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リチャード・フライシャー『マンディンゴ』――鏡に入った亀裂

1.四つの象限  

 リチャード・フライシャー監督作『マンディンゴ』(1975)が二つの軸の交錯によって織り上げられていることは見易い。作品の舞台は奴隷制時代のアメリカ南部に据えられ、農園を営むウォーレンとハモンドのマックスウェル父子と彼らをとりまく人々の悲劇が描きだされている。二つの軸とは肌の色(白人/黒人)、性別(男/女)のことだ――登場人物はみな、この二軸の交錯からなる四象限のいずれかに割り当てられ、それぞれに相応しいとされる振る舞いの規範にあるいは従い、あるいは侵犯する。この葛藤が本作のドラマを形作っている。
 上記の四象限に割り当てられ、自らの属する規範の侵犯をとりわけ過激なかたちで実践する特権的な四人の主体が存在する。白人男性のハモンド、白人女性のブランチ、黒人男性のミード、黒人女性のエレンだ。以下では彼らについて順に見ていきたい。
第一に、白人男性のハモンド。白人男性のコードは支配者のそれだ――黒人男性に命令と罰を下し、黒人女性との性交から快楽を得て、妻である白人女性との間に後継ぎとなる白人男性の子をもうけることが求められている。このコードを完璧に体現している父のウォーレンや従兄弟のチャールズと異なり、ハモンドはこのコードに完璧には適応できないでいる。彼はチャールズが農場の使用人(黒人男性)に過酷な罰を与え、黒人女性を快楽のためだと称してベルトで打つのを見て嫌悪感をおぼえる。ミードに対しては温情的に接し、尊敬さえ勝ち得る。さらには妻であるブランチをないがしろにして、代わりに奴隷であるエレンを愛し、妻のように扱う。
 第二に、白人女性のブランチ。白人女性の最大の役割は夫である白人男性との間に後継ぎをもうけることである。その性的な占有権は夫に存する(それゆえ処女として嫁ぐことは決定的に重要である。逆に言えば夫の死後は――奴隷市場でミードの性器を覗きこむドイツ人女性のように――黒人男性と性交を行なってもタブーを免れる)。黒人男性/女性に対しては命令を下すことができるが、それが家の主人である白人男性の意図に背かないという前提のもとにである。チャールズの妹にあたるブランチは、少女時代に彼と近親相姦――強姦された、ということだろう――をしていた。ハモンドは初夜の際、ブランチが処女でないことに気がつく。これがハモンドのブランチへの反発とエレンへの傾倒のきっかけとなっている。こうして無視されたブランチはエレンへの嫉妬を募らせ、ハモンドとの子を孕んだエレンに暴力をふるい、流産させる。さらにはミードに自らとの性交を命じ、彼との間に子をもうけてしまう(この子はハモンドに気づかれるのを恐れた医者に殺される)。
 第三に、黒人男性のミード。黒人男性は白人男性/女性の命令をうけて農場労働に従事し、格闘試合に参加する。また、「血統書つき」の黒人男性は黒人女性との間に子をもうけることが要求される。マンディンゴ、すなわち純血の黒人男性には高い市場価値があるからだ。このコードに最も従順なのが読み書きを習っているところを見つかって悲惨な罰を受けてからは白人に媚びるようになった番頭格のアガメムノンであり、その対極が主人の白人を殺害して逃亡するシセロだが、ミードは彼らのどちらとも異なる――白人の命令にはおおむね従い、他の黒人男性との試合に勝利した彼にハモンドが気配りをみせた際には感謝も示すが、ウォーレンに子をつくった褒美だと2ドルを渡されたとき(その子は少なくとも3000ドルで売りとばされる)には断ってもいる。アガメムノンが白人への従属に、シセロが白人への反発に態度を固定するのに対し、ミードは白人との間の懸隔を絶対的なものとは考えていない。彼はやがて、ブランチに自らと性交するよう命じられ、コードを犯してそれに応じざるを得なくなる。
 第四に、黒人女性のエレン。黒人女性は白人男性に性的に――感情的その他の関係をもつことはタブーである――奉仕するほか、白人女性の身の回りの世話をする。最大の義務は黒人男性との間に子をもうけることである。このコードに従っている典型が農場の黒人女性奴隷、ルクレツィア・ボルジアやビッグ・パールであり、年老いた前者は二十人以上の子をもうけており、若い後者もミードとの間の子を産む(ウォーレンとハモンドからは隠されているが、実はこの二人は同じ親をもつ)。ビッグ・パールとエレンはハモンドとの性交で処女を喪失する点で共通するが、エレンが特異なのは白人男性に面と向かってものを言うことだ。自分の足の障害を見ないふりをする他の女性と異なり、物怖じしないところのあるエレンにハモンドは惹かれ、エレンも彼を愛する。彼女はやがて彼との間の子を妊娠するが、ブランチの手で流産させられる。
作品の冒頭三分の一ほどが経過したあたりでこの四人が初めてそろい、一つの馬車に乗って館に来る場面がある。前部座席左にハモンド、右に彼と結婚したばかりのブランチ、やや低く据えられた後部座席右に買い取られたばかりのミード、左に買い取られたばかりのエレン。斜め後ろを向いて見下すようなブランチのショット、彼女に見つめられているのに気づいて目を伏せるエレン、再びブランチの今度は勝ち誇ったように緩められる口元。フライシャーは無天蓋の馬車――普段の生活空間においては隔離されている白人と黒人がともに狭い空間に押し込められざるを得ない――という装置を的確に用いて、作中の人間関係の雛型を構築してみせる(他のシーンでも馬車は同様の機能を果たしている。前部座席にハモンド、後部座席にエレンが座り、彼女は本来後ろを向いて座るはずの座席に逆向きに座り、ハモンドに身を寄せている。それを屋敷の二階から見下ろすブランチに、ハモンドは振り返ってわずかの間視線を向け、また馬車の操縦に戻る。このシーンでのハモンドとブランチの間の視線の交わし合いは、先のエレンとブランチの間でのそれとアイロニカルに韻を踏む)。
ここまで登場人物の紹介にことよせて言及してきた部分で、既に上映時間の九割ほどが経過している。残りの10分強では雪崩れるようにして彼らの危うい関係が崩壊していくのだが、この点を見ていく前に上で説明してきた部分にいくらかの説明を加えておきたい。

2.鏡に入った亀裂 

 まず確認しておきたいのは、本作に見られる人物関係の様々なレベルでの対応である。ハモンドとブランチの夫婦に対応するのがミードとエレンという組み合わせである(ただしこの二人は作中積極的に結びつくわけではない)。ハモンドはエレンを妊娠させるがこの子はブランチにより流産させられる。ミードはブランチを妊娠させるがこの子はハモンドの存在を考慮して殺される。前者の死は屋敷の二階にあるブランチの部屋から逃げ出したエレンが階段を転げ落ちることで生じ、後者の死はブランチの部屋でもたらされる。ブランチはチャールズと近親相姦を行ない、ミードもまた知らずしてビッグ・パールと近親相姦を行なう。ハモンドにはコードの徹底を求める父ウォーレンが存在し、同じ役割をミードに対して黒人奴隷の統率役であるアガメムノンが果たしている(後述するように、彼ら二人の衝突が作品の劇的な幕切れをかたちづくる)。
 こうした対応を強調するモチーフとして重要な役割を果たしているのが――容易に想像されるように――鏡である。このモチーフと特権的に結びつくのはブランチであり、彼女を映しだす鏡は二箇所に存在する。第一の鏡はハモンドとブランチが初夜を過ごす都会のひと部屋に置かれている。ブランチが処女ではなかった事実、それを問い詰めた際のブランチのヒステリックな反応に怒ったハモンドは部屋を飛び出すが、このシーンでカメラは部屋を出るハモンドと同時に部屋に据えられた鏡、その中でベッドにうつ伏せになって泣きじゃくるブランチを捉えている。この事件はハモンドにとって、それまで好感を持っているに過ぎなかった他家の奴隷であるエレンを買い取る決意をする重要なきっかけとなっている。鏡はここで、ブランチの鏡像としてのエレン――彼女の初体験はハモンドとの性交においてなされたのだ――へとハモンドが関心を向けるきっかけをなしている。
マックスウェル家のブランチの部屋に据えられた第二の鏡もまた、同様の機能を果たしている。ハモンドに無視されたブランチは酒浸りになり、昼間になっても寝間着姿でベッドに転がっている。そこにウォーレンが現れ、恥ずかしくないのかと問い詰める。「自分がどんな格好か鏡でよく見てみろ」Look at yourself in the mirrorと言いながら、ウォーレンはブランチを鏡の前に引きずり出す。次いでウォーレンは同じ部屋にハモンドを呼びつけ、彼にブランチへとルビーの首飾りを手渡させる。この贈り物にブランチは喜び、鏡の前で試着しながらこれで「皆あなたの妻がだれか分かるでしょう」と言う。しかしハモンドはこれと揃いのルビーのイヤリングをエレンに与えており、このことを知ったブランチは激怒する。鏡はここでもブランチとエレンの対称を強調し、ブランチが喜びの中で発した言葉はアイロニカルにハモンドがエレンをこそ妻のように考えている事実を暴き出している。
このルビーのアクセサリーはハモンドとブランチの仲の修復を図ったウォーレンがハモンドにあらかじめ手渡しておいたものだった。「ルビーだ! 白人のレディーはこれに目がないからな」。ルビーがレディーの最高のおともだちだとすれば、紳士がお好きなのは血である。ハモンドはミードを格闘試合に出し、熱狂的に応援する。対戦相手――その名前はルビーならぬトパーズである――の首に食いついて殺し、血まみれで勝利したミードをハモンドは褒め称え、彼を高く売らないか、早く次の試合に出せといった周囲の勧めを断ることで友情を深める。ウォーレンがハモンドへとルビーを手渡すのはこの試合から帰る馬車においてなのである。トパーズの赤い血を媒介としてハモンドとミードは共感を確立する。赤いルビーを媒介としてエレンとブランチは類似を確立し、結果として対立を深める。ここにもまた対応が見てとれる。
フライシャーはこうした、本来対極にあるはずの二者の結びつきという主題をしばしばとりあげてきた。『ヴァイキング』では異母兄弟の二人が一方は王子として、一方は奴隷として育てられ、最後は対決する。『バラバ』では処刑されるイエスの代わりに釈放された悪党バラバが描かれるが、彼はやがてキリスト教に接近し、死に至る。『見えない恐怖』では盲目の女性(カメラに見られる対象だが、自らは見ることができない)が殺人鬼(カメラはその顔を最後近くなるまで映さないが、他人の恐怖の顔を見つめる主体ではある)に狙われるが、前者が星のある茶毛の馬「ダンディ・スター」に乗ることとの対比で後者が白い星のマークの茶色いブーツを履いていることが強調されている。
『鏡の中の犯罪』もまた、こうした主題系に属する作品の一つである。同じキャストが一人二役を演じる、という後の『王子と乞食』でもとられる手法を使い、三人六役で三人の関係と別の役の三人との関係の対称を問題にしたこの作品の、原題はCrack in the Mirrorすなわち「鏡に入った亀裂」である。このタイトルは上に掲げた作品群全体に冠することができるだろう――すなわち異なる存在の間に生じてしまう奇妙な類似、対称ならざる対称とともに、不可避的に二者の間の鏡には亀裂が入り、一方が危機に追い込まれずにはいないのだ。こうした作品群と極めて近い主題を扱いながら『王子と乞食』をともに並べることが憚られるのは、そこでは二者の入れ替わりが最終的に解消され、秩序が再回復されるからだ。『王子と乞食』には亀裂がない――その序盤では二人が大きな鏡に顔を向けて並んでもいたのだった。
『マンディンゴ』は言うまでもなく、鏡に亀裂が入る物語である。しかしまた、それ以上でもある。すなわち本作では、亀裂は世界そのものをあらかじめ貫いているようなものとして存在し、それが鏡に波及し、あるいは鏡から世界へと送り返されるのである。この点について触れながら、以下では作品の結びまで追っていきたい。

