読んでみた(過去のレジメ集):ケント・ハリントン The Tattooed Muse (2001)

題名:THE TATTOOED MUSE (2001年11月)
著者:ケント・ハリントン
出版社:Dennis McMillan Publications
ページ数:288ページ

【現時点での注釈】
 二〇〇一年に扶桑社から二冊『転落の道標』Dark Ride (1996) 古沢嘉通訳、『死者の書』Dia De Los Muertos (1997) 田村義進訳が出て、ノワール好きのなかでそれなりの評価を得たケント・ハリントン。その後、八冊の長篇を上梓するも、日本で紹介されることはなかった。これはひとえに私の責任である。第四作のThe Tattooed Muse (2001) を読んで、大変気に入り、ぜひ訳したいと扶桑社の担当に伝えたのだが(版権取得まで至ったのか、覚えていない)、忙しさにかまけてなかなか手を付けることができず、そうこうするうちに、扶桑社の海外部門が縮小され、結局、訳すことはなかった。下記のレジメでも書いているように二冊の邦訳の余韻が残っているうちに訳せば、そこそこ評判を取って、以降の作品も訳されていた可能性があると思うだけに、慙愧の念にたえない。(2022年5月4日記す)

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 異能作家ケント・ハリントンの四作目。
 てっきりノワール系の作家だと思っていたら、とんでもはっぷん、ハリントンは「おなじ物は二度と書かない(ダストジャケット見返しの文章)」作家であったとは。三作目The American Boys (2000) のスラップスティックぶりは、意図的なものであったのか、とこのThe Tattooed Museを読んではじめて合点できた。
 今回の作品は、ヒッチコックの『めまい』(1958)へのオマージュでもある、サスペンス。シンプルなプロットにハリントン独特の捻れた人物描写がからみあい、滅法面白い小説にできあがっている。翻訳の価値、充分にあり。

【梗概】
 舞台は、現代のサンフランシスコ。
 マーティン・アンダースンは、作家志望の二十八歳。二十代後半の作家志望者たちが集うワークショップ・メンバーのひとりで、皿洗いのバイトと売血で、生活費を稼ぎながら小説を書いている。ほかのメンバーは、学生時代からの知り合いでマーティンの友人でもある金回りの良い弁護士マイクル・ブーン、ハーヴァード出でコンピュータ・サイエンスのPhDを持ちながらストリッパーのバイトをしているシンディ・ウォン、攻撃的で狷介な性格の医学生ケヴィン、ファムファタル的魅力の美人ヴァージニア・ウィンストン、フルタイムの売れっ子作家であるベッツィー・オースティン。
 だれもがひとかどの作家になることを夢見、期待しながらワークショップをつづけてきたが、三十代が近づいてきたことで、煮詰まり感が出てきて、メンバー間の(恋愛)感情の相克や軋轢もうまれだしてきた頃、マーティンは、長篇の出版にこぎつける。評判・売れ行きとも上々で、映画化権も売れ、一躍、新進気鋭の作家として注目されるようになった。住まいもそれまでのアパート暮らしから、コイット・タワー(ヒッチコックの『めまい』にも登場した、サンフランシスコの有名な塔)を目前に眺めるコンドミニアムを購入し、引っ越す。
 いきなり注目を浴びたことや、自作の脚本執筆にまつわるハリウッド映画業界人との神経をすり減らすやりとり、そしてなによりも、友人マイクル・ブーンに雇われた私立探偵ポウル・クラインから、自分が子供のころ、養子に出されことを初めて聞かされたことで(実の親の家系は、マイクルの勤め先の弁護士事務所の上得意であり、莫大な財産をマーティンに分与することになったのだった)、マーティンは徐々に不安定な精神状態になっていく。
 時間の経過の感覚が無くなり、繰り返しおなじ悪夢を見るようになる。コイット・タワーの頂上から、見事な金髪の若い女性に幼い自分が投げ落とされる夢を。なにかに取り憑かれたようにコイット・タワーを訪れるようになったマーティンは、そこで悪夢のなかで見たのとおなじ金髪の女性を見かけた(と思った)。また、クロゼットのなかに絞殺された犬を見つけ、通報した警察が駆けつけたときには消えていたり、書いた記憶のない原稿を仲間に見せられたりして、自分は狂ってきたのだろうか、と悩む。マイクルの紹介で、若き精神科医スーザン・エルダーズ(マイクルのフィアンセ)の元を訪れるが、処方された薬を飲もうとせず、治療の効果はない。
 思いあまって、私立探偵のクラインに自分を尾行し、どんな行動を取っているか調べてくれるよう頼む(このあたり、『めまい』の展開を使っていますな)。クラインの調査で、コイット・タワーに足繁く通っていることが明らかにされたが、マーティン本人にはその記憶がない。しかし、マーティンが見かけたという金髪女性は、たしかにクラインも目撃したという(人相まで確認できず)。
 そうこうするうちに、映画監督のヘンリー・フィッシャーからの再三の脚本手直し要求に我慢できなくなったマーティンは、ホテルでの打ち合わせ中に、口論の末、脚本から降りることにした。その直後、フィッシャーがホテルの室内で何者かに殴打され重態に陥る。マーティンに嫌疑がかかるが、本人にはまったく覚えがない。しかし、自分の記憶に自信がないマーティンは次第に追いつめられ、コイット・タワーのてっぺんから転落して死亡する。死後、マーティン愛用のラップトップ・コンピュータのなかに、犯行を自白する遺書が見つかり、警察は自殺と断定する。
 ここまでで、全体の約半分弱。
 
