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With courage, nothing is impossible.

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詩編・聖書日課・特祷

2023年6月25日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約:エレミヤ書20章7〜13節
 詩 編:69編7〜10節、15〜17節
 使徒書:ローマの信徒への手紙5章15節b〜19節
 福音書:マタイによる福音書10章24〜33節
特祷
すべてのよい賜物を造り、これを与えてくださる力ある神よ、み名を愛する愛をわたしたちの心に植え、まことの信仰を増し加え、すべての善をもって養い、み恵みのうちにこれを保たせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん「いつくしみ!」中部教区・信徒宣教者の柳川真太朗と申します。どうぞよろしくお願いいたします。変なヤツが来たな……と、皆さん、そう思っていらっしゃるんじゃないかという雰囲気が伝わってくるんですけれども、正解です。そうです、変なヤツです。
 今年の4月に、日本基督教団というプロテスタントのグループから日本聖公会に“移籍”してまいりまして、現在、この中部教区におきまして「信徒宣教者」という働きを西原主教様より仰せつかっております。
 所属は「名古屋聖マタイ教会」なんですけれども、このように他の教会に時々お邪魔して、礼拝のお話をさせていただいたり、その他のご奉仕をさせていただくというようなことがメインの働きとなっております。
 ですので、今後皆さんとお目にかかる機会が増えていくと思いますのでね、皆さん、早めにこの“変なキャラクター”に慣れていただければ良いんじゃないかなって思います。ちなみに、今月の中部教区報「ともしび」の中に自己紹介の記事を掲載していただいておりますので、ぜひそちらもお読みください。

LET NOT THE DEEP SWALLOW ME UP

 ところで皆さん、突然ですけれども、『世界まる見え!』という番組をご存知でしょうか。まぁ30年以上も続いている長寿番組ですからね。皆さん、一度はご覧になったことあると思いますが、一応ご紹介しておきますと、『世界まる見え!』というのは、世界各国から仕入れた衝撃動画や爆笑動画、ドキュメンタリー映像などを紹介してくれるバラエティ番組です。毎週月曜日の夜に日テレ系列で放送されています。
 我が家では毎週欠かさず録画しておりまして、リアルタイムじゃなくて別の日のヒマな時間に見たりするんですけれども、先週19日に放送された内容が「あ、これ今度の礼拝のお話で紹介したいなぁ」っていうような内容だったので、今日はそのお話から始めさせていただきたいと思います。

 先週の6月19日の『世界まる見え!』は、『海で危機一髪!命がけの救出劇!』というテーマで、海難救助を専門とした、とあるレスキューチームのことが紹介されていました。イギリスの『王立救命艇協会』という組織です。『王立救命艇協会』というのは、その名の通り「王立(Royal)」ということで、当時の国王ジョージ4世の支援のもと設立された団体なんですけれども、しかしその実態は、王室やイギリス政府が運営しているわけではなく、完全に一般の人たちからの寄付などによって成り立っている独立した非政府組織なんですね。
 『王立救命艇協会』に所属しているメンバー約35,000人の内、ほとんどが、なんとボランティアで構成されているそうです。ボランティア……、つまり、無償で活動をしているということです。また、その中でも、実際に船に乗って救助活動をするレスキュー隊員が約5,600人おられるんですが、その人たちも皆、ボランティアということなんですね。きちんとトレーニングを積んだ“海難救助のプロ”である彼ら彼女らですら、あくまで「ボランティア(慈善活動の一環)」として活動しているそうなんです。
 王立救命艇協会のホームページに公開されていた2021年の記録によりますと、2021年度だけで、この組織が助けた人の人数は12,903名だったと書かれていました。単純計算ですけれども、1日で35人の人たちが「王立救命艇協会」によって助けられているということになります。非政府組織の慈善団体であるにもかかわらず、これほどまでに人々の安全を守っているというのは、相当凄いと思います。

“Let Not the Deep Swallow Me Up”

