ブルーノ・フェイドゥッティ『​バランスの疑問』

“ゲームの魂を貶めるのに  
「一番強いやつの勝ちだ!」
という文句を上回るものはない”

『テーマとメカニクス』と題された連載もこれで最後——『バランスの疑問』の全訳をお届けします。“The Games Jounral”の元記事はこちらです。

フェイドゥッティ氏によるバランス論——効率的なバランス調整の方法を期待している方はご注意ください。

以下、本文です。

バランスの疑問

バランスとは何だろうか。それは新米ゲームデザイナーにとって頭痛を招きがちな問いかけの一つだ。彼らはいつだって“バランスの取れた”ゲームを作りたくて堪らずにいる。けれどバランスが真に意味するものについてしっかりした知見がない。そこで百戦錬磨のデザイナーからどうすればゲームがその誉れ高き地平に達するのかを聞き出そうとする。私はといえばとうの昔にその実際の問題を理解することをやめてバランスの聖人に敬意を払うことなく過ごしているので、そんなときはよく『コズミック・エンカウンター』のバランスが悪いと言うプレイヤーに対するピーター・オルカの回答を皮肉げに引用している。 
 「バランスなんてうんざりだ。人生は不公平なものさ!

私は年を重ねた。ひどいプレイばかりしていたゲームは、誰に何を言われたところで再プレイするところが想像できない。そして私はついにゲームのバランスとは何かを理解できたと思う——たとえバランスという用語が実のところまずい選択だったとしても。

物理学の世界では、バランス(訳注:用語としては「平衡」が定訳)とは複数の力が互いを打ち消し合って安定している状況を指す——そこでは何物も変化せず、移動もしない。これは現実にはゲームの状態に類似しない。それは本質的に動的なシステムであり、絡み合った力がゲームのスタートラインから終わりまで停止することのない運動を作り出すものだ。プレイヤーがバランスというときは、バランスよりもっぱら正当さ(訳注:英訳では“justice”でフランス語でも綴りは同じ)——英語であれば公平さ(訳注:同“fairness”)と言いたい。フランス語には相当する語がない——を含意している。ゲームバランスとはそれにしたがえばプレイヤー間のバランスであり、そのうちの誰も行き過ぎた優位性から利益を得てはならないのである。それが意味するのは、ゲームの初期設定において一人か二人のプレイヤーが過剰に支援されてはならず、またプレイの過程を通じて一人のプレイヤーが確率上や特定の戦術上の有利な位置を簡単に取れることもあってはならない、ということだ。先手有利も後手有利もない。「私の勝ちだ」カードもない。自力脱出の不可能なハマりどころもない。唯一の必勝法もない。

ほぼ全てゲームにおいて、このバランスの境地に到る道はテストと調整以外にない。それはゲームが複雑で戦略的である場合、長く入り組んだ過程になる。多数の『ティカル』型ゲームにおける多様なアクションに対して個別のコストを決定する際にそれが必要になるのは論を俟たない(訳注:『ティカル』はチェスのような読みと計算が鍵になる思考ゲーム。プレイヤーは毎回アクションポイントの合計が一定値以内に収まるように複数の行動を組み合わせて手番を構築する。ちなみにこのようなメカニクスは Action Point Allowance と呼ばれる)。また多数の『プエルトリコ』型ゲームにおける役割に割り振るアクション、さらには建物のコストと効果の選定に対してもだ(訳注:『プエルトリコ』は植民地政策をテーマとする経営ゲーム。建物に入植者を割り当てることで種々の商品を生産し、輸出することで得点に換える。またフェイズ進行と役割とが密接に結びついているのが特徴で、プレイヤーの誰かが役割を選択しない限り対応するフェイズのアクションが実行されない。重量級リソースマネジメントゲームの代表格である)。まして『マジック・ザ・ギャザリング』におけるカードのマナコスト割り当てに必要な作業量など考えたくもない(訳注:『マジック・ザ・ギャザリング』は言わずと知れた対戦型トレーディングカードゲームの元祖。マナコストはスペルカードの使用と引き替えに支払うリソースで、その産出と消費のサイクルが戦力の土台になる)。仮に『サンクトペテルブルク』に私がさして魅力を感じないとすれば、それはおそらくバランス取りの作業が完了していないように思えるからだろう。むしろそれはゲームシステムが厳密な計算を奨励してくるというおそるべきものだ(訳注:『サンクトペテルブルク』は計画的な資産運用が重要な建築ゲーム。資金を集めて職人を雇い、そこから得られる収入でさらに資金を蓄えて建物を建てて得点を生む。カードには複数の種類があり、しかもその価格がプレイヤーの行動によって上下するため、他人の動向を考慮しつつ複数の筋道を考える必要がある)。

それにまつわる退屈さと要求されるテストプレイ回数の多さゆえに、バランス調整はゲームをデザインする活動のうち最も気乗りしないものの一つである。そのため私は自動バランス調整機構を用いて、技術の巧拙によらず問題を回避する手段をできるかぎり採るようにしている。

