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This Is Not note #1 『下北沢駅前劇場に劇団地蔵中毒が立った日』

下北沢駅前劇場に劇団地蔵中毒が立った日を永遠なる無限に忘れないだろう。芝居の内容はいつの日か忘れるだろう。きっと、タイトルだって忘れるだろう。『鉄下駄、おめかし、総本山〜カビも削れば大丈夫〜村の掟・全無視Edition』現に今も書いてみたら微妙に間違えた。多分、忘れるだろう。忘れるんじゃないかな。ま、ちょっとは覚悟しておけ。アー・ユー・オケー?

本当はこの日が俺、いや小劇場演劇の歴史にとって、いや『ヤバイ芝居』にとってどれだけ一大事なのかは

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という雑誌の一項『ヤバイ芝居とはなにか』を読んで頂きたい。と、初めてのnoteもここで終わっていい。

知っている人はマジしつこいなコイツと思うだろう。あらかじめ分かっているさ。それでも人生(これからも)唯一のスマッシュヒットをコスり倒す。興味があれば買って読んで欲しい(もちろん雑誌として最高な)ので出版のエランド・プレス(@errandpress)の直販リンクを貼りたいのにやり方が分からない。Twitterでもなんでもやり方が分からないまま始めるクチで「地蔵中毒!地蔵中毒!地蔵中毒!」とTwitterで喚いていたら「あの」九龍ジョーに原稿依頼されたクチだ(自慢☆自慢)。更に分からないまま「最初は自己紹介みたいなのを書くといいよ」とnoteが言ったから今日はnote記念日。noteを書こうと思ったのも某作家に「Twitterなんて144文字の自動書記だから駄目だよーん。noteでもなんでも長文を書きなよーん」と言われたからだ。人の言いなりに動いてきたらうまくいっているので分からないままに愛のままに我儘に書くことにしたよーん。

話が進まないのでDidion03に書いた内容のダイジェストを柿喰う客の永島敬三みたいな早口で言うと「初めて観た小劇場は1987年に駅前劇場で観たWAHAHA本舗!1991年に同じく駅前劇場で大人計画を観て、完全に小劇場いや『ヤバイ芝居』に狂わされるも北の国へ‘93帰郷!2013年に戻ってきた東京のソフィスティケイテッドされた小劇場界に『ヤバイ芝居』は存在していなかった!バイバイ芝居と途方にくれた時、ヤバいフライヤーが目の前に現れた!そこには地蔵中毒の4文字がああ!(ブオン!)」

そこからは地蔵中毒患者(時にはプッシャー)として、界隈の『ヤバイ芝居』達(プロフィール参照)を観まくっている。このシーンは面白い演劇ばかりで、今のところ幸福だ。

Twitterでもクドクドクドクド愚痴り続けているのだが、地蔵中毒を含めたこの人達、こんなに面白いのにまだそんなに売れていない。今日(2021/2/26)の時点でザ・スズナリ初登場を控える地蔵中毒が売れていない?ああ、いないよ。てか遅いんだよ。トゥー・レイトだよ。30年前の大人計画は旗揚げ3年目で駅前劇場を満杯にしていたのに地蔵中毒は6年目での進出だ。倍の倍の時間をかけて時代はやっと30年前に追いついた。某俳優が言っていた『地蔵以前/地蔵以後』がようやく可視される。何をそんなに焦っているのか。『ヤバイ芝居』がヤバいのはいつでもいつまでも観ていられるモノじゃないから。今ここで観なきゃいけない演劇だから。演劇ってそういうもんだけどさ。間に合った。ギリギリだ。ギリギリ10代でギリギリ20代の松尾スズキを駅前劇場で観た。ギリギリ40代でギリギリ20代の大谷皿屋敷を駅前劇場で観られる。間に合って、本当に良かった。嬉しくて嬉しくて言葉にならない。きゃっきゃ。これが下北沢駅前劇場に劇団地蔵中毒が立った日を忘れない最大の理由。

その日はすぐにやってきた。落ち着かなさ過ぎて1時間も早く小田急線に乗ってしまったので登戸まで行って各停で下北沢に戻る。劇場に入る。と、初めて観た駅前の舞台に立っていた村松利史の姿が。うおおお。更にアガる。うにたもみいちの後ろ姿も見た気がする。うにたもみいち。唐突にお名前を出すが、90s小劇場シーンの重要な評論家としてリスペクトしていた。Twitterを始めた頃に鼻雑技団(地蔵中毒×東京にこにこちゃん×パブロ学級)を悪人会議(人生の意味プロデュース×パラノイア百貨店×大人計画)と重ねて思い出を書いたら、いいねを頂いた。ヤベえ、まだ観ているんだ、こういうの。だからnoteをこうして書いているのはうにたもみいちにこそ『下北沢駅前劇場に劇団地蔵中毒が立った日』を書いて欲しいというのもある。