 物語の後半は、マーティン死亡後一年が経った時点からはじまり、私立探偵ポウル・クラインが主役になる。クラインは、まもなく四十一歳になろうとする元海兵隊員で、私立探偵を方便としながら、作家になる夢を胸に秘めている人物。ユダヤ人で、ダッハウのナチ強制収容所の生存者である両親のあいだに生まれた(父親はすでに死亡し、七十代の母親だけが存命)。
 クラインはひさびさにヴァージニアと再会する。すべての財産を彼女に遺すという遺言メモが見つかったことから、ヴァージニアはマーティンの莫大な財産(印税、映画化収入、実の親からの財産分与)を受け取ることになっていたが、マーティンの死を調べてくれとクラインに依頼する。マーティンが人を殺すわけがない、だから、あの自殺はおかしい、と恋人だったマーティンの人となりをよく知るヴァージニアは訴える。シンディも同意見だという。
 ヴァージニアに岡惚れしているクラインはその依頼を引き受けるが、ヴァージニアの精神状態もかつてのマーティン同様不安定になっており、金髪女性につけられているという妄想(?)を抱いていた。
 調査によって、マーティンが養子に出された経緯が判明する。
 マーティンの実母、マーガリートは、サンフランシスコの富豪ジェイ・コルスラッドの娘だったが、プエルトリコ人の恋人とのあいだに子供(マーティン)が出来たことを理由に強固な偏見の持ち主である父親ジェイに無一文で家を追い出され、やがてコイット・タワーから飛び降りて自殺する(このとき、塔の下までマーガリートは当時六歳だった息子マーティンを連れてきており、長ずるにおよんでマーティンが塔に無意識のうちに執着していたのは、母親の自殺を目撃したためであることがわかる)。実家に引き取られたマーティンだったが、スキャンダルを恐れた祖父母によって、養子に出されたのだった。
 ヴァージニアは、自殺未遂を起こす。親身になって世話してくれるマイクル・ブーンに心惹かれている、あたしに惚れても無駄よ、とクラインにつれない。マーティンが自分で書いた記憶のなかった原稿の最初の章は、冗談で書いてマーティンのパソコンに入れていたのだけど、残りを書いて完成させたのは、あたしじゃない、とヴァージニアは告白する。さらに、文才から言って、残りを書けたのはケヴィンかもしれないと彼女は示唆する。
 確認したところ、自分が書いたのだとケヴィンは認めた。マーティンの才能に嫉妬し、敵愾心から、困らせてやろうと思って書いたという。
 マイクルの別荘でひらかれたワークショップに参加させてもらったクラインは、そこでマーティンの遺した最後の文章を読み上げる。コイット・タワーでの母親の自殺を描いたものだった。たまたま参加していたスーザン・エルダーズがその朗読を聞いて、身も世もなく泣きだす。
 スーザンの態度を不思議に思いながらも、別荘近くのモーテルに泊まったクラインのもとにシンディが姿を現し、コンピュータ・サイエンスの専門知識を生かして、知り得たことをクラインに伝える。すなわち、マーティンの犯行自白遺書の文書ファイルは、フィッシャー殴打が行われる何日も前に、サー・スピーディー(全米規模の印刷・コピー・フランチャイズ店)の店にあるコンピュータで書かれていたものだった。何者かがマーティンをはめようとしたのだ。これまでの情報を考えあわせると、マイクル・ブーンが怪しい、とふたりは考えた。ちょうどそのとき、モーテルのTVで、実家が映っているのをクラインは目にした。レポーターがクラインの母親に問いかけている──「あなたはご自身の夫がダッハウの強制収容所で働いていたナチ党員であり、戦後、ユダヤ人の生存者と偽って生きていたのを知っていたのですか?」
 あわてて実家に戻ろうとクラインがモーテルを出たところ、駐車場に旧友であり、ブーンの勤める法律事務所のシニア・パートナーであるアルバート・ローゼンタールの車が停まっていて、車内でアルバートが頭部を撃ち抜かれて死んでいるのを発見する。アルバートは、イスラエルのナチ狩り機関に協力して、クラインの母親へのインタビューを何度も仲介していた人物だった。