 救命艇のレスキュー隊員たちは、時に、その勇敢さを称えてメダルが授与されるそうです。お手元の資料に載っている写真がそれですね。このメダルの裏に、救命艇のクルーに助けられている人の絵と、何やら英語の文章が書かれているのが分かるでしょうか。これは“Let Not the Deep Swallow Me Up”と書かれているんですけれども、実はこれ、本日の詩編の箇所として選ばれていた69編の中の一節なんです!(……と、いうような感じで、今日の聖書のお話に繋がっていくわけですね 笑 )
 というわけで、詩編69編15~17節のところを読んでみたいと思います。祈祷書の771頁ですね。
 「泥沼に沈まぬようにわたしを助け∥ わたしを敵の手から助け、水の深みから救い出してください 大水がわたしをのみ込み∥ 深い淵、水の底にわたしを閉じ込めないように 主よ、慈しみ深くわたしにこたえ∥ 憐れみ深く顧みてください」(日本聖公会訳)
 この中の「大水がわたしをのみ込(まないようにしてください)」という神に対する祈りの言葉を、『王立救命艇協会』ではメダルのデザインの一部として採用したということなんですね。
 先週一週間ずーっとニュースで取り上げられていた、例のタイタニック号の潜水艇の海難事故。ホンマやったら……ね、あの乗組員の人たちも無事に救出されて良かったね!なんて言いながら今日の話ができれば良いなと思っていたんですけどね。「潜水艇の残骸が発見された」という報道を見たときは、非常に残念でした。海の底で亡くなった彼らの魂を、どうか神さまが救い出してくださるよう祈りたいと思うわけですけれども……。今回の事故のことも然り、1912年に沈没したタイタニック号も然りなんですが、やはりどれだけ科学技術が進歩してきたと言っても、「海」という場所は依然として、古の時代から変わらず、我々人類にとって「自らの無力さを思い知らされる」、そんな領域なのだなとあらためて考えさせられています。
 しかしながら、そういう我々人間の力が到底及ばない「海」という領域において、それでも、日々懸命に救助活動にあたっている『王立救命艇協会』のようなレスキュー隊の方々には、本当に頭が下がる思いがいたします。しかもボランティアですからね。そんな彼ら彼女らの働きには、只々感服させられるばかりです。

生命を「救う」こと

 「生命を守る」ということは、実際のところ、我々人間だけがやっていることではなくて、他の動物たちの世界でも行われていることです。外敵や自然の脅威から、自分たちの子どもや卵を、あるいは群れの中で弱っているものを守る……ということを行なって、次の世代、また次の世代へと生命を繋いでいくわけです。
 けれども、「生命を守る」ということと、救助活動のような「生命を“救う”」ということとでは、実は、大きく意味合いが異なるのではないかと僕は思うんですね。「生命を救う」というのは、高度な知識や技術、そして決断力が必要です。ですから、他の動物たちとは違う形での“賢さ”を持った、我々「人間」という生き物こそが、本来、最も得意としていることなのではないかと思うわけなんですね。
 この『王立救命艇協会』のホームページには、次のような文章が書かれていました。「我々『王立救命艇協会』の活動は、勇気と決意、そして“あなた”のような心の豊かな人々のサポートが原動力です(Powered by courage, determination and the support of generous people like you……)」
 勇気と決意……。それは、不可能を可能にする力、絶望から希望を生み出す力、自分を犠牲にしてまで他者を助けようとする力。そのように言い換えても良いのではないでしょうか。そして、そのような力があってこそ、「生命を“救う”」という働きへと進んでいけるのではないかと思うんですね。
 さて、ちょっと話題を変えまして、今回選ばれている詩編69編との関連で、本日の旧約テクストであるエレミヤ書20章7節以下の箇所を少し見てみたいと思うんですけれども、詩編69編の内容が、やや陰鬱とした、重苦しい内容であったのと同じように、このエレミヤ書20章もまた、預言者エレミヤ自身が抱える苦悩や孤独感について、赤裸々に綴られています。
 たとえば、10節には次のように書かれています。「わたしには聞こえています/多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾(だんがい)しよう』と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と。」
 どうしてエレミヤはこの時、人々からの非難の声に苦しめられているのか。それは、エレミヤが預言者としての立場から、彼らの国であるユダ王国の政策に反対の意を示していたからです。エレミヤが活動していた時代、ユダ王国は、南のエジプト、北のバビロニアという二つの強大な国に挟まれていて、ユダ王国は、南のエジプトに協力して、北から迫ってくるバビロニアの脅威に対抗しようとしていたんですね。
 ただ、エレミヤという人物は、そのようなユダ王国の軍事政策はバビロニアには通用しないと考えていた。それどころか、圧倒的な軍事力を誇るバビロニアは、当分の間、自分たちユダ王国も含め、メソポタミアから地中海沿岸地域にかけて広大な領土を支配することになる……。そのようにエレミヤは、先見の明をもって覚悟していたわけです。そこで、エレミヤはこう考えました。「どうせ支配されてしまうのであれば、無謀な抵抗は止めて、何とかして皆が助かる方法を選ぶべきだ」と。
 「ヨゲンシャ」と言いますと、なんとなく“スピリチュアルなヤバい人たち”というようなイメージを持たれがちではないかと思うんですけれども、少なくとも旧約聖書の「預言者」と呼ばれる人たちはそうではないんですね。旧約聖書の時代に活躍した預言者たちというのは、「宗教的・俯瞰的な観点から社会のあらゆる動きを見極めて、その分析をもとに、“この世における”神の救いへと導く」という、そういう働きを担っていた人たちでした。浮世離れしたような人たちではなく、実に合理的で現実的な考えを持った人たちだったということです。
 彼らに関して語る上で重要になってくるのは、彼ら預言者と呼ばれる者たちの役目が「“この世における”神の救いへと人々を導く」ことだったということです。預言者たちは、決して、観念的な、非現実的なことばっかりを語っていたわけではない。そうではなくて、現実的に人々の命を救おうと知恵を振り絞って考え、それをもとに、王や為政者たちに新しい政策を提言したりしていたわけなんですね。
 今回の「エレミヤ」という預言者に関して言えば、彼は、バビロニアという大国からの脅威に抵抗して多くの犠牲者を出すのではなく、より多くの命を救うべきだと考えていました。けれども、そのようなエレミヤの提言は、残念ながらユダ王国の為政者たちからは退けられてしまったんですね。そして、エレミヤは人々から反対や非難の言葉を浴びせられ、それによって孤独な人生を過ごすことになってしまいます。

