ブルーノ・フェイドゥッティ『テーマとメカニクス』

“ゲーム制作におけるテーマとメカニクスの関係性は  
相補的というよりむしろ弁証法的である”

今回もブルーノ・フェイドゥッティ氏によるゲームデザインの方法論『テーマとメカニクス』の訳をお届けします。

前回の記事は実は「The Games Jounral」誌に連載された全四回のうちの一つで、今回の記事がその第一回に当たります(なので、早くアップしなければと思っていたのでした)。元記事はこちらです。

テーマかメカニクスかというおなじみの論題からはじまり、ドイツゲームとアメリカゲームの両流を概説、最後に両者の融合について説くこの記事には、フェイドゥッティ氏のゲーム観が凝縮されています。彼のファンのみならずゲーム制作の視野を広げたい人にもうってつけの内容です。

以下、本文です。

テーマとメカニクス

何人もの読者が執筆を夢想するのと同じく、何人ものゲーマーがゲーム制作と出版の夢を見、追い求める。だが夢を手にする見込みはゲーマーの方がずっと上だ。というのは、ゲームデザインは小説の執筆に比べて確実に短い時間と個人的な出費で実現できるためだ。似ている点もある。すべての場合に適用できる形式的手法などどこにもないということだ。助言を求めた大御所デザイナーの口が公式を告げる見込みはない。ただ幾つかの事例と過去の経験から思い出せることを教えてくれるだけだろう。

雑誌記者や新米デザイナーからもっともよく訊かれる質問は、ゲームの大元になるひらめきに——ゲームという小宇宙を創成する一塵の火花にまつわるものだ。どちらが先か。文芸的側面(テーマ)、技術的な要所(メカニクス)、そのどちらがゲームの成形を担う機関を始動させるのだろうか。

典型的な回答は、少々単純化していえば、デザインには二つの流派があるというものだ。アメリカ流派とドイツ流派である。

アメリカ流派はテーマの崇拝者だ。それゆえこの流派はウォーゲームやロールプレイングゲームといった多様なシミュレーションゲームを産み出してきた。そのルール作成には歴史的ないし文学的状況を(場合によってはマニア向けのディテールまで)再現するというはっきりとした目的がある。何もシミュレーションばかりではない。他にも『マジック』を発端とするコレクション用カード——『マジック』は独自の宇宙を創り出した——や、テーマの提示がギャグ任せでシミュレーションの参与がないユーモア・カードゲームをいくつも産み出している。アメリカの作家にとってテーマとはただ出発点というだけでなく、プレイの中心部と堅く噛み合わさったものであって、彼らの作品にしばしば登場する大仰なキャラクター像は明らかにそれに基づいている。この流派の作品からは時々すべてが題材に忠実であるようなルールの積層構造物を見て取れるのだが、それが常に上等の編み目細工ということはないようだ。

ドイツ流派は——とりわけ最も知られた作家であるライナー・クニツィア、ウォルフガング・クラマー、クラウス・トイバー(3K)は——ゲームをメカニクスのまわりに組み立てるようにして作る。テーマはほとんど装飾の一要素で、最後の最後で付け加えられ、時には出版社によって作者の参与なしに変更されることもある。ゲームの設定が中世のイングランドからインドに引っ越した『タージ=マハル』。それに日本の武士がオーストラリアのアボリジニに変身した『ワンガー』。ここ二十年、ドイツ流派は小さくて非常に軽いカードゲームと奥深い戦略性を持ったボードゲームの両方を出してきた。その成功の拠り所はルールの簡潔性とメカニズムの内的凝集性である。ドイツのデザイナーにとってテーマなどは二次的で、ゲームの主導権はメカニクスが握っている。多数の作品のキャラクターがどこか人間味に欠けている——ややすれば抽象的である——のは明らかにこれに基づくものだ。

もちろん現実はこんな単純な話で済んだりはしない。全面アブストラクトなゲーム(そのほとんどは純粋に戦略的か、純粋に運次第)はいくらでもあるが、現代のゲームの主流はその両面を併せ持つことだ。贅沢を極めたゲームはドイツ発であれ合衆国発であれ、テーマとメカニクスの間にシナジーを生もうと躍起になっている。宇宙はルールに、ルールは宇宙に密着している。区分に流派を持ち出すのは主な傾向を理解する分には事足りるが、ゲームとデザイナーを総合的に分類するほどの実用性がない。現実のゲームと制作者はたいてい二つの勢力の狭間のグレーゾーンにいる。さらによいことに、ここ数年でドイツのデザイナーはテーマと宇宙に対する関心をますます深め、アメリカのデザイナーもまた端正なドイツ流メカニクスに刺激を受けている。

