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雑記林②『5月13日に神棚の下の仏壇にお焼香、賛美歌、そしてカーネーション』


令和5年度

母の日と勘違いした日の

法要だか礼拝だか祈祷だか

母への感謝を表す何らかの儀式


式次第

日時:令和5年5月13日(土)午後1時頃〜
場所:ボクの実家
参列者:ボク

  1. おりん

  2. お焼香

  3. 礼拝(らいはい)

  4. 賛美歌『幻の影を追いて』(YouTubeより)

  5. 賛美歌『母君にまさる』(YouTubeより)

  6. 牧師さんのお話(YouTubeより)

  7. 賛美歌『丘の上の教会へ』(YouTubeより)

  8. 賛美歌『この世の波風騒ぎ』(YouTubeより)

  9. なまんだぶなんまんだぶ


キリスト教の学校に通っていたボクは
「母の日礼拝」なるもので
母への手紙を読んだことがある。

確か国語の時間に作文を書いて
学年で何人かが選ばれたんだったと思う。

中学生の時分だったこともあり
全校生徒とそのお母さんたちの前で
読み上げるのはずいぶんと気恥ずかしかったと
記憶している。

タイトルは「母へ」。

母(はは)なんて言葉は
その時に生まれて初めて使ったんではなかろうか。

思春期真っ盛りの少年による
せめてもの抵抗だった。

それでも部活の先輩からは
そんな抵抗はものともせずに
「母へ。ハハハハハ!」なんて
馬鹿にされたものである。

母はボクが朗読者に選ばれたことを
ずいぶんと喜んでくれた。

そのときの嬉しい記憶が尾を引いているのか
ボクはいまだにnoteに母への想いを
書き続けているのだから
自分でも呆れてしまう。

それはそうと
一昨日は母の日だった。

ボクは母の日を1日早く勘違いしていて
5月13日(土)に仏花とカーネーションを
仏前に手向けてしまった。

お経でもあげようかとも思ったのだが、
ふとその母の日礼拝のことを思い出し
せっかくなので賛美歌を流してみることにした。

母の日でもなかったのに…

「母の日」で検索してみると
賛美歌『まぼろしの影を追いて』
がヒットしたのでとりあえず流す。

前奏を聞けばどんな歌だったのか
すぐに思い出し
ついつい一緒に口ずさんでしまった。

“教育”とは怖ろしいものである。

そして続けて『母君にまさる』を流す。

これは結婚式なんかでも歌われる
有名な賛美歌『慈しみ深き』のメロディで
歌詞を変えたものなのだろう。

そのあとはどこかの牧師さんの
ありがたそうな母の日の話を流したのち、
人気があった賛美歌『丘の上の教会へ』を流す。

最後は個人的にも好きだった
賛美歌『この世の波風騒ぎ』で締める。

確か昔のなにかの映画で使われていた
曲だったと思う。

と、まぁ、ダラダラと何式とも言えない
個人的な亡き母への儀式を
恥ずかしげもなく書き連ねてきたのだが、
半生くらいキリスト教の教えを
受けてきたボクには
意外に賛美歌が染みついていることを
改めて認識させられたのであった。

しかしながら、
教育熱心だった母が
ボクをなぜかキリスト教の学校に通わせたわけだが
その甲斐も虚しく(?)
今のボクには仏教の方がしっくりときている。

とはいえ、母の日でもなかったのに
仏壇の前で賛美歌を流されても
仏様は困らなかったのだろうか?

いや、決して困らなかったと断言できる。
いや、断言はやめておこう。
ボクなりの解釈では困らなかった。

日本では仏教もキリスト教も
本来の厳格な戒律は忘れ去られ
仏様もイエス様も
ときにはお客様でさえも
神様になってしまうのだから
仏様にとっても
そんなことは日常茶飯事だろう。

ボクが尊敬する山本七平先生の言葉を借りるなら
それは「日本教」と呼ばれる
どこにも明示されていない
日本人独特の価値感。

そして行動原理であり教義(ドグマ)。

だからこそ、
ボクが母の日の前日に行った
わけのわからない儀式だって
云うなれば
極めて“日本人的”な祈り方であって
なんら不自然な行為ではないはずなのである。

おそらく一神教の宗教を持つ
外国の方から見たら
なんと不自然なことか。

ここでは、多神教と一神教
どちらが優れているかなんて
決して論じようとは思っていない。

ただ、日本教なるものは、
極めて寛容な価値観である。

そして同時に
一辺へのいきすぎた偏りを決して許さない
不寛容さも併せ持つ。

なんでもありだけど
なんでもありではない。

こんな矛盾を
包括できるのが日本教であって
これだけ複雑性と多様性が増す
争いの耐えないこの世界で
今こそ平和を実現できるのは
日本教的な価値感であるし
その価値感を生み出した
日本語という言語なのだと
ボクは信じている。

そしていつの日か
この国にもまん延しつつある
拝金主義と優生思想が
日本教的価値感に飲み込まれて
骨抜きになることを願ってやまないのであった。


と、
なんかとりとめもない話になってしまったものの、
後半は特になんだか思想が強そうで
非常にとっつきにくかったとは思うのですが、
ボクがこれまで生きてきて
今のところの結論としては
そう思っていますっていう軽めの話でした。

まぁ、宗教にしても言語にしても
素人の個人の解釈(かんそう)くらいで
とどめてください。

ちょっと読みづらくて
伝わりづらいとは思うのですが、
あくまでも雑記ですので
あしからず。

今の日本には逆にキリスト教的な
考え方だったり感覚だったりも
必要だと思ったりもしていますので
また、そこらへんについては
追々書いていこうと思います。

あなかしこ
あなかしこ…










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