ゲーマーズゲームにおいては、目に見える優劣性が弱きに甘く強きに厳しい同盟関係を引き起こすので、自然と平準化がはたらく。ゆえに『ディプロマシー』は初期配置がどうみても“バランスしていない”にも関わらず、完全にバランスの取れたゲームなのだ(私に言わせればそれでよいゲームになるものでもないのだがそれは別にして)(訳注:『ディプロマシー』は第一次大戦時代の欧州の覇権を争う戦略級ゲーム。プレイヤーはそれぞれ列強の一国を担当し、現実の地理に基づいて軍隊を配置する。ちなみに特定の国だけ軍隊が一つ多い)。『マンモスの谷』では自然に嫌われたプレイヤーは順調に自分の部族を発展させているプレイヤーよりも攻撃対象になりにくいだろう(訳注:先史時代の集落を舞台にした生産ゲーム。プレイヤーは食料採集、獣との戦い、他部族との抗争を通じて自分の部族を生存・発展させる。フェイドゥッティ氏の作)。

『コズミック・エンカウンター』——思いつくかぎり最高のゲームであり、じっさい最も贅沢で最も変化に富んでいる——では、同盟の可能性を探る際におびただしい数の要素が関わってくる——それによりある一人のプレイヤーがあらゆる側面から見て好ましいことがほとんどありえないようになっている。こうした、プレイ中に全ての要素を考慮に入れることが不可能なほどの複雑さによって出来るのは、ゲーム内のあちこちのシステムで少しずつ生じるバランスの偏りが集まることで成立する、ある種高次元のバランスである。部分で見れば微量の無秩序さがあるが、ゲーム全体として無秩序ということはない(訳注:『コズミック・エンカウンター』は宇宙人同士の侵略戦争をテーマにした戦術ゲーム。各プレイヤーは個性的な五十の種族のうちの一つをプレイする。種族固有の能力によってルールの土台が覆されるため、毎回ほぼ別のゲームに変化する)。

競りもまたバランスの問題を片付ける極めて優れた手段である。入札ゲームにおいて商品の価格設定はシステムでなくプレイヤーに委ねられる。ゲームを無味乾燥でマンネリなものにしたくなければ、売り出す対象のカード、ポーン、アクションに質量両面で異なる関心を持たせる必要があるのは明らかだ。『黄金狂の町』(訳注:フェイドゥッティ氏が共同制作した競りゲーム。詳しくは過去の記事を参照)ではカードごとのパワーバランスの差異を故意に強調するようにした。

最後に私が『あやつり人形』で用いた大変誇らしく単純な技法についてお伝えしよう。【泥棒】と【暗殺者】を入れたことで、私は役職間のバランスを取る作業から解放された。もしあるプレイヤーの仲間内において——正しいか間違っているかはともかくとして——他よりも強いと見なされる役職があったなら、それだけよく盗まれるか殺されるかしてバランスを押し戻されるだろう。建物についても同じことが起こる——もし本当に一つの建物が他の全ての建物より強力であれば(私にはそんな状況があるとは思えないが)、その分【傭兵】の標的になるだけであろう(訳注:『あやつり人形』は影の権力者たちによる都市開発をテーマにしたカードゲーム。プレイヤーは毎ラウンド異なる役職を使役して色々な建物を建て、その合計得点を競う。【泥棒】は指定した役職からコインを奪う役職、【暗殺者】は指定した役職の手番を封じる役職、【傭兵】は指定した建物を破壊する役職である)。

バランスはそれ自体が目的ではないことに注意したい。そうなるのは、ある種のスポーツ大会のように、ゲームが単に最高のプレイヤーを決定するための競争になってしまうときだ。ゲームの魂を貶めるのに「一番強いやつの勝ちだ!」という文句を上回るものはない。ゲームには確かに競争があり、プレイヤーは勝利を求めて対戦相手に敵対したり相手の行動に反抗したりするが、だからといって競争がゲームの本質の全てではない。それはただ、作家がプレイヤーをゲームの小世界に引き込んだりそこに留める緊張感を生み出したりするような刺激を生み出すのに自由に使える手段の一つに過ぎない。バランスとはまた、プレイに合わせて展開する物語に緩急を付けるものでもある。プレイヤーたちが一番賢いものや一番上手なもの、一番狡猾なものの選出に完全に目を奪われているのでないかぎり、一定のバランスの悪さや一定の不公正には目をつぶってもらえる。

事が真相に行き着いてみると、私はいま提示したばかりの二つの概念のためにあと二つ記事を書かねばならなくなりそうだ。その二つとは、緊張感と“ストーリー・アーク”(訳注:シナリオ用語で、合わせて一つの話を構成するような継続性のあるストーリー・ラインのこと)である。両者は、バランスなどよりずっと、ゲームデザインの心臓部に近く位置するように私には思える。

ゲームはプレイヤーを“ゲーム内に留める”一定の緊張感を真実生成するべきである。その集中と知的関心の状態においては、ポーカーやロールプレイングゲームでときに見られるように、極端な場合にはプレイヤーが疲労を忘れたり、アルコールの影響から解き放たれたりもする。

ゲームもまた完全な物語を創造するべきだ——台本と役者、舞台、プロットの発展、結末が揃っているような物語を。これはアブストラクトゲームでさえ真である。なぜならチェスというゲームさえもが“語る”力を持っているからだ。もし私が先の二つの見地をきちんと展開していなかったとすれば、それはジョナサン・デガンによる二つのすばらしい記事によってもはや私の出る幕がなくなってしまったせいである[ゲーム論入門−第一部 、ゲーム論入門−第二部]。

——ブルーノ・フェイドゥッティ
(フランス語からの翻訳はフランク・ブランハム)

(初出『Des Jeux Sur un Plateau 』マガジン)

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