャッチボールの距離がじりじりと広がっていく。
太陽は、家を出た時よりもだいぶ高い場所に位置している。

また、長い一日が始まる。

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