涙は自分とっての見えない声
僕は映画を見るとだいたい泣いてしまう。
しかも結構な量を泣く。
だから見終わった後に、めっちゃ泣いてたね、とよく言われるのだけど、それと同時に、
僕:あのシーンがよくてさ
友:え、あそこで泣いたの?
僕:え、泣けたじゃん
友:あ、そう...?
という涙のすれ違いが少なくない頻度で起きる。
笑いのツボが違うように、涙を流すツボも人それぞれ。単純にそう思っていたのだけれど、この前泣きながら「これは泣けるシーンではない」と自覚してしまったことがあった。
確かに素晴らしいシーンではあるが、涙を誘うにはまだ早いシーン。たぶんお涙シーンはその15分後だった。
でもすでに僕だけがぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしている。なんで涙が出ているのかわからない。でも止めることができない。
その瞬間は、ストーリーよりも役者の表情や映像としての色使い、空気感をダイレクトに直観して、見とれていた状態に近かった。差し迫ってくる作品の"圧"に心が開きっぱなし。ストーリー以上に完成された表現に圧倒されていた、そんな感じだった。
そう気付いた今朝、ちょうどWaseiの鳥井さんの記事が流れてきた。
「ストーリーを追って、表現を気にしない若者たち」に関する話。
ストーリーではなく表現やプロセス、主人公の心の移り変わりや機微にお重きを置いているからこそ、そこに面白さがあるし、毎回期待してしまう。僕は今日に至るまで、日本人は今でもこういった表現やプロセスに意味を見出す国民だと思っていました。
これを読んで、ストーリーと表現に感化される心は別々に存在していいものだと認めてくれた気がして、共感すると共になんだかホッとした。嬉し泣きと悲しみ泣きくらい全く違うものに共鳴して僕は泣いていたのだ。
こうして、ストーリーと表現に対してどちらの涙を流しやすい人間なのかを把握しておくことは結構大きな意味があると思うようになった。きっと次から映画の探し方も見方も変わるだろうし、ひいては小説やアートなど他の芸術作品の楽しみ方も変わるはず。
もっと大きく解釈すると、好きなものを好きだと伝える以上に、嫌いなものを嫌いだと虐げる以上に、涙を流すという行為は自分にとっての大切な価値観がたくさん詰まっている「見えない声」なのだと思う。
涙。普段は全く意識してないものだったけど、いいものだな。
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