私自身ドイツのデザイナーに影響されていると思う。彼らのエレガントで効果的なシステムは賞賛に値する。同様にアメリカのクリエーターにも。その想像力とユーモアに嫉妬を覚えている。

手順通りに使えばゲームが出来てしまうような“作業方法”など私は知らない。ある時は独創性に満ちた(あるいは劣った、ちょうど私が好きで、再利用したくなるような)メカニズムから、ある時は私の想像力をかき立てる題材から出発する。本当に大事なのはスタート地点などではなく、ゲームの開発中に二つの要素が相互作用する道筋なのだ。私の経験からすれば、ゲーム制作におけるテーマとメカニクスの関係性は相補的というよりむしろ弁証法的である。ある題材を巧妙なメカニクスの皿にうわべだけ載せようだとか、娯楽と刺激に満ちた題材に対して一連のメカニクスを闇雲に適用しようだとか、そういう問題ではなくて、ゲームをその内に住まわせる宇宙とその存在を裏打ちするシステムとの共生関係を捜し出すということだ。アブストラクトなものも含めて、決着時のゲームはなんであれ物語の生成装置である。相互に関連した出来事が時系列上に並んだら、それは物語なのだ。

事例『黄金狂の町』

『黄金狂の町』(訳注:原題は“Boomtown”。西部開拓時代の鉱山町を舞台にした競りゲーム。なお日本語を含む多言語版に訳がないようなので、本邦題は訳者による)は、複数作者による共作がどうやってテーマとメカニクスの一致を成立させたかを伝える良い例だ。このゲームの起源は明らかにメカニクスであった——ブルーノ・カタラは小さくて巧妙なシステムをいくつも秘密裏に温めていて、これもその中のひとつだった。ある夕刻の電話で、彼はある斬新な入札システムについて聞かせてくれた。カード、ダイスロール、詳細不明のポーンが一つにつきプレイヤー一人分だけ売りに出されている中で、入札は単純に最初に選択するプレイヤーを決める。最高値で入札した人物の合計支払額をみなで分け合う。このとき最後に入札したものに一番多く行き渡るようにする。それだけだ。彼はこのシステムをもっと大規模なゲームの中で使うつもりでいた。深宇宙版『プエルトリコ』計画。我々はその夢をすでに一二年追い続けていた。

私は考えた。ゲームを損得計算の泥沼に沈めたくなければ、カードの精確な価値判断をできなくすることが必要なのではないか。そこからダイスを産出に利用するという案にはすぐに行き着いた。このアイデアは、私のお気に入りのゲームの一つである『カタンの開拓者たち』から拝借したものだ。するとごく自然にテーマが現れた。含有物不明の、爆発しやすい鉱石である。一番初めのテストプレイのバージョンには産出ダイスと爆裂ダイスの両方があったが、我々はすぐにこれを間引いて単純にした(訳注:製品版では産出の成否判定のダイスに特定の目が出ると「危険」表記の鉱石カードが崩壊してゲームから除かれるというルールになっている)。それ以外すべてのメカニクスは、とりわけ町長と酒場のアイデアはテーマ発で持ち込んだものなので、仮に宇宙ものや宮廷陰謀劇に関する設定のゲームにしていれば間違いなくまったく別の代物になっていただろう。

以上のように『黄金狂の町』はメカニクスから生まれたわけだが、といってテーマは最後の瞬間に加えられたわけではなく、むしろテストプレイの初期から存在していたし、特有のカードと、プレイに雰囲気を出す細則を生み出しもした。もしゲームというものが物語を生成する装置であるとするならば、あらゆるプレイの時間は、プレイヤーがそれを使うことでターンごとに書き足されてゆく物語である。そのゲームを満喫したければどのプレイヤーも物語に没頭するに違いない——料理を満喫するのに舌と鼻の両方を働かせるのと同じように。

ゲームを持続させるのにメカニクスだけで足りることもある。戦略のゲームならそれに要する思考の効力、ブラフや運のゲームならそれが起こすドラマの効力である。だがテーマがあれば話に人間の次元が付与されてプレイヤーが没頭しやすくなる。ゆえに成功したゲームはどれもプレイヤーが“信じる”か、でなくば少なくとも“信じたことにする”のに足る魅力的な題材を扱うものばかりなのだ。それがゆえに、ロールプレイングゲームという、ルールが控えめで忘れてよいように設計される種目がゲームの究極の形態なのである——小説が文芸の究極の形態であるように。私はかなり長い間ロールプレイングゲームをほとんどプレイせずいるので、なおのこと簡単にそう言ってしまう。

——ブルーノ・フェイドゥッティ
(フランス語からの翻訳はフランク・ブランハム)

(初出『Des Jeux Sur un Plateau 』マガジン)

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