鬱蒼とした世界で(1)

 なぜ人は生きるのか。そもそも人に生きる理由なんて存在するのだろうか。訳も分からずに気が付いたらこの世にすでに自分は存在していて(多分…)、半強制的に生かされているのではないか。そんなことを思いながら今日の朝は目覚めた。いや、正しくは目覚めてから布団を出るまでの間に考えたことだ。朝っぱらから何を考えているのだろうかと自分でもうんざりする。そんなことを考えながら朝食の席に着いた。テレビには朝の報道番組が映っていた。映ってはいたがあいにく席の関係で音声しか聞こえない。そこでこんな言葉が聞こえてきた。

 「頑張れ」

 集中してテレビの音声を聞いていたわけでもないので、どんな文脈でこの言葉が発せられたのかは分からない。けれど何かが引っかかったのだろう。

 こんな言葉が今の世の中には溢れすぎているようにも感じる。周りから見たって、おそらく本人だって頑張ってはいるのに、赤の他人のように「頑張れ」。そんな言葉が街には蔓延っている。この言葉以外かける言葉がないのかもしれない。確かに頑張っていない人間にはこの言葉はかけなければならないだろう。けれどもキャパが限界を超えてしまっている人、仕事ができる優秀な人、そんな人たちにこの言葉がかけられてしまっているような気がしてならないのである。

 スラムダンクの安西先生の有名な言葉に「諦めたらそこで試合終了ですよ」という言葉がある。この言葉の真意が分からないわけでもないし、どちらかといえば賛成的でもある。しかし、いつか見たこんな言葉にも納得している。

「諦めたら確かに試合は終わってしまうけれど、人生は終わらない。諦めたことによって始まる何かもある。」

 何かが終わるからこそ、何かが始まっていく。終わるものが人生でなければ、人の世は続いていく。その中でまた何かが生まれていく。そんな気だってしている。

 様々な人を奮い立たせたり、励ます言葉が蔓延っているこの世界で、励ましの言葉だけが励ましではないと思う今日この頃。人の気持ちを考えて心の底から生み出された言葉には、なんだか言霊が宿っているような気もする。言葉というのは文脈で生きるものだと改めて気付かされる。一般向けの自己啓発本で啓発される人もいるのかもしれないが、個人的には、身近な人からかけられるふとした一言の方が効力があるのでは。と思ったり。そんなこんなで言葉についてこの他にも色々と考えていたら1日が終わりそうな勢いである。こんなことをまた考えられる日が来ることを祈って最後に僕自身が一番印象に残っている言葉を残して今日は閉めよう。

 悲しい時は沢山悲しめばいい。落ち込んでいる時は、思いつめない程度に落ち込んだっていい。そうした後に、もう一度自分を振り返ってやりたかったことや、やらなきゃいけないことを一生懸命やればいいんだよ。そのためには、自分の感情に嘘をつかないで。

 

 

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