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量子力学的思考〜観測、認知、エンボディメントと振る舞い〜

今回の記事は量子力学の思考を交えながら認知と振る舞いについて個人の考えを述べます。

量子力学とは分子や原子の構成要素である、電子、原子核、陽子、中性子、さらにクォークといった素粒子の性質や運動を研究する物理学のフィールドである。

わたしたちは物質界のなかで生活している。わたしたちの体はもちろん物質であるし、意識も脳の電流、周波数によって決定されている。電流は電子の流れである。つまり体だけでなく意識も物質の影響を受けているのである。

さて、素粒子にはアップクォーク、ダウンクォーク、eニュートリノetc. とあるのだが、その素粒子を構成するさらに最小の単位は何か?と考えた時に、わたしは超弦理論の考え方を採択している。

超弦理論では物質の最小単位を弦の振動と定義している。
散々、原子やクォークといった円周の軌道をもつ粒のイメージをしていたのに、最終的に弦の振動とは?、となるかもしれない。
個人的に物質の最小単位が振動というエネルギーそのものである点は、物質間のエネルギー交換や、科学変化を考えると最小単位が振動というエネルギーである考えは納得がいく。

ここから思考の話に移る。
超弦理論の考え方を基にすると、存在しているということは、エネルギーを持っていることと置き換え可能なのではないか。
この時、運動している物質のみならず、静止物であっても最小単位では運動をしており、エネルギーを内包している。

さて、量子力学では、量子は粒子か波動かという問いが研究され続けている。
量子力学の場合は、粒子として観測を試みると波、波動としての特徴をみせ、反対に波として観測を試みると粒子としての振る舞いを見せるという実験結果がある。つまり、観測において、その振る舞いが異なるのである。
このことにおいて、「シュレーディンガーの猫」の思考実験が有名である。
観測するまで猫の状態、もとい放射線が発生した状態としていない状態が重なりあっているというのである。
こうした、観測時点まであらゆる状態が重なり合い、観測により一つの状態へ収束するという理論を「デコヒーレス」という。

とても単純な例を述べると、お昼を食べる前は、和食でも洋食でも中華でもエスニック料理でも、何でも、あらゆる料理の選択肢がある。しかし、昼食を食べている時点では何かの料理に絞っている(もちろん何も食べない、全て食べるという状態へ収束することもあるだろう)。

このデコヒーレスも粒子というミクロレベルのみならず、普段の生活といったマクロレベルでも理解できるのではないか。

つまり、世界には常にあらゆる可能性が存在しており、観測や動作の時点に達することで収束して単一の同一世界にいるように感じているのである。
存在というエネルギーは常に、発散と収束を繰り返しているのである。

ここで、哲学者の大森荘蔵の「立ち現れ」の理論について説明を付け加える。
立ち現れとは、観測するまで存在がゼロであったものが、観測されることによりその現在の存在から過去の存在まで構築されるというものである。

立ち現れの例を挙げると、曲がり角で二人の人間が別方向から歩いている。曲がり角でお互いに顔を合わせるまで、お互いは存在を知らない。しかし、顔を合わせることで別の道を歩いていた(過去)人間というお互いの過去が構築される。

もう一つ例を挙げる。
新学期に新しい友人Aができたとする。
Aに会うまで自分の人生にそのAは存在していない。しかし、友人に出会ったことにより、直接の関わりはなくとも自分の生きてきた年数にAの人生が並列する。
つまり、認知することにより、過去が構築されるのである。

この立ち現れは量子力学的な哲学思想だとわたしは考るためここで述べた。
この理論の重要な点をわたしはエンボディメントだと考えている。
エンボディメントとは具現化である。
液体を容器に入れて一定の形を保つことで、計測可能になると言ったように、カオスに一定の形式を用いて観測可能(認知可能)な状態にすることをエンボディメントと定義する。

上記のようにあらゆる可能性を内包したカオス状態から観測時点では、過去、また予測という意味で未来までが構築され、一つの現実へ収束する。
これは、日常的にわたしたちが行なっていることである。
わたしたちは言葉によって互いの状態やコミュニティの中でのルールを示し、伝え合っている。
この言葉もひとつの観測や認知地点である。
恋人というワードを考える。一般的な、コモンセンスによってある程度合意のなされたイメージでは、異性同士の二人の親密な人間というイメージを持つ方が多いのではないだろうか。
この恋人という関係性は千差万別でカップルの数だけ関係性は異なるだろう。カップルではなくトリプルかもしれない。
しかし、恋人という言葉、厳密には社会的通念、を使うことによってその多元的な状態がひとつの次元、ここにおいては社会という次元、においてイメージが固定される。
観測、認知は過去及び未来に影響を及ぼすため、特定の振る舞いを付与されたり、振る舞いを求められるのだ。
さらに、求められる振る舞いはバイアスやステレオタイプといった心理状態を形成すると推察している。

収束は観測や認知において重要である。
あくまで、量子力学ではなく認知の話であるが、振る舞いを限定することは収束を繰り返す現実の中で、現実化、具現化を効率よく、またスピードを上げて行えるだろう。しかし、選択を限定することは多方向のベクトルを放棄放棄していることになる。
もちろん、エンボディメントの役割は言葉だけでない。行動や視覚、聴覚、感覚や情報も形式として具現化の役割を担い得る。

もちろん、あらゆる可能性があるとは、選択肢が互いの存在を否定しているのではない。
エンボディメントに縛られない状態は多様性や多元的、高い創造性を有している状態だと考えられる。
価値判断は観測によってもたらされる。
正解や倫理などは個人やコミュニティという次元におけるひとつのエンボディメントである。

デコヒーレスを収束させ観測することをエンボディメントとわたしは定義した。
動作や状態、感情やインスピレーションも既存の言葉に当てはまらないことは多々あるだろう。
そのカオスを自分で理解するため、相手に伝える、また具現化するためにわたしたちは観測や認知、また行動を起こすのである。

エンボディメントはデコヒーレスを収束、固定、限定化、するものであるが、本質に具現化することである。
考えているだけでは現実化しないが、行動に起こす、言葉にすることで現実のこととしてアイデアが実際に進行する。
量子力学的なデコヒーレスは私たちが認識できないとされている。
しかし、思考というレベルにおいて、デコヒーレスとエンボディメントは常にわたしたちの中で起こっているのである。
創造性を使う時、判断をする時、具体的に行動する時、わたしたちは発散と収束、ここにおいては多様性と限定というエネルギーを用いているのだ。

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