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『食と森茉莉のやさしいレシピ』- エッセイ【無料】

先日、邪宗門という世田谷にあるカフェに足を運んだ。
下北沢駅から迷路のように、人の溢れる都会の街をくぐり抜けて、だんだんと人気が無くなってきたころに、ふっと現れるカフェだ。

私はスマートフォンで表示した地図を見ながら、あっちかしら、こっちかしらと迷いながら、ようやく、住宅街の中に異彩を放つその店を見つけた。

店の雰囲気に誘われるようにドアを開けて中に入ると、外観の雰囲気とは打って変わって気さくそうな店主の方がにこやかに微笑み、「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。


席につくと、「森茉莉のファンの方ですか?」と尋ねられ、私は一瞬、戸惑い、曖昧な気持ちで「はい」と答えた。そして、少しの罪悪感が訪れた。私はある理由から、「はい」と答えてしまってよかったのか、わからずにいた。


「茉莉さんがよくいたのは、あの窓辺の席ですよ」と店主の方が指さした先にあった席は、窓を後ろに、ひとり、読書に耽るのにも些か狭いのではないかと思うくらいの窮屈そうなスペースだった。
しかし、その場所で原稿と向き合う森茉莉の姿を、私は容易に想像することができた。考えてみると、体の細い茉莉さんにはちょうど良かったのかもしれない。


「茉莉さんはね、一杯の紅茶だけで一日を過ごしたり、執筆活動をなさったりしていたよ。」
私は邪宗門名物、森茉莉ティーを頼んだ。
なんでも、森茉莉が、店主にこっぴどく紅茶の入れ方を指導して作られた店の、というよりも、森茉莉のためのメニューだそうだ。


森茉莉ティーを頼み、あの席で邪宗門を過ごすのは、森茉莉ファンのあこがれだろう。実際に、カフェにあるファン同士の交流ノートには、「同じ席に座るのが夢だった」といった感想があった。
交流ノートの他にも、邪宗門や森茉莉についての記事が掲載されている雑誌や資料を見せてくれた。私は森茉莉ティーを片手にいくつかの雑誌のページを捲った。


ぎゅううううう……と、お腹が鳴りそうになるのを、必死にこらえて、私は彼女の文章に食いついた。

ここまでくるともはや弁解の余地はございません、といった感じである。
さようでございます、私は食欲に背中を押されて彼女の文章の虜になってしまった、というただの食いしん坊なのです。

初めて森茉莉の名を聞いた時のこと。
あの時は、国語の授業の時間で、血眼になって、漢字で埋め尽くされた鷗外の舞姫に向き合っていた。おまけにそれはお昼前の授業で、私は空腹とも戦っていたから印象的だった。


「今日は学食にする?お弁当持ってきた?」なんて、ひとたび誰かが言葉を漏らすと、いよいよ学生の集中力が途切れる。
教室でおしゃべりがひそひそと始まり、教師は、教科書の解説をやめて、鷗外の文学史を話し始めた。
ここで偶然、余談として話題に上がったのが森茉莉のことであった。続いて、黒板に名前らしきものが書かれた。森という苗字の後に、異国の人を思わせるような音を持つ名だった。
・森茉莉
・森不律
・森於菟
今でいうキラキラネームのインパクトは凄まじく、誰もがちょっと顔をしかめた。まるでファンタジー漫画のキャラクター達のような……。
もちろん、当時学生だった私も、同じように顔をしかめていた。森茉莉が登場したのは高校三年間の授業で、その一回きりではあったが、字面と読みのインパクトで、みごとに頭の片隅にこびりついてしまったのだ。
森茉莉。
鷗外の愛情を一身に受けた娘。
黒板に書かれた人物名のうち、最も普通そうな字面だが、彼女のエッセイを一ページ、また一ページと捲っていくと、そこには、普遍なんぞという言葉を持ち合わせていない、途轍もない変わりものがいた。

そして、最近になってようやく彼女の著書を手に取ることになった私は、普通じゃない食へのこだわり、他者からしたら厄介極まりない、尽きることない食欲という欲望を持ち合わせていた。
だからこそ、ひとたび手に取ったら、次々と口に放り込みたくなるような小さなクッキーのように、病みつきになった。

私の背中を強く押したのは、他でもない、食であった。

私は、相当の好き嫌いが激しい。好き嫌いの激しさゆえに、人と険悪なムードになってしまうほどだ。ふらっと訪れたランチで口にする肉や魚は、臭い、血の味がするだの騒ぎ立て、ギトギト油の料理を食べると翌日までお腹を壊す。上司に誘われて食べに行った1000円ほどのランチの肉が噛み切れないほどのかたさで、咀嚼するだけで「ウプ」となり、爽やかな笑顔を作ってから席を外し、トイレに行って吐き出した。(なので、お喋りの内容なんかよりも、食というか、味覚の趣味が合わない人とは親しくなれない、味覚の方がよっぽど正直なので)とにかく美味しくないものがダメなのだ。
こうして私から離れていった人は数知れず。いつか私の周りから誰もいなくなるんじゃないかという恐怖に駆られ、とうとう、料理を始めることにした。
幸い、料理をすることで、私は、少しずつ、自分の好みの味付けを知り、料理のレパートリーを増やしていくことができた。知れば知るほど孤独は加速したが。
新しい好みの味をはっけんするために本屋へ行くと、料理本が置いてあるフロアで二時間ほどレシピを眺めて、どうしたらもっと美味しくなるのか、好みそうな料理はないか、とうろうろとしたり、じっと頭の中で一連の作業工程をシュミレーションしたりして過ごすこともある。
これがまた楽しい時間の過ごし方だということもわかった。