場内に入るといつもの『地蔵中毒のテーマ』の永遠なる無限なリフレインではなくリラックスした映像が流れている。少しだけお行儀がいい。『地蔵中毒のテーマ』のCD、買おうと思っているうちに欠品になりコロナで物販も無くなった。買える時に買わないと。観られる時に観ておかないと。

やがて映像が関口オーディンまさおの部屋に切り替わる。前説、zoomかあ。地蔵中毒と恋に落ちた瞬間は関口の前説。基本「上演時間の告知」「上演中に音の出る機器を鳴らしてしまった場合に科される制裁」という内容でしかないのに毎回、滅茶苦茶に笑う。常に上演時間は告知されず制裁は過酷だ。今日は「ピーター・アーツのヒザ蹴り」だが「ピンを抜いた手榴弾を渡す」というのが大好きだった。「人生最後に観る演劇」ってパンチラインも最強。また、関口の前説も演技も生で観たい。始まる。

昔の「小劇場あるある」に「大きくなった劇場を使いこなせていないと言われがち」ってのがあった。「間口と芝居が合っていない」とか「声が聞こえない」とか「迫力不足」とか。当たり前だろうに。「小劇場すごろく」という言葉もあって「タイニイ・アリス→シアターグリーン→ザ・スズナリ」みたいに劇場の規模が大きくなっていく過程を指している。大人計画が『ファンキー!』で「駅前劇場、宝島少女が押し寄せましたあ……紀伊國屋ホール、断られましたあ」と本多劇場で言うのが、たまらなくおかしかった。で、地蔵中毒の駅前劇場はまったく問題がなかった。大体は問題だらけの地蔵中毒だけど、問題はなかった。高田馬場ラビネストにしか見えなかった。それじゃ駅前に来た意味ないだろぐらいの勢いで使いこなしていた。が、微かに舞台美術に違和感があった。これ地蔵中毒の劇構造に関わる話なんだけど、大谷皿屋敷が描く世界を俳優達と同じくらいに表現しているのが、大量の大道具・小道具(今回だと「半分に切断されたイルカをラジコンカーに改造したもの」が代表例。等身大できちんと動く。書いている方も読んでいる方も幻覚剤を飲まされた気になる)であって、シンプルに暗幕(しかも光漏れがやたらするやつ)に囲まれたいつもの舞台へ登場させた方が悪夢感が増大な気がする。まあ目には見えない言葉と目に見える道具が意味がないという意味で等価でそれが全てなことにパンキッシュを感じる俺の好みの話です。そういう意味で映像は良かった。クオリティもだけど、映写時の明度が何かビデオショップでの自主上映会みたいで巧く劇的に機能していた。

俳優陣。四天王(関口不在の「大声担当」は佐藤一馬がいっぱいいっぱいにこなす)のスター・東野良平とかませけんた兄さんがきっちり本寸法の地蔵中毒を演じる中で立川がじらが飛び出した。ここ1年ほど、写真を見る度に風貌から何故か元状況劇場の十貫寺梅軒を思い出していた。この日のがじらは伝説の『おちょこの傘持つメリーポピンズ』で主役を演じて「いきなり化けた」梅軒だった。状況劇場を観てはいないのに「だった」てのもあれだが。今までも似た立場を演じていたし、元々、演劇と何かの境界線の極々に佇んでいる人だったけど。アングラの最新形がそこにいた。完全に存在が風景と溶けていく。凄かった。フォーホースウーメンの筆頭は復活のフルサワミオ。この人だけが時間と空間をギアチェンして地蔵の演劇性を担保する。空気の切り裂き方が圧倒的な切り裂き魔、霧吹き魔。おかえりなさい。更に長い不在から戻ってきた鈴木理子は何で戻ってきたかに疑問を持たせない、そもそも何でいなかったかにも疑問を持たせない。ずっといたよね、この人。hocotenは演劇界のオルタナティブである地蔵の中で更にオルタナティブという存在だったのに今回は王道を走る走る。東京喜劇界のプリンス・神谷圭介(客演。別格でした。恐ろしいくらい。客演陣では川舩晃平がまったく地蔵にアダプトしないでいられる間違った清潔感が、最高)と互角に殴りあって青タン作って平然としていた。カッコいい。三葉虫マーチは磯村夬の不在まで埋めた。もう隅から隅まで酷い大谷皿屋敷の台詞を言うだけ。ただ、言う。順番が来たから言う。柄本明も裸足で逃げ出す異常なまