量子力学を考える

2023年5月18日に朝日新聞に寄稿した文章の草稿です。

 光量子仮説とは,1900年に発表されたプランクの量子仮説を発展させた考え方です。光にはそれ以上分割できない単位があるという考え方です。その単位が光量子です。高校の教科書では,光の粒子性の発見として紹介されています。今日では,この光の粒子は光子と呼ばれています。光は電磁波と呼ばれる波の一種です。ところが,極ミクロな世界では,光を波として扱ったのでは説明できない現象があります。光電効果もその一つです。アインシュタインは,光量子という概念を導入することにより,光電効果の現象の説明に成功したのです。
 光の粒子性の発見は,光の波動性の否定は意味しません。1924年のド・ブロイによる物質波の発見を経て「粒子と波動の二重性」という概念に到達します。そして,1900年から始まる新しい物理学の胎動は,1925〜1926年に量子力学と呼ばれるまったく新しい物理学の理論体系を誕生させます。高校で学ぶ内容は1924年までの前期量子論と呼ばれる考え方です。前期量子論と量子力学は似て非なるものです。
 「粒子と波動の二重性」については,「物理的な存在は粒子でもあり,波動でもある」という説明がなされますが,これは一種の比喩であり,ややミスリードです。寧ろ,物理的な存在は粒子でも波動でもない,と言った方が正確です。粒子と捉えることにより観測結果を説明できる現象もあり,波動と捉えて説明できる現象もあるということなのです。では,粒子でも波動でもない物理的な存在とは何か? ということが問題になりますが,それを既存の概念で言い表すことはできません。まったく新しい概念を導入する必要があり,それが「量子」です。そして,量子についての理論が量子力学です。ところが,量子力学の正当性について激しい論争がありました。
 皆さんは,ある粒子の状態(速度や位置)は,人間による観測とは無関係に,それ自体確定的に定まっていると考えるでしょう。量子力学以前の物理学も,このような世界観―実在論―を前提としていました。しかし,量子力学は実在論と深刻に衝突する理論です。量子力学では,実際に観測するまでは粒子の状態を確定的に述べることはできず,確率的な情報のみが得られるのです。これを嫌い,量子力学を批判する物理学者もありました。実は,その急先鋒に立ったのもアインシュタインです。アインシュタインは1935年にポドロスキー,ローゼンと連名で,実在論と量子力学の間の背理的状況―EPRパラドックス―を指摘する論文を発表しています。この論文は,強い相関を持った2つの粒子のペアを想定して議論を進めています。強い相関とは,例えば,粒子の状態として上向きまたは下向きという選択肢がある場合に,一方の状態が上向きならば,他方は下向き,あるいは,その逆という対応関係です。現在では,このような状態を「量子もつれ状態」と呼びます。
量子力学にかかわる論争は,議論の内容が科学的に検証可能な形ではなく,各々の世界観に基づくメタな解釈論の応酬になっていました。そのため,議論は平行線を辿っていましたが,1964年のベルの発見が,この論争に決着をつける可能性を拓きました。ベルは,ベルの不等式と呼ばれる不等式の成否を実験的に確認することにより実在論の正否が判定できることを証明しました。ベルの不等式にはいくつかの型があり,特に1969年にクラウザーらによって導かれたCHSH不等式は,オリジナルのベルの不等式よりも実験的な検証を行いやすいものになっていました。実際,クラウザーも実験による検証を行い,ベルの不等式が破れていることを示しました。しかし,クラウザーの実験には結論に影響する抜け穴の存在が指摘されました。1982年にアスペは,量子もつれ状態にある光子を用いた新しい実験法を考案し,その抜け穴を完全に塞いでしまいました。これにより極ミクロな世界における実在論は否定され,量子力学の理論としての正当性が実験的に確認されたのです。
 2022年のノーベル物理学賞は「量子もつれ状態の光子を用いた実験によるベルの不等式の破れの実証と量子情報科学の開拓」を受賞理由として,クラウザー,アスペとツァイリンガーの3氏に授与されました。ツァイリンガーのグループは1997年に,量子力学が予言していた量子テレポテーションと呼ばれる現象の実証に成功しました。ノーベル賞発表のプレスリリースには「量子もつれ状態―理論から技術へ」という見出しが付されています。量子力学が技術に応用される時代が始まっています。量子力学は,それ以前の物理学の前提となっていた実在論を否定する理論ですから,その黎明期には受け容れられない物理学者が存在したことも理解できます。しかし,21世紀に科学を学ぶ皆さんにとっては,力学や電磁気学と同様に,量子力学も共通の言語となります。実在論を前提とした高校までの物理に引きずられずないように学んでください。

高校生,受験生に物理を教えています。