見出し画像

フラッシュバックしたら、日記をつけてみることにした。

自分は何事にも過剰反応してしまって、感情の振れ幅が大きいと思って生きてきた。しかし最近、過剰反応の中に混じる「過去の体験」の存在に気づくようになってきた。

例えば、私は仲良くなる時の距離感の取り方がとても不器用で、自分のことを理解してくれると感じると、何でも洗いざらい話して理解してもらいたくなる。そもそも、そのぐらい心を許せる人というのは限られてくるので、一気に距離を近づけてしまい、依存してしまう。さらに言えば、依存してしまうことで、自分の苦しさも理解してほしくて、感情が暴れている時にたくさん吐き出してしまう。

私は気づいていなかった。依存というものがなぜ悪いのか。

私は大切な人にすがりついているつもりだったけれど、全く逆だった。

私は、大切な人に自分のあらゆる感情を吐き出し、まるで「ゴミ箱」のように利用していただけだったのだ。
大切な人を物のように使い倒し、自分の思うように理解が得られないと、「どうしてわかってくれないんだ、誰も私のことを見てくれない」と子供のようにわめいていたのだ。

Hurt people hurt people.
という一文がある。
傷ついた人が、他者を傷つけるという意味だ。

私は自分の傷ついた内面を誰かに気づいてほしいという一心で、ずっと他者を傷つけてきた。今の今まで、気づかなかった。

これほど自分を恥じたことはない。自分は他人のせいになんてしてない。ずっと自分で抱え込んできた。なのにどうして私がまた傷つくの?どうして誰も謝ってくれないの?

傷を受けたことは事実でも、それによって私が暴れて、嗜癖に走ったり、問題行動に走るのは、誰の責任でもなく、私の責任だということに、気づけなかった。

傷つけてきたあの人のせいで、私は自傷行為に走ったんだ。謝ってほしい。なんて、他責も甚だしい。どんな動機があるにせよ、自傷行為じゃない方法をとらなかったのは、私自身だというのに。

自分のあらゆる醜態に対して恥を感じながら、私は自分の「過剰な感情」に向き合うための一つの取り組みを始めた。それが、日記を書くことだ。

ただ思うことを書き続けていく、というわけでもない。自分の中での「感情」をそのまま観察するのではなく、過去の体験や感情が引き起こされた原因(トリガー)などに注目しながら書く。

トリガーと過去の体験と記憶に注目する

まず「感情」はとても乱れていることは間違いない。だからこそ、その感情にのみこまれてしまわないように、少し感情と距離を置き、落ち着くのを待つ。そしてある程度落ち着いてから、「トリガー」と「過去の記憶」について考える。

「感情」がぶわっと湧いてきた理由になった出来事は何か。その出来事と似たような体験をした記憶は残っていないか。心の中でトリガーと過去の体験の記憶を見つけたら、その出来事について日記に書いてみる。

  • どんな出来事があったか

  • その時に感じた感情がどのくらい苦しかったか

  • 結果自分はどのような行動をとったり、被害を被ったか

  • 思い出せる範囲で書いていく。

次に、トリガーについて書いていく。

今の感情が沸き起こってきたのは、過去の出来事のどの部分がトリガーだと思うのか、推測でいいから書いてみる。すると、

「私は起きた出来事のせいで取り乱している」

と思っていたのが、次のように表現しなおすことが出来るようになる。

「私は起きた出来事がトリガーになって、過去の体験を思い出し、その時の感情が沸き起こっていて取り乱している」

取り乱しているのは今の私?それとも過去の私?

ここまで言い換えることに成功すると、自分の感情を「観察」できている気がする。そこで自分に問いかける。

「起きた出来事で取り乱しているのは今の私なのだろうか?」と。

すると、先ほどまで手が震えて、動悸がしていて苦しかった自分の心が少しだけ余裕ができているになることに気づく。

そこで、ダメ押しのように日記に書いて刷り込む。

「私は起きた出来事で取り乱したのではなく、過去の記憶や感情がフラッシュバックして取り乱していた。だから、今の私は思っている以上に取り乱していないし、今の私は安全な場所にいる。だから大丈夫。

本当のところはどうあれ、過去の記憶がフラッシュバックしているのは多少なりとも事実だから、フラッシュバックした苦しさを、思考だけではなく文字として出力して、自分で読むことでさらに刷り込む。

過去の私に対するねぎらいの言葉を

ここまで書き終わったら、少しだけ支配的な暴れまわる感情は多少落ち着いてくる。そして、同時に過去の自分の、誰にも理解してもらえなかった感情の存在に、自分自身が気づいてあげることが出来ている。

現在の私と過去の私が、日記の上で会話をしているような感じだ。

現在の私は、何と声をかけてあげるだろう。

もし仮に、友人が同じような苦しみで目の前で泣いていたとしたら、きっと労い、励ますだろう。

「辛かったね。その中でよく頑張ってきたね。理解してあげられなくてごめんね。」
こうした言葉を、日記を通して過去の自分に投げかける。

心理療法でカウンセラーの前でこうしたセッションをするのも、なかなか恥ずかしくて抵抗があるが、日記なら誰にも見られることもなければ、誰の目を気にすることもない。
過去の自分の苦しみも、我慢も、理解されない痛みも、受け入れて労うのだ。

こうすることで、フラッシュバックした過去の記憶と感情は、きちんと「過去の自分の記憶」として自分の一部になっていく。

終わりのない日記での対話

この一連の日記を書き終えれば、トラウマを乗り越えられるか?といえば、まあそんなことはない。たった一つのトリガーが、記憶と結びついて自分の一部になっただけの話だ。

私たちの心の中には、こうした痛みを伴う記憶やトリガーがいくつも散らばっている。

また気持ちがぶわっと高ぶってしまったら、日記で自分を対話する。
ある意味で、これが「棚卸し」であり、「日々の棚卸し」であるのだろうと感じた。

こうした作業をカウンセラーの力を借りることはとても有効だと思う。
書くことは苦手だけれど、話すことならできるという人もいるだろう。

自分の特性に応じて、好きな方法を選択するのがいいと思う。

人の前では明るくガハハハ!と笑顔でいる私にとって、正直に心の中を話すというのはなかなか上手く出来ない。
私にとっての「自分との対話」は、今のところは日記が一番ちょうどいいのかもしれない。

性依存症当事者の目線から、性依存症の専門書を翻訳した情報や、当事者として感じたことを中心に発信しております。 おもしろいな、もっと読みたいなと感じていただけたら サポートをしていただけると嬉しいです。