人々の救いのために恐れず語り続けよ

 預言者エレミヤは、苦悩のあまり、神に対して背を向け、預言者としての活動を辞めたいと思うようになります。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい」(9節)。……けれども、エレミヤの言葉はそこで終わらなかった。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。」彼は、どれだけ人々から反対され、傷つけられ、罵られても、そんな人々のことを助けたかった。彼らの命を救いたかった。だから、エレミヤは最後まで預言者としての活動を続けたんですね。
 このことは、今日の福音書箇所として選ばれているマタイ福音書10章24節以下のテクストとも呼応しあっています。(もうすぐ20分なので、なるべく簡潔にお話しようと思うんですけれども……)今回の箇所で、皆さんに注目していただきたいのは、26~31節の部分です。26節からの内容を抜粋して読んでみますと、次のようになります。「人々を恐れてはならない。[……]わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。[……]二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 イエス・キリストもまた、旧約聖書の預言者たちと同じように、「“この世における”神の救い」へと人々を導こうと努めました。一点、彼が唯一、旧約の預言者たちと違うのは、彼自身が「神の救い」であったということですけれども、しかし、イエスもやはり、預言者たちと同様に、人々から排斥される存在でありました。イエスだけでなく、彼の意志を継ぐことになる弟子たちもそうですね。彼らが立ち上げていった教会は、ローマ帝国に公認するまでの100数十年の間、絶えず迫害を受けることになります。
 イエスは今日の箇所で、そのことを弟子たちに予告しています。我が弟子であるがゆえに、あなたたちは人々から酷い扱いを受けることになる、と。しかし、その上で、彼らにこう命じているんですね。「人々を恐れず、私の告げたことを公の場で人々に語れ。何故なら、あなたがたのことは髪の毛一本まで神が覚えてくださっているからだ。」
 イエスが弟子たちに教え、弟子たちが人々の前で語った言葉。それは、人々の救いに関することでした。限られた人だけでなく、社会の中で生きるありとあらゆる人たちが、平和に、心健やかに、この世での生活を送ることができる……、そんな世界の実現を彼らは夢見ていた。いや、彼らだけではない。イエスの弟子たちや我々キリスト教会が目指している「救い」のヴィジョンというものは、今回のエレミヤ書にも表されているように、旧約聖書の時代から連綿と受け継がれてきた不変の精神なんですよね。

おわりに

 冒頭でご紹介した、イギリスの『王立救命艇協会』。その創設者であるウィリアム・ヒラリー(1771 - 1847)という人物は、このような言葉を残しています。“With courage, nothing is impossible.”

 これ、日本語に訳すと……ちょっとダサくなります。「勇気があれば、何でもできる。」アントニオ猪木っぽくなっちゃうんですけれども、でも、僕はこの言葉は真理だと思います。放っておいたら消えてしまう生命がある。けれども、誰かが勇気を出せば、その生命が救われる。不可能が可能になる。人類の歴史というのは、不可能を可能にしてきた歴史でもあり、そして、生命を救うための勇気を積み重ねてきた歴史だと、そのように言っても過言ではないかもしれません。
 誰かが勇気を出せば、生命を救うことができる。その「誰か」に、僕らがなれたら良いなと思います。そして、その「誰か」になることを、神は期待してくださっているはずです。“With courage, nothing is impossible.”(勇気があれば、何でもできる)。行くぞー!と声を上げながら、イエスの指し示す救いの道を、これからもご一緒に歩んでまいりたいと願います。

 それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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