そうこうして、私は出会ったのだ。
森茉莉のエッセイを料理本の中で見かけ、なんとなく手に取った。どこかで見たことがあるような、と思い、学生時代の、国語の授業でほんの一瞬よぎった。ふたつの点と点を繋げた架け橋は、食欲だったのだ。


ページを捲る。殆どが食についての話題で埋められているではないか!


おまけに、相当面倒くさそうなまでに料理だけでなく、生活についてあれこれ言っている森茉莉がいた。


冷たい紅茶に使う氷は、決まった店のものじゃないと嫌だ!とわざわざ氷だけを求めて買い物に出る森茉莉、料理の腕は一人前だがその他全ての家事生活は怠惰だった森茉莉、ときに少女のように父、鷗外を思う森茉莉、カーディガンをたくさん買い込んで箪笥にしまっている間にうっかり虫に食わせてしまって夜中に「誰も見まい」と川(!?)に流しに行く鷗外一家のことなど。

読み終わる頃には、参りました、という気持ちにさせられたのだった。

さてさて、ここまでくると、嫌でも彼女の味覚を知りたくなるのではないだろうか。私が手に取ったエッセイや邪宗門に置いてあった資料にも掲載されていたレシピをメモして、それに倣い、『牛肉とキャベツの煮込み』を作ってみることに。幸い世の中は日々便利に進化を遂げているので、私のように、食欲に背中を動かされなくてもインターネットでレシピを見ることができますが。

『牛肉とキャベツの煮込み』
インターネットのレシピでは、どちらもブイヨン、コンソメキューブを使っておりましたが、今回は使わないで、出来上がり際の塩コショウのみの味付けのみに。以下私が行った手順。

1,牛スネ肉(150g)とキャベツ四分の一ほど(なるべく多くした方が良かったかも)を深い鍋に入れて、水をひたひたにして15~30分ほど中火で煮る。この時、肉がキャベツに覆われている方が良し。

2,沸騰してぐつぐついうと、アクが大量に出るので、すくってきれいに取る。アクが沢山出るので、水はひたひたにする必要があるのだ。水が足りなくなったら、その都度足しても良し。沸騰してアクを取ったら、弱火で3時間半くらいの時間をかけて、蓋をして煮る。

3,肉がホロホロになったら、塩コショウで味を調整して、火を止める。器に取ったら、適当なサイズに切り分けたトマト(私は皮を取った)を入れて、刻んだパセリをかけて、完成。お好みで醤油をつけて食べる。

以上です。超超簡単。
ほぼ、ポトフの手順と同じですね。私は肉の臭さが苦手なので、ポトフを作るときはセロリとブーケガルニを入れてさらに野菜を入れています。しかしこのレシピは肉の臭みを消すといったことをあまりしていないです。シンプルな味付けでどういうものが出来上がるのかあまり想像がつかなかったので余計にワクワク。

で、食べてみたました。おいしゅうございました。
恐らく、パセリとトマトが重要。スープは塩でもじゅうぶん引き締まるようになっており、肉の濃さや味の強さが、トマトの甘さで中和されつつ、パセリがハーブ代わりになって程よく臭みを消している。ちゃんと具材の役割が見えてくるレシピだ。薄味だが、自然なおいしさがやみつきになって、箸が止まらない。

ところで、森茉莉は、料理は精神をこめないとダメと言った。

溜まった疲れが出やすい季節の変わり目に、とくに美味しく感じるのではないだろうか。労働続きで、味の濃い料理に慣れてしまい、飲み会続きな人たちに、特にお勧めしたい。初めはやや薄味だと感じるかもしれないが、ありったけの精神を込めて自分のために料理をすることは、体や精神のためになるだけでなく、味覚の休息にもなるだろう。

私たちには、読書に耽ることが楽しくて仕方がないと感じる時がある。読書は、ふらっと気持ちを寄り道させるような、自身にゆとりを持たせるための、心の散歩だ。それと同様に、味覚も同じようにさせてやって欲しい。時間の流れが、激しさを増していく中で、可能な限り、あらゆる感覚を意識し、時の流れの速さに感覚や感情が摩耗しないように、ふらりと原点に返る時間を、大事に、大事にしてゆきたいものだ。
ぐつぐつと煮込まれる肉や野菜をぼーっと見つめるのは、やたら食にこだわりを持った私のような人間以外にも、蝋燭の火をただ見つめる時のような穏やかさがあるのだよ。

さあさあ、食欲に背中を押されたあなた、今がその時です。もっとも、これは食いしん坊な女の戯言であるが。

小説を書くのに必要な文献費用に使います