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七夕

 教室に冷房がついてないとか、校内環境が劣悪すぎると思う。窓から吹きこむ風でなんとか命を繋いで、待ちに待った終業のチャイムが鳴ると、みんな我先に教室を出ていく。
「今から部活とか、死ぬ」
「死ぬな。生きろ」
「帰宅部はいいな」
「私だって今から死物狂いで帰宅するんだよ」
 カナコは友だちと喋りながら階段を下りる。一階の廊下と下駄箱のあたりは涼しい。
 なんとなく戦地に赴くひとを見送るような気分で、グラウンドに向かう友だちに手を振る。
 外に出るとまだ日射しが強かった。校門を抜ける。夏って季節がそのまま気化したみたいな、お湯みたいな空気のなかを、汗だくになりながら泳ぐ。

*

 中学校の通学路の途中には大きめの川があって、カナコは毎日、朝と夕方に橋を渡る。
 川の両脇は草の生い茂る土手で、公園じゃないけど散歩道がある。からだにぴったり貼りついたTシャツ短パン姿のおじさんが走ってたり、おじいちゃんおばあちゃんが歩いてたりする。モンスターをゲットするアプリがリリースされてからは、ときどきスマホ片手に徘徊する集団が出没し、カナコは遠目で眺めながら、今でもやってるひといるんだなあ、と思ったりした。けれどこの時季は、上昇する気温に反比例して人が少なくなる。
 橋を渡りきると横道にそれ、靴を鳴らして土手の階段を下る。赤い錆が浮いた、やけどしそうなくらい熱い手すり。草いきれ。飛び回るトンボやちょうちょは暑くないんだろうか。水の流れる音。
 降りそそぐ槍みたいな太陽光を逃れ、橋の下の日陰に避難する。ひんやりと涼しく、吹く風も湿り気を帯びていて心地よい。
 スミスはいつもそこにいる。
 三角座りをしてふとももの上に分厚い本を載せ、抱きかかえるみたいにしてページをめくる。学生服を着ているけれど、学校で姿を見たことはない。夏服の半袖から伸びる白くて細い腕。文字を追ってわずかに上下する頭。ヘルメットみたいに丸い髪型は、熱を溜めこみそうで、見ているだけで暑苦しかった。
「はい、プリント」
 差し出した紙束を黙ったまま受けとる。視線はずっと本に向けられている。肩越しに覗きこむと、文字ばかりだ。きっとまた図書館で借りたのだろう。
「それ、何が書いてあるの?」
 返事はない。
「エッチな話?」
 土手にはたまに、雨に濡れてぶよぶよに膨らんだ大人の雑誌とかが落ちていて、男子たちが騒いでいるのを見たことがあった。
 彼は相変わらず顔も上げず、違う、と言う。
 つまんないの。
 カナコはスミスから少し離れたところにどかっと座って、そのまま後ろに寝転がった。

