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〈動員-交易-地縁〉現代都市の考古学

 14世紀にエジプトを訪れた一人のヨーロッパ人は、こう記している。「ひとつのピラミッドの中腹に、表層の石をはがし、下へころがり落としている石工たちを我々はみとめた。…この表層の石をはぎとる作業は、千年以上も前から始まっているということだ。」
 ピラミッドは主に近隣から切り出された石灰岩からなるが、かつてその表装は赤や白の花崗岩で覆われていた。この巨大な人工の「山」からは、有史以来絶えず、特に利用価値の高い花崗岩が「採石」されていたのだ。
 ピラミッドが立地する下エジプトでは、花崗岩はあまり産出されない。その花崗岩は、ナイル川を伝って上流の上エジプトから運ばれた。今も残るギザの河岸神殿は、河から石材が運び込まれる船着き場であり、ピラミッドへいたる参道は石材の運搬路であった。紀元前31世紀に上下エジプトの統一を成し遂げたナルメル王は、ナイル川という領域を一つの国土とし、意のままに物資を「動員」することを可能にしたのである。
 石材調達はピラミッドだけでなく、神殿の建設においても欠かせないものだった。古代エジプトの神殿で見られる圧倒的な量感をたたえるオーダー、柱の間に渡された鈍重な梁、その上を覆う陸屋根。その全てが石材によって、それも多くの場合、継ぎ目のない「モノリス」によって構成されていた。人間のスケールを超越したモノリスが縦横に林立することで、古代エジプトの神殿を特徴づける、土木インフラのような多柱空間が現出する。中世におけるゴシックのカテドラルなどが、切石の寄せ集めによって柱を築きヴォールトを架けているのとは、全く対照的である。
 モノリスに対する偏執狂的な拘りは、オベリスクにおいて最高潮に達する。上エジプトのアスワンには、「切りかけのオベリスク」が残されている。堅い岩盤から、42メートルにも達する巨大な部材が切り出され、そして太陽へと突き立てられるはずだった。しかし、わずかなひびが入ったせいで、オベリスクは未完のまま打ち捨てられてしまう。モノリスは、金剛不壊、金甌無欠のものでなければならないのだ。

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 その後、ピラミッドの建設文化は途絶えることになるが、多柱空間という形式は保存され、モスクの空間構成として中世へと引き継がれる。とはいえ、2つの多柱空間から抱く印象は、全く別のものであるように思われた。古代エジプトにおける多柱空間は、その実、奥へと続く強烈な軸線に貫かれている。今でもカルナック神殿を訪れると、その遺構から、軸線にそって高窓が並ぶ姿を偲ぶことができる。もはや屋根は崩れているが、かつて地底のように閉ざされた空間に柱が広がり、それを貫くように一直線に光が差し込む様子を想像してみると、ある種の崇高さを感じざるをえない。

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 それに比べてモスクの多柱空間は、より分散的で偏在的で、ある意味フラットなシステムを感じさせる。均質なグリッドが平面的に広がり、ともすれば冗長な印象すら受ける。採光方式も点在するドームによるもので、そこに軸性は消去されている。エジプト最古のモスクといわれるアムル・イブン・アル=アース・モスクを訪れた際、折よくムスリムたちの礼拝に立ち会う経験を得た。みなが一つ、カアバ神殿の方角を向いて一列に並び、経を唱和しながら絨毯に額を押し当てる。その場に一度立ち会えば、「超越者の下での平等」という哲学が立ちどころに理解されるだろう。
 古代エジプトにおいては、あれほど量塊的であった柱も、年代を経るごとに贅を削がれ、モスクにおいては随分とスレンダーになっている。そして材料には、大理石が好んで用いられるようになる。エジプトは大理石の産地としても知られるが、中世において地中海貿易の要衝であったエジプトには、海を超えてイタリアなどから多くの大理石が運ばれたのではないだろうか。ナイル川という垂直的な軸線によって編成されていたエジプトという国土は、中世においては地中海-アラブ世界に重層する「交易」のネットワークに組み込まれていた。古代王朝の遺産であるオベリスクが、中世に入ると、地中海を経由してローマやコンスタンティノープルへ「輸出」されていったのが、象徴的である。

