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[日記]2021年3月18日(木)

 有り得べき箇所に有り得べき事項がない感覚は、何処か寝相に似ている。身体が収まるべき箇所に収まらない抜殻を埋めるかのように、身体は独自の動きを繰り返してベッドの上を無闇矢鱈に這いずり回る朝は、眦を決して重力に逆らう必要がある。

 生身の身体に着飾る服装には客観的な視点から社会的意義が与えられることに付随して、生身の身体は何ら関することなく歩みを進めるだけでも、大きな意味を持ってしまう。踏み締める硬いアスファルトの上を歩くことに何らかの意味を求められている気がして、背に重みを感じると同時に、歩けば歩くほど取り憑いた意味を振り解けるようにも思え、少し大股で革靴の踵を打ち付けてみる。鳴り響いた硬質な音よりも視覚を重視するあまり、一点を凝視して歩いている姿こそが取り憑かれているように俯瞰でき、考えること全てが一点に収斂されゆく様をただただ感じるのみの一介の人間であることをある意味で頑なに受け入れるしかないと思う。

 凝視した一点は三省堂書店神保町本店の外観であり、古書館が有り得べきはずの階と思わしきひとつの窓である。エスカレーターを無心で上がり、見えてきた棚を時間に縛られながら端から端まで見てゆくと、コンラッド、トルクァート・タッソ、富岡多恵子等が散見されるので、その必要もないが早急に片方の掌に抱え込む動作を行う。握力にて宙に浮いている古書が誇らしげに見えるのは、自らの己惚かもしれぬと造作なく投影する自己の単簡さを嘲笑しながら、『トリストラム・シャンディ』(ローレンス・スターン著 岩波文庫)の上中下の三冊が纏められていた袋をそのまま右手に持ちレジへ向かう。

 代金を支払い外へ出る。社会的意義など堅苦しいことは忘却とは言えずとも、少なからず現在の自分を構成する要素としては紛れもなく矮小化している。数冊購った文庫本の重みが意味から意味を取り去り、“ただそこに存在しているのみ”の状態に新たな意味を加える。意味を求めながら無意味を欲することに意味はあるのだろうか。

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