せみの一生

わたしのはじめての夏休みの自由研究は
庭先のせみについて、であった。
まさにタイトルも"せみの一生"で
せみに興味もなかったものの母の薦めで
画用紙にせみについてかき、せみを見るのも
こわかったので絵はかかずに木にひっかかっている
せみのぬけがらを母がよそゆきのお菓子箱につめて持たせたのを提出しただけ。
それも気持ちわるくて、いややったので息をとめて提出した。

台風が去り、わたしのベランダのすみでせみが白い腹を向けてしんでいる。どうりで台風の日にかりかりいうてたと思たで。
しかし
こわい
いつまでしんでいるつもりやのか、途方にくれており手に追えない。
下がコンクリートなもんで、いつ土へ還ってくれるのか。

わたしの時間の尺度はどうやら"一生"ということが多いらしく、その時間を途方のないものとして思えていない。
過ごしてきた毎日が一生な訳であって、わたしには未来の軸は想像にない。
もうすぐ寒くなったら、あれ みたいな。ざっくりした未来しかない気がする。
50代とか、わたしなる?みたいな のんびりさ。

こまったことにネガティブなことが一生(いままで生きてきた時間)を占めてしまっていることも多い。それは わたしが言葉でぐるぐる巻きにしていることでもあって、でもそのネガティブがないとダメな気がする。そんなダメなわたしだ。
ダメなわたしに恋してください。

あついあついと、うだる夜もすくなくなってきた気がしており、もう秋ぽい。
夏はお昼間が虫がうるさく、暑くてまぶしい。夜は人間がうるさく、夜中は静かで涼しい。
絶対に夏が好ましい。
生き物がお日さまとともに生活してそうなところと二面性。
例えせみの鳴き声の隙間に父親から"自分の子どもが男の子やったら、よかったのに"と言われたことを思い出して泣きそうになっても夏のよさには、そんなこと霞む。

わたしはよく未来彼氏☆まーくんのことを考えている。
風邪をひいても避けないとか(ものすごく健康やので風邪ごときで、わたしを避けない)
ごはんを一緒にたべてくれて、たまに分けてくれたり、心配してくれたり、作ってくれて(帰りがけにプリンとか買ってきてくれたら最高)
手をつないで歩いてくれる(へんにべちゃべちゃ触って、わたしの歩行を妨げない)
8月のテーマはラーメンと花火
まーくんはアクティブmenで夜中のラーメン屋さんも行ける。
面倒がらずに、わたしも連れ出してくれる。

ネットの情報によると
"彼氏ほしい"というと反感をかうこともあるらしい。
もう何いうたって誰かしらが怒りだすもんやので(世の常でしょう)迷惑かけてないんやったら、スルーしてくれたまえよ。て感じ。非難してる側だって、好き勝手言うてることに気づき給えね。わたしは、まーくんとの出会いを待つよ。ハートつけたろ♡まーくんとの出会いを待つよ♡
ネットの情報によると2
"運命のひとと出会う予兆"とはこまったときに、助けてくれるひとらしい。例えばわたしの家のベランダにいてる、せみをやさしく葬ってくれるとか。例えば、ふられちゃってライブハウスでめそめそ泣いとったら"いま手をあげたひと、彼女ね"というてくれるベースのひとではないだろうか。(彼はアイドルの要素さえある)

わたしの気に入ったひとは(主に声が届かない気に入ったひと例えばテレビとかのひと、ね)毎日を楽しそうに上っ面だけでもいいので(そんな日もあるでしょ)過ごしてほしい。あぁわたしの毎日の先も悪くはないやろうと確認したいのだ。毎日の先さえも数週間の想像やら漠然とした未来しかないけど。
その楽しそうな感じとは、おいしいごはんを、たべているのを知ること。こんな分かりやすいこと他にないし手軽でしょう。毎日のことなんやし、チャンスは空腹時常時である。

140字のSNSでは足りないときとか
本が読めるまで何かしらのパワーがチャージされたときは ちゃんと文字をかこうと改めて思った。
わたしの一生は、たぶん短い。

福岡の朝ごはんは、何から何まで一口目から最後の一口まで
おいしかった。