3.純潔と純血 

 ハモンドとブランチの初夜の後の口論で、ブランチは「私は純潔だったのよ――あなたまではね!」 I was pure... till you ! と声を荒げる(既に触れたように、これは嘘である)。同じpureという語を、ウォーレンはミードについて用いている。「お前、確実なのか――奴が純血だってのは?」You sure he pure ? 純潔と純血。これら資質こそが白人女性と黒人男性の価値を決定的に定めるのである(ウォーレンは先述した四人が馬車で屋敷に来る場面で「花嫁にマンディンゴか!」と二人を並べて満足を表す)。そこに結びつくモチーフは当然、血(処女喪失に伴うもの、体に流れるもの)だろう。ルビーと血の類比については既に触れた――要は、本作においては白人と黒人が対比されている、と記すだけでは足りないのだ。両者は血の赤色によって媒介され、これが経済と暴力という作品世界を統べる二つの原理を組織しているのである。
 ブランチとミードの性交によって生まれた、純潔からも純血からも対極にある子の誕生(と死)とともに登場人物たちが破局へと向かっていくのは、従って必然でもある。事実を知って怒り狂ったハモンドはまずブランチを毒殺する。次いで彼はミードに湯を沸かすように命じ、銃で撃ってその中に沈める(作品の上映時間のちょうど中ほどでは、試合に出るマンディンゴは肌を硬くする必要がある、と言ってウォーレンがミードに塩風呂につからせるのにハモンドは反発していた。同じモチーフの再出がハモンドとミードの絆の喪失を強調する)。生来の温厚さから白人男性のコードに従いきれずにいたハモンドは、このコードの孕む暴力性をむしろ過剰に体現する存在へと変貌する。
 このとき不意に、アガメムノンがハモンドに銃を向ける。黒人に対する温情を見せていたハモンドが身勝手な怒りをミードにぶつけるとき、白人に追従していたアガメムノンもまた変貌し、主人に銃を向けるのである。この展開の伏線として、塩風呂のシーンに続いて訓練で疲れ切ったミードにアガメムノンが黒人奴隷にふさわしく振舞え、と嫌味を言うシーンがある。「いつになったらお前は自分の肌の色が分かるんだ、ミード?」。これに対するミードの返答は、「あんたがそのクロでございって薄笑いをやめたらな――ハモンド様に対してね」というものである。クライマックスではこの予言が逆の順で、すなわちミードがハモンドと自らとの間の埋めがたい距離に直面した瞬間にアガメムノンが主人に反旗を翻すというかたちで、実現されている。
アガメムノンの反抗に激怒したウォーレンが罵声を浴びせると、アガメムノンは銃をそちらに向け、発砲したのち逃げ出す。ハモンドがウォーレンの死体のそばで座り込むシーンで作品は結ばれる。ハモンドとミード、ブランチとエレン、ウォーレンとアガメムノンが鏡合わせになっていたとして、どのペアからも一方が命を落としたかたちになる。
結論に向かいたい。本作の特異な点はどこにあるのか? おそらくそれは、黒人差別の悲惨さを描き出した、
といった程度のことではない。第一に指摘しておきたいのは、本作における暴力が白人から黒人へのものだけではないことだ。ハモンドがブランチに冷たく振舞うのはブランチが処女ではなかったからだが、そのブランチは少女時代に兄に強姦されている。「あたしはこんな家からも、こんな家族からもぬけだしてやる」、とブランチはチャールズに告げる。彼女もまた、南部の旧家の淀んだ気風の犠牲者なのだ。ブランチはハモンドに受けた冷たい扱いへの憤りと嫉妬をエレンにぶつける。暴力が隠蔽され、転嫁され、新たな暴力を生む連鎖。人種差別も性差別もその一環であり、被害者でない者も、加害者になり得ない者もいないのだ(逃亡奴隷のシセロは逃げる際に少年も含めて白人一家を皆殺しにしている)。