*

 橋の上を軽トラックが通りすぎる音がする。橋って下から見ると体育館の天井みたいだよね。返事はない。代わりに、ぺらりとページがめくられる。
「前にさ、お母さんに、あんたは橋の下で拾ってきたのよって言われたことあるけど、あれ、何なんだろうね。従姉妹も、おばさんに同じこと言われたって言ってたし。スミスは言われたことある?」
 首を横に振る。
「そういえば明後日に七夕祭りやるよ、スミスは行く?」
「行かない」
 つまんないの。たまには図書館以外も行けばいいのに。
 カナコは急に、スミスに対する憤りを覚えた。それは今まで努めて意識しないようにしていた感情だった。
 っていうか、なんでこんな暑いなか私がプリントを届けなきゃいけないんだ。スミスが学校に来ればいい。
「スミスってさ」カナコは上半身を起こして彼の方を向いた。「なんで学校来ないの?」
 スミスが顔を上げる。伸びすぎた前髪のせいで目は見えないが、どうやら驚いたようだった。
 カナコ自身も、自分の口にした言葉に驚いていた。あれ、なんで私こんなつっこんだこと聞いてるんだろと思った。今のクラスになってプリントを渡すよう担任に言われたときも、スミスが日中家にいなくて橋の下にいることを知ったときも、実際に直接会ってプリントを渡すようになってからも、あえて聞かないようにしていたのに。なんとなく聞きづらいし、当の本人にしてみればどんな理由でも言いにくいだろうし。それは配慮とかそんな大したものじゃなくて、単純に他人の領域に深く踏みこんで関わるのが面倒なだけだった。さっきだってそう、家族のことをしゃべったりして。今日の私はおかしい。暑さのせいだ、夏がいけないんだと頭のなかで言い訳するけれど、誰に対してなのかよくわからない。
 スミスが頭をゆっくり傾ける。真っ黒でつやつやの髪が斜めに流れた。私よりもつやつやさらさらなんじゃないか、うらやましい、というかずるい、カナコがそんなことを思っていると、蚊が鳴くような声が聞こえた。
「幼稚園のときに」
「幼稚園?」
 こくりと頷く。幼稚園のときから登校、じゃなくて登園拒否していたのか。それは、筋金入りだ。
「園内にシーソーがあって」
「うん」
「うまくできなかったんだよ」
「シーソーが?」
「うん。だから、ひとりでずっと座ってた」
「ちょっと待って」私は思わず笑ってしまう。「シーソーってひとりでやるものじゃないよね?」
 するとスミスはまた視線を落として、本を読み始めた。遅れて、そうだね、と小さな声が届く。
 ぺらり。
 あれ、私、地雷踏んだんじゃないか。
「怒った?」
 しばらく沈黙したあと、カナコは尋ねた。口のなかがカラカラで、苦かった。
 スミスは首を横に振る。それはぶっきらぼうな彼の、いつも通りの仕草だったかもしれない。けれど、今のカナコにとっては強い否定のように思えた。彼の仏頂面もいつもと何ら変わりなかったが、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気分にさせられた。
 カナコは、橋の下のじめじめとした土に深い亀裂が入るのを見た。亀裂はどんどん広がって、がらがらと音を立てて崩れていく。
 何なんだお前は、とカナコは口走っていた。何様のつもりなんだ。それはもちろん、スミスに向けた言葉ではない。

*

「コトウラさん」
 呼ばれて、カナコは我にかえった。目の前は水色一色で、右上に「水分補給」と白くて丸い字体で書かれている。スポーツ飲料のペットボトル。カナコがなかば無意識でつかむと、その向こうから心配そうに覗きこむスミスと目が合った。
 からだを起こす。いつの間にか横になっていたらしい。それとも最初から横になったままだったんだろうか。
 スミスは何も言わない。
 ペットボトルは未開封だった。フタをひねって、中身を流しこむ。一気に半分くらい飲んで、ぷはっとやってから、ありがと、と言った。手の甲で口を拭う。
 カナコはぼんやりする頭でさっきまでのやり取りを思い出そうとした。けれど、うまくいかなかった。授業中に教室で居眠りして、ガタッとやったときみたいな、確かめたくない気まずさがあった。暑さのせいだ、夏がいけないんだと誰かが言って、カナコは夢だったと思うことにした。もやもやを流しこむみたいに、もう一度ペットボトルに口をつける。気分が落ち着いていく。水分不足だったのは間違いなさそうだ。
 そのあともスミスはふだん通り、ぺらり、ぺらりとページをめくっていた。だんだん日が傾いてきて、橋の下に射しこんでまぶしい。
 カナコは立ち上がってお尻を払った。
 別れ際、少し迷ったあとで「たまには橋渡んなよ」と言った。やっぱり返事はなくて、また余計なことを言ったかなと思いながら歩き始めると、土手の階段の手前くらいで、考えとくよ、と声が聞こえた。

*

 その晩、カナコは夢を見た。
 夢のなかで、ヘルメットみたいな髪型の彦星は、天の川にかけられた巨大なシーソーを渡ろうとしていた。一歩ずつ、おそるおそる。織姫に会いに行くために。
 目が覚めてから、カナコはばかみたいに笑った。笑いすぎて、ちょっとだけ泣いた。

***
3月くらいにこちらのお題から。

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