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終末遊泳

「私たちはお互いに通じない言葉で会話している」
 彼女が歌うようにそう言ったとき、私は世界にたった一頭だけのクジラを思い出した。

 並んで夜の街を歩いていた。
 つい三時間前まで、彼女と私は赤の他人同士だった。ふと思い立って、ときどき行くバーに入ったら、お客さんは一人しかいなかった。照明のそばに座っているからか、彼女の金色の髪はやけに黄みがかって見えた。椅子に座ってチャイナブルーを頼む。ちらりと横目で見ると彼女の前にも青色のカクテル、名前は知らないけどたぶん私が頼んだものより度数が強いやつが置かれていた。マスターは洗練された手つきでグラスを差し出し、落ち着いたテノールで「今日は青の日ですね」と笑った。それまで、お互いに何度か顔を見たことがある程度の関係だった彼女と私は、軽く会釈し合った。
 さっきまでそんな初々しい間柄だったのに、今こうやってぬるい霧雨のなかを歩いていると、彼女はまるで何年も付き合いのある友人みたいだった。凪ぎのように穏やかな酔いの心地よさも手伝って、お互いに普段しない話をしているからかもしれない。

「三段跳びで、どこまで行ける?」
「水たまりの向こう、アルプス、木星。行きたいところまで行ける」

 終末の街は真夜中でも明るくて、人も多いのに、妙に静かだ。きっとみんな、世界が少しずつ終わっていくことを噛み締めているんだと思う。
 駅前の広場に、彼女と私のヒールの音が響く。彼女がふいに立ち止まり、コツコツ、と小さく踵を鳴らす。
「ノックしている」
「何を」
「夜のドア」
 コツコツ。
「入ってますか?」
「いいえ」
「いいえ?」
 コツコツコツ。
「なんの音?」
「おばけの音」
「でも、おばけの音って何だろうね」
 広場の隣のバスターミナルは、とっくに終バスもないはずなのに煌々と明かりが照っていて、その真ん中にはとっくにないはずの終バスが堂々と止まっている。バスの行き先はお約束どおり「終末」になっている。終末行きのバス、と彼女がつぶやく。これが本当の終バス。
 終バスのなかでは、さっきまでの彼女と私みたいに静かにお酒を飲んでいる三人組や、本を読んでいる女のひと、座席にもたれて手を組んで眠っているおじいさんがいて、運転席ではピンクのアフロのかつらをかぶった運転手さんが、少年の目をして曇り空を見上げている。空からは、しとしと、やさしい雨が降り続いている。彼女と私は立ち止まってその光景を眺めた。

 私たちは、と彼女がふいに口ずさむ。お互いに通じない言葉で会話している。

 その言葉は呪文のように私のなかで渦を巻き、記憶の引き出しのすみっこから巨大な黒い生き物を目覚めさせる。勢いよく吹いた水で引き出しが決壊する。海水が大きなうねりになって外にあふれ出し、たちまち夜の街は水没、バスターミナルは入り江になって、みんな水中に投げ出されてしまう。彼女の黒いシックなコートが、私のオレンジのコートといっしょに流され、二人とも水着姿になる。そびえ立つビルと駅とお店が、窓から光の粒をはきだすと、それは波にのって、ゆらゆら、ゆらゆらと漂う。今日は満月だろうか? 水面の向こうに月は見えない。
 すっかり深くなった入り江の真ん中で、終バスがゆっくりと車体を持ち上げる。カチカチとコツコツの中間みたいな鳴き声が聞こえる。
「まるで孤独なクジラのように」と彼女が歌う。海がひときわ大きく波打つ。

 孤独なクジラは何を思い歌をうたう
 コツコツ 入ってますか 聞こえますか
 私たちはいつだって誰もいないドアの向こう
 おばけの音を立てつづけている

 水面から顔を出す。そこは海じゃないしクジラもいない、静寂に包まれた駅前のバスターミナルだ。細い雨が降りしきって、夜の空気を水分で満たしていく。
 隣に目をやると、彼女は少しかすんでいるようだった。何者も受け入れないような、隙のない笑みをかすかに浮かべ、まっすぐにこちらを見ている。私は息を止めた。
 今すぐに彼女とくっつきたい、と思う。触れたところからどろどろ溶けて、ひとつになってしまいたい。私もあなたと同じことを考えていたって伝えたい。けれど彼女と私は同じことを考えられないし、どこまでくっついて混ざりあってもひとつになることはできない。そのどうしようもない事実に、胸の奥が締めつけられる。
 せめてもの抵抗として、私は彼女の手をとる。しっとりしているのは、汗なのか、雨なのか、それとも海の水だろうか。
 そのまま歩き始める。ヒールが夜をノックする。どこからか、気が遠くなるくらい長いクラクションが鳴り渡り、私たちは勢いづいて走り出す。
 どこまで?
 三段跳びで、海まで。
 いちにのさんで、どこまでも行ける。
 魚になって、クジラに会いに行く。

 いち、

 にの、





イメージ:灰谷魚さん『あのクラクションで世界は』

* あとがきのようなもの
 灰谷魚さんの作品で好きなものをと考えたとき、まっさきに思いついたのが『あのクラクションで世界は』でした。彼女が歌うように発するその言葉の鋭さ、漂う不安、募る焦燥感。それからあの、雨の夜の街を泳ぐシーン、と思って再読したのですが、なんということでしょう、そんなシーンはありませんでした。どうやら私は特定のモチーフ(ありていにいえば、水着)から海を連想し、シーンをでっちあげて楽しんでいたらしいのです。なんて勝手な読者だ!
 そこで、「ないのなら、作ってしまえ、ホトトギス」の精神でがっと書いたものがこちらです。彼女は原作みたいにかっこよくないし、展開も明るいし、共通点はコートの下の水着くらいしかありません。結局、水着なのか。
 ともあれ、今回珍しくお祭り参加&二次創作をさせていただいて、新たな発見もあり、とても楽しく書くことができました。企画者の方、そしていつも面白い作品を読ませて下さる灰谷さんに感謝。

#灰谷魚トリビュート #私の好きな灰谷魚 #孤独なクジラ #二次創作 #小説 #終末の過ごし方

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