無駄な経験というわけでは無さそうだ

30数年の人生、今なら絶対やらないような「無駄」なことをたくさんやってきた。

たとえば、バイトをしながらバンドをしていた20代。結局は、随分と遊び呆けていた。

無駄に遊ぶぐらいならもっとバンドがよくなるために時間を割くべきだったのではないか。そんな調子だったから、当然バンドが社会的に、特に経済的にうまくいくようなことはなかった。

約10年間、一体何をしていたのか。

けれど、完全に無駄な時間だったかというとそうも言い切れない。

社会から逃げて、逃げて、逃げ続けた先にも社会があることに気づくための大切な時間だったと思う。

自由になるために逃げ続けるよりも、自由になるために社会で居場所をつくったほうがよいと思えたことで、人生は大きく変わった。

非合理的な経験が、人生の歩み方を変えてくれる大切なエッセンスになることもある。

一見無駄に見えた経験は、いつか役立つ瞬間がある、かもしれない。


何もそんな大げさなことだけではない。


中学時代、私はサッカー部に所属していた。3年生の夏に引退するまでの2年半。そのうち、2年以上は惰性で続けていた。今なら確実にニュースになるであろうような鬼監督。サッカーが、まったく楽しくなかった。

試合と試合の合間に100mダッシュを50本走り、次の試合でろくに走れずに負ける。負ければ罵声と暴力が飛んでくる。100歩譲って、プロを目指すために必要な過程だと言われても、納得しない。なぜならプロを目指していなかったからだ。

そんな部活を何度も辞めようと思ったが、鬼監督に「辞めます」と言い出すのが怖くて、結局引退の日まで辞められなかった。

このときの経験によって、家庭内暴力を受けながらも飛び出せない家族の気持ちであったり、ブラック企業を辞めたくても辞めない気持ちだったりが、何となく触りだけでも分かるような気がする(まったく理解できないわけではない、というレベルかもしれないが…)

問題解決のために正論を振りかざすだけの機械的な人間ではない要素を、この時代にかろうじて育むことができた。

無駄に見える経験も、そこから学ぶことはある。


精神的な面だけではない。


先ほど、裸のiphoneが手から滑り落ち、アスファルト目がけて落下した。

その時、

とっさに足が出た。

アスファルトへのダイレクトな落下を避けたiphoneは無事だった。

サッカーをしていなかったら、こんなことはなかっただろう。そうした実利の面からも、無駄な経験など無いのではないかと思い始めた8月の後半。


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