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ホムンクルスの誤謬(3)

 犀川の右岸を川沿いに歩く。犀星の道と名付けられたこの道は上流の桜橋まで桜並木が続いている。桜のツボミが膨らんでピンク色に色づいていた。
 初春の柔らかな日差しと、まだ冷たさが残る風を浴びながら五、六分ほど歩いて、室生犀星文学碑がある手前で河川敷に降りる。この時期の犀川は雪解け水で水量が多く小さな堰を落ちる水音も賑やかだ。
 理生は芝生の上に腰を下ろした。お尻の下で折り曲げられて厚みを増したお札の存在を憂鬱に感じる。
 河川敷をランニングするおじさんや、犬を散歩させるおばさん、キャッキャキャッカと走り回る幼子を見ながら、あ~タバコが吸いたいと思ったがあいにくハイライトメンソールはポケットの中だが、携帯灰皿は持っていなかったからあきらめた。
「リオ、おはよう。と言うかもうすぐお昼だけど」
 理生が振り返ると柴犬を連れた陽子がいた。小太郎と名付けられた彼女の愛犬が尻尾を振って理生にじゃれつこうとする。
「こら小太郎、噛むな!」
「小太郎はリオが好きだもんね」
 陽子が理生の隣に腰掛けた。柑橘系の香水の心地よい香りが理生の鼻腔をくすぐる。昔から変わらない香水の香り。
「僕はそうでもないけど」
「って言っててその嬉しそうな顔は何?」
 陽子は六歳年上の下宿の先輩。兼六園の側で松下メンタルクリニックという心療内科を開いている。陽子の自宅マンションは犀川沿いにあったので日曜には時々散歩中に出くわすことがあった。
「陽子さんは相変わらず細いなあ。ちゃんと食べてます?」
「食べてるよ。糖質制限はしてるけどね」
 陽子はコンクリートの川岸に腰掛ける。その隣に腰掛けると小太郎が二人の間に割り込む。
「クリニックは忙しい?」
「まあそうね。心を病んでいる人が多いからね。リオみたいに」
「そうか」
 小太郎は理生の指を甘噛みしている。
「陽子さん、ちゃんと餌やってる?」
「失礼ね。リオより美味しいの食べてるわよ」
「リオ、ちゃんと薬飲んでる?」
「・・・」
「ねえ、リオ、お酒臭いよ。髪の毛もボサボサだし。お風呂入っていないでしょ」
「ごめん。帰ったらシャワー浴びるよ」
「今日は日曜日だから許してあげるけど、来週、クリニックに来なさい」
「ハイハイ」
「ハイは一回でしょ。裕美子さんに怒られるわよ」
「リオのお店はどう?」
「どうって、まあ、普通」
「普通って、ちゃんと儲かってるの?」
「儲かりはしないさ。儲けるつもりはない」
「リオはいつもそう言うけどそんなんじゃ一生結婚できないわよ」
「結婚なんてしないよ。僕は結婚しちゃいけない人間なんだ。陽子さんが一番良く知ってるでしょ?結婚して幸せになるとは思えないし、まあ結婚しなくても幸せなのかは良くわからんけど」
「リオと同じ病気でも結婚して幸せになっている人はたくさんいるわよ」
「僕のことより陽子さんはどうなの?結婚」
「まあ、そうね・・・・・・・・・。母がうるさくて。ねえ、リオ・・・。」
「ん?何?」
「もう写真は撮らないの?」
「撮りたいものがない」
「私、リオが撮る写真好きだったのよ。特にモノクロームの。大学の時に撮ってくれたでしょ。私の写真。私ももうアラサーだし、一度リオに撮って欲しいな」
「お見合い写真?」
「あはは。お願いね。考えておいてね」
「お礼にカレーライスご馳走するから。それとプリンも付けるから」
 相変わらず理生の指を甘噛していた小太郎を陽子が引き離す。小太郎が名残惜しそうにクーンと鳴いた。
「じゃあね、リオ。来週、ちゃんとクリニックに来るのよ」
 陽子が小太郎を引っ張って河川敷から犀星の道に上って行く。柑橘系の香水の香りも薄れて消えて行った。

 理生は中一の時に金沢に来たがほとんど学校には行けなくて、高校にも進学しなかった。その代わりに陽子たち同じ下宿に住む大学生がそれぞれの得意の科目の勉強を見てくれた。とても贅沢な個人授業だった。そのお陰で理生は大学入学資格検定に合格し、金沢大学にもなんとか合格できた。
 特に陽子は医学部だったこともあって自分自身も勉強や試験漬けの日々が続き、毎晩遅くまで下宿のダイニングテーブルで勉強していた。理生も同じテーブルで深夜まで一緒に勉強した。
 理生がカメラを始めたのは陽子が父の形見の古いカメラを譲ってくれたのがきっかけだった。ニコンの古い一眼レフカメラ。使い込まれてアチコチ傷ができたり黒い塗装が剥げていたが、理生はそのくたびれた感じが好きだった。冷たい金属製の機会だけれど生きている感じがして。 
 写真を撮ることに夢中になった理生は陽子に連れられて兼六園や近江町市場、ひがし茶屋街や卯辰山など、金沢のあちこちを歩き回った。
 金沢の風景もたくさん撮ったが、陽子の写真もたくさん撮った。

 「リオ~」
 桜橋の上から陽子が手を振っている。小太郎も尻尾を振っているように見えた。

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