 母親をナチ狩り機関に売ったことに憤慨してアルバートを銃殺した、という容疑をかけられ、クラインは逮捕される。
 クラインは自分の弁護をマイクル・ブーンに依頼する。裁判のなかで、無実を立証するはずの明白な証拠に言及しようとしないマイクルの様子を見て、すべての真犯人はこの男である、とクラインは確信する。
 評決のまえに、最後に母に会いにいくことを条件にして、クラインは犯行を「自白」する。マーゲリータ自殺のときに、彼女が連れていた子供は、ふたりおり、ひとりの子の名はスーザンだった、という話をシンディ経由で知ったのだ、と。クラインは評決の場に出廷せず(当然、有罪判決)、サンフランシスコ社交界通の老コラムニストを訪ね、マーガリート自殺の真相を訊きだす。プエルトリコ人の夫が、父親のジェイと自宅アパートのベッドのなかに入っているのを見つけたその日に、マーガリートは自殺したのだった(黒人や有色人種、ホモを嫌悪する一方で、黒人女性を愛人にし、プエルトリカンの男性と同性愛にふける、しかも、娘の夫と情を通じるという倒錯した人物)。マーガリートと久しく疎遠だった母親のキティは、スーザンが生まれていたことを知らず、マーティンだけを連れ帰ったのだった。スーザンはジェイが引き取り、養女に出した。すなわち、エルダーズ家に。財産分与のこともあり、そのことは、顧問弁護士事務所にだけ、ジェイは話していた。
 つまり、マイクル・ブーンは、貧乏な友人マーティンに突如訪れた幸運(作家としての成功、莫大な財産分与)に嫉妬し、ジェイ・コルスウッドの秘密を知ったうえで、マーティンと妹のスーザンから、すべてを奪い取ろうと計画したのだった。
 クラインはコイット・タワーにマイクルを呼びだし、対峙する。マイクルは言う──数ヶ月前、スーザンとはメキシコで結婚しており、クラインの朗読でマーティンが実の兄であったことを知り、事情を薄々察しはじめた彼女をさきほど銃で撃ってきた、おまえ(クライン)に罪を着せて、ここで殺し、いずれヴァージニアを殺せばすべての金が手に入るのだ、と。マイクルに殺されそうになる寸前、金髪女性(じつは、かつらをかぶったケヴィン──マイクルとは同性愛関係にあり、犯行に協力していた)が飛び出してきて、マイクルを刺す。ひるまずにケヴィンを塔から突き落とし、クラインも殺そうとしたマイクルだが、駆けつけたシンディに撃たれて死ぬ。
 スーザンは危うく死を逃れ、彼女たちの証言からクラインの嫌疑は晴れ、無罪放免となる。六ヵ月後、クラインは念願かなってヴァージニアと結婚することができた。大団円。
 
【評価】
 比較的短い枚数にこれでもかと複雑な人間関係とドラマを盛り込み、力業で強引に読ませる作品。落ち着いて考えれば、無理筋のプロットなのだが(いくらなんでもバレますって、と思う場面がいくつもある)、そこが気にならずに先を読ませるところはやはりハリントンの筆力なんでしょう。
 ノワールを期待して読むと肩すかしかもしれないが、本作ではじめてハリントンの正体(スケールの大きさ)が明らかになったと言える。
 ヒッチコックの『めまい』へのオマージュであることは明白だが、物語そのものは完全に独立しているものなので、映画を見ている必要はない。
 去年(2001年)の二作の邦訳でハリントンという作家が評論家筋に認識されたので、いまのうちに本作を訳出するのが良いと思う。〈このミス〉のベスト10には充分入る作品。

(本レジメの正確な作成時期は不明なるも、2002年の前半だったはず)
               
 


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