見出し画像

「私たちにはことばが必要だ」書評、私はフェミニストだと言えるようになるまで。

「私はフェミニストだ」とはっきり言えるようになったのは最近のことだ。フェミニズムについてよく知らない人でも、フェミニストがどういう扱いを受けるかはよく知っているのではないか。それでも、それを乗り越えて言う意味があると思っているから、私はフェミニストだと積極的に言うようにしている。

あなたには、自分を守る義務がある。自分を守ることは、口を開き、声を上げることからはじまるのだと。(「私たちにはことばが必要だ」以下引用は全て同書より)

「私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない」を読んで、そうだ、私たちに必要なのは、口を開き、声を上げ、自分たちを、そしてかき消されてきた自分たちの「ことば」を守ることなのだと思い、この長い文章を書くことにした。

-- 

フェミニズムと私の距離はしばらくの間、随分と遠かったように思う。大学一年生の時にジェンダーの授業を取っていたけど、それはあくまで「ジェンダー学」で、大学で単位のために勉強するもので、自分に引きつけて考えたことはなかった。授業でそんな印象を受けた覚えはないのに、フェミニズムは「女、女、女」について語る、うるさくて面倒臭いという典型的なイメージのまま私は大学を卒業した。

次にフェミニズムに触れたのは、アメリカの会社に就職し、その会社のシンガポールオフィスで働くことになった25歳のとき。シンガポールオフィスは比較的新しく出来たオフィスで、私が入社した頃は30人くらいの社員がいて、そのうちの半分かそれ以上が女性だったように思う。

その会社には社内の女性をempowermentするための活動を行うグループがあって、シンガポールオフィスでもよくイベントをやっていた。こんなに女性社員がたくさんいて、バリバリ働く女性もトップにいて、自分の意見をガンガン言うみんなが強く眩しく見えて、それだけで十分すごいしなんて進んでいるんだと思っていたので、最初の頃はみんながどうしてこんなに熱心に活動しているのかよくわからなかった。さらに全員がフェミニストであること前提に話が進むのにもびっくりした。

イベントの内容は色々だけど、社内の管理職の女性や外部の活躍している女性を招いて彼女たちの経験を講演してもらったり、ちょっとしたお茶会を開いてカジュアルに話を聞いたりすることが多かった。

「会議中に言いたいことがあっても、自分の意見がつまらないもののように感じて発言するのをためらってしまうことがある」「もっと給料をもらうべきだと思っているのに、なかなか給料交渉が出来ない」「自分が本当に良い仕事をしているのか自信が持てない」

私には手も届かないような輝かしいキャリアを持っている女性たちが、自信に溢れているように見える女性たちが、意外にも私と全く同じようなことで悩んでいて驚いた。

--

しかし、女性が性差別についてよく知っているのは、運がよかったからでも、生まれつき頭がいいからでもありません。生きていくうちに何度も差別を経験しているからです。

中学生の頃、これまで出会った不審者の話になった。だいたいみんな露出狂に出くわしたことがあり、その中で背が小さく、見た目はちょっと大人しそうな女の子が、ちょっと異常な回数で不審者に遭遇していた。横に止まった車から道を聞かれ、振り向いたら運転席に座っている男性がオナニーしていて、泣きながら逃げたというような話を、いくつもいくつも持っていた。どうして私はこんなに私は不審者に会うんだろうと、心底気持ち悪そうに言っていて、みんなで一緒に気味悪がった。

高校生の頃、痴漢の話になった。これもまたみんなだいたい痴漢にあったことがあり、その中で背が小さく、見た目はちょっと大人しそうな女の子が、やっぱりちょっと異常な回数で痴漢にあっていた。ほぼ毎日で、どうしたらいいかわからないとその子は泣いていた。かわいそうだとみんなで同情した。

辛い体験を人には話せない子だっていただろうし、もっとひどい話を抱えている子もいたと思う。

痴漢じゃなくても、駅の階段を登っていて、ふと振り返ったら、知らない男性が私たちのスカートの下を盗撮しようとしていたことがあるし、校内で盗撮していることで有名な同級生もいた。通学路の踏切で、遮断機が降りている間、女性の耳元で「かわいいね」とものすごく気持ち悪い声で囁き続けるおじさんにも何度も出くわした。

それでも私たちの誰も、警察に届けようとか、先生に相談しようと言ったことはなかった。なぜだか最初から諦めていて、それは日常の一部で、どうしようもないことだと思っていた。

--

「なにかというと『女性嫌悪』だ」と不満に感じる男性は多いでしょう。そうなんです。なにもかも女性嫌悪です。女性とはいわば、枠の中に閉じ込められて剥製のようにされた存在です。その女性が枠から飛び出そうとしているのを目にしたときに生まれる拒否感が、女性嫌悪です。

シンガポール人で日本に留学していた同僚は、日本のクラブでいきなり知らない男性に胸を触られ、咄嗟に顔面を殴ったと話していた。ブラジル人の同僚は日本旅行に行く前、日本で痴漢を見かけたら絶対に蹴り飛ばすんだと張り切って蹴りの練習をしていた。

すごいなぁ、私には出来ないと思って、どうして私には出来ないんだろうと思ってぞっとした。望んでいないのに体を触られること、性器を見せつけられること、勝手に下着の写真を撮られること。どれも暴力的なことで、決して受け入れる必要なんてないのに、どうして私たちはそれが逃れられないことだと思っていたのだろうか。

--

会話中に起きる権利の侵害、そして殺人や暴力のような身体的侵害は、まったく別のもののように見えてその仕組みは一緒です。

夜中に一人で道を歩いていて、後ろから誰かが付いてきてるように感じたとき。自分の横で車がゆっくりとスピードを落としたり、突然止まったとき。工事や修理で訪ねてきた知らない男性を部屋にあげて二人きりになるとき。このときに感じる恐怖や、咄嗟に判断しなければならない経験は、女性ならみんな知っているのではないか。

居酒屋や喫茶店で、楽しく話していたのに知らない男性に話しかけられて、失礼な言葉やつまらない話を、きっぱり断れずになんとなく笑顔で受け流そうとしてしまうとき。ナンパされて、全然興味ないけどきっぱり断らずやんわり断るとき。無視することも、はっきり迷惑だと言うことも、本当は出来るはずなのに、それをしたときに何が起こりうるか、それが何と繋がりえるか、私たちは知っているのではないか。

--

しかし、そんな絵に描いたような和解方法で平等が実現した例は、どこにもありません。それができていたら、最初から不平等などなかったはずなのです。

私自身は、痴漢やレイプをされたことはない。でも誰かから聞く性暴力の話は、たとえ別の国の話であっても、どれもすごくリアルで同じように恐怖を感じる。被害者は同じ女である私であってもおかしくないから。

スタンフォードのレイプ事件の被害者が、加害者に向けて読んだ手紙日本語訳)を読んだとき、私はボロボロ泣いた。これは遠くの国で起こった私には関係のない事件ではなく、私にも起こりうることだと、彼女の痛みがどうしようもないくらいに伝わってきて、声を出して泣いた。パートナーにも読んでと渡したら、さっと読んで「かわいそうだね」という感想しか返ってこなくて驚いた。彼にとってこれは自分の話にはならないのである。

私が女性差別について怒っているとき、私のパートナーはよくこういうことを言う。

「その人が馬鹿だとは思うけど、よくあること」「怒ったってどうにもならない、そのエネルギーをもっと有意義なことに使うべき」

怒らないで、笑って流して、または優しく説明して、世の中は変わるんだろうか?これまで抑圧されてきた側が、怒りなしに、抑圧する側に対抗することなんて出来るんだろうか?そして女性差別に怒ることは、自分のエネルギーを使うに値しない、意義のないことなのだろうか?

--

あなたが経験した差別は、あなただけがわかることです。「なにをそこまでするのか」と言われたら、ひるまずに「私はそこまでするのさ」とクールにやり過ごしましょう。

「どうしてそんなに怒るのか」と言われる度、やりきれない気持ちになってきた。でも今ならはっきりとわかる。女性差別は私が人生においてずっと経験してきたことで、私は当事者なのだ。女性差別を経験したことがない男性に、その差別が大したことではないとか、その差別がなかったことにされてはならないのだ。

--

アメリカの会社にいた頃、新しいプロジェクトが発表されて、そのリーダーシップチームが紹介されるとき、なぜリーダーの中に女性がいないのか、または少ないのかと声を上げる女性たちが必ずいた。当時はわからなかったけど今ならわかる。待っているだけじゃいつまでも変わらない、誰かが声を上げるから変わっていくのだ。ああやって言ってくれる人がいるから、みんながその不均衡に気づくし、その中で意識が変わっていく人が出てくるんだろう。

--

そういうあれこれの積み重ねで、そしてフェミニストでいることが当たり前の環境にいて、私も自分がフェミニストだと思うようになった。それでもフェミニストだと名乗るのがしばらく怖かったけれど、それが怖いことこそが今も強く女性差別があることを何より証明していると思って、引き受けようと思った。自分のためでもあるし、何よりこんな意味不明な差別を次の世代に渡していきたくないから。

 --

こういうようなことを、「私たちにはことばが必要だ」を読みながら、そして読み終えてずっと考えている。

最後にちゃんと書評らしいことを書いておくと、私は何かひどいことを言われる度に、その場で咄嗟にうまく返す言葉が見つからずに黙ってやり過ごしてしまったことが何度かある。その度にそれは私の知識が足りないからだ、もっと勉強しなくちゃいけないと思ってきたんだけど、この本を読んで、私に足りないのは練習なのだなと思った。この本は、色んなシチュエーションでの言い返しを用意してくれているし、そして断固たる態度で話をしないと表明すること、会話を終わらせることの大切さについても書いてある。

すごい本だった。一人でも多くの女性に読んでもらえたらいいなと思う。