第二に、暴力は経済と再生産という社会の本質的な基盤にあらかじめ組み込まれたものとして描かれている。黒人が卑劣な白人を殺して逃げだせばハッピーエンド(『ジャンゴ 繋がれざる者』)、というわけにはいかないのだ――繋がれざる者などいないのが社会なのだから。そこから離脱して小集団で困難だが自由な生を送る、などといったユートピア幻想(『LOGAN/ローガン』)に対して道は開かれていない。
第三に、本作の最もアイロニカルな点だが、暴力の連鎖の中で個のささやかな善意が漸進的な改善をもたらす可能性さえ疑問に付していることだ。黒人女性奴隷をベルトでひっぱたくサディストのチャールズは、満身創痍で試合に勝利したミードをすぐ次の試合に出すことを語るウォーレンは、間違いなく卑劣だ――そして彼らに反発するハモンドは温かい心の持ち主であり、それ故エレンとミードを惹きつける。しかしこのことを踏まえてなお、ハモンドによる白人男性のコードの侵犯がブランチやエレン、ミードの侵犯を呼び寄せ、増幅し、破局を招いたのは事実である。コードはその定義として社会の存続に資するものとしてある以上、その擁護者の下ではどれほど醜悪な形であっても秩序はある程度保たれる。ハモンドがウォーレンのようであればミードはこき使われて早死にしても射殺はされず、アガメムノンは媚び諂って一生を過ごしても主人を撃って逃亡する必要はなかっただろう。ハモンドの問題は善意を徹底しきれなかったことだと言うことはできるにせよ――彼のエレンへの「愛」についても、ミードとの「絆」についても――ささやかな善意がかえって悪い結果を生む、という事態の意味は重い。
鏡の亀裂が世界の亀裂と照らしあうとは、上に指摘したような意味においてのことだ。登場人物間の鏡像的な関係とそこにもたらされる危機という主題――おそらくヒッチコックに祖型を見出すことができるだろう、この主題自体は決して珍しいものではない――を、フライシャーは本作で社会そのもののもつ暴力性と切り結ばせ、その凄惨さを絶頂にまで高めた。つねにすでに世界のいたるところに存在する亀裂。フライシャーはそこから逃れる術を安易なレトリックで仮構することはせず、ただ真摯にカメラを向け続ける。おそらくその作品から学ぶべきは亀裂を引き受けて生きる意志であり、純潔であることも純血であることも許さない世界の暴力に貫かれてある生をそれでもなお肯定する術に他ならない。


https://hj3s-kzu.hatenablog.com/entry/20040120(ブログ記事、日本語)
https://brightlightsfilm.com/greatest-film-race-ever-filmed-hollywood-richard-fleischers-mandingo/#.YDtBymj7REZ(雑誌記事、英語)
登場人物の理解には多少の差があるが、どちらも本作を性や経済といった社会構造をめぐる問題提起として論じている点で本稿と方向性を共有する。


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