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 逆に、古代より地中海からエジプトへと運ばれ、建材として利用されていたのが、レバノン杉である。あくまで純粋な石造に固執した古代エジプトの神殿においても、木造的なディテールの「名残」を多く見いだせる。パピルスの束を象ったオーダー、根太のような凹凸を見せる天井、桟を打ちつけたような扉。それらはみな、木造による「原始の小屋」の存在を指し示している。太古、エジプトの民は葦やパピルスの茎を束ねて小屋を建てており、これが後世のモニュメントの祖型となったのである。
 この「草の家」と並んで、エジプトにおける最古の構法とされるのが、「土の家」である。当初、版築のように泥を塗り重ねるようにして築かれた土の家だが、泥を木の型枠で成形してから乾燥させるようになり、日干し煉瓦が誕生した。産地が限られる石材とは違い、泥は川をさらえばいくらでも手に入る。巨石の運搬がナイルの賜物だとすれば、日干し煉瓦もまたそうであった。労力の集中的な動員を必要とする石造に比べて、煉瓦造は非熟練の少ない人手で建設することができる。いわば民主的な構法である。中央集権的な動員を必要とせず、広域的な交易にも依存しない煉瓦造という構法は、ローカルな共同体の手で継承されてきた「地縁」の建設文化といえよう。
 この日干し煉瓦で屋根を架けるためには、ドームを構築する必要がある。このドームが一定のスケールからなる矩形の室を規定し、室は互いに連担しながら平面的に展開していく。これら室群は中庭を伴いながら、グリッドに即した明確な形式性を獲得していった。そのモジュールを伴ったシステムには、ある種のモダニティすら感じさせる。そこには、西アフリカの集落で感ぜられるような土着性と、砂漠の中に屹立するキャラバンサライのような計画性とを共存しているようだ。戦後オランダの建築家アルド・ファン・アイク(1918-1999)は、西アフリカのドゴン集落の分析を通して構造主義的アプローチに到達したといわれているが、グリッドと図地を多用した明晰かつ柔軟なタイポロジーは、むしろエジプトの集落を思わせる。
 このエジプト土着のタイポロジーに対する再解釈は、エジプト国内からも生じた。イムホテプ以来エジプトで最も著名な建築家と称される、ハッサン・ファトヒー(1900-1989)である。中東の建築文化になじみの薄いわれわれにとって、一見ファトヒーの建築から「ヴァナキュラー」以外の価値を見出すのは難しい。しかしファトヒーの建築には、エジプト南方ヌビアのヴォールト天井、ペルシアの風採塔バードギール、ネオマムルークスタイルなど、多様な出自をもつ造形言語が織り交ぜられている。あたかも日本のモダニストたちが、弥生-縄文、書院-数寄屋、床-柱など多様なレトリックでもって「日本建築」を再構成したかのように。

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 ファトヒーが卓抜していたのは、こうした造形の問題を構築術のレベルへと還元したところである。例えば、ヌビアのヴォールトは木材によるサポートを必要としない煉瓦の構法であり、ローカルな経済での自律的な建設技術を志向していた。戦後エジプトは政治的独立を達成したが、経済的にはモノカルチャーによる欧米への依存度が大きく、その網の目は伝統的な村落共同体までもを絡め取っていた。そんなエジプトの村落に対して、ファトヒーは自立した建設文化=経済のありかたを提示したのである。それは、宗主国を中心とした「動員」を強化し、不均衡な「交易」を強制した帝国主義的近代に対する、「地縁」からのレジスタンスだったのかもしれない。
 しかし、今日の砂煙が舞う巨大都市カイロの姿を目にすると、その混沌たるリアリズムに圧倒されてしまう。そこではファトヒーのアプローチが果たして有効だったのか、建築家という存在への根源的な無力感すら覚える。道は改造車でごった返し、街は旧市街と計画区域と不良住宅地がまだらを描く。そこでは、動員と交易を排した、地縁の楽園などは期待しようがない。スラムに住まう人々までもが、スマートフォンを手にしているのを目にすると、この都市もまたグローバル経済の渦中にあることに気付かされる。
 多くの現代都市と同じように、今やカイロでも煉瓦ではなく、コンクリートのラーメン構造によってビルディングが築かれている。奇しくも、RCラーメン構造もまた、グリッドによる多柱空間という構成を有する。しかし、その多柱空間はモノリスの量感をたたえる神殿のそれや、水平的な連帯を現出させるモスクのそれとは異なる、もっと汎用的な何かである。混沌のうちに拡大するジェネリック・シティにおいて、コンクリートのフレームこそが今や唯一の規律であるかのように思われる。

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 セメントや鉄鋼を原料とする鉄筋コンクリート造は、本質的に「地縁」の構法たりえない。鉄筋コンクリート造による建設産業は、国家による規格の制定や、セメント・鉄鋼産業に伴う広域的な流通が前提となっている。
 かつてローマ帝国は、現地で材料が自給しやすい煉瓦造を「インターナショナル・スタイル」として採用することで、帝国の各地に次々と都市を築いていったが、それはある種の分散的なシステムだった。しかし今日のRCというインターナショナル・スタイルは、強力な国家権力と安定的な物流網を前提とした、集中的かつ偏在的なシステムである。事実、海外からの資材供給が途絶えた戦時下日本では、鉄筋コンクリート造が見事に姿を消した。
 とはいえ、ビルディングが建設されるためには、現場でそれを建てる人が存在しなければならない。そこに、一片のローカリティが残存する。カイロの場合も、都市下層民と呼ばれる人々が、日雇いに近いかたちで建設業に従事しているのだろう。彼らは都市の周縁部にスラムを形成し、現代都市の中に新たな地縁関係を結んでいる。近代はついに、地縁を完全には消去しきれなかったのである。
 動員と交易から逃れられない現代都市において、もはやナイーブな地縁共同体は成立しえない。情報ネットワークが高度化する中、土地に縛られることの必要性も薄らいでいくだろう。しかしだからこそ、それが反転するかたちで、ある空間を占め周囲に環境を形成する身体と、それを支える大地の存在が浮かび上がってくる。エジプト建築の5000年史はまさに、建築の根源的な領域性と脱領域性-すなわち建物はある場所にしか建たないが、そのためには資材をある場所から異なる場所へと移さねばならない-という問題機制を、現代に向かって映し出している。

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参考文献:シートン・ロイド、ハンス・ヴォルフガンク・ミュラー著 、堀内清治訳『エジプト・メソポタミア建築』本の友社、1997 /磯崎新、関和明著、篠山紀信写真『ナイルの祝祭 カルナック神殿』 六耀社、1980/深見奈緒子『イスラーム建築の世界史』岩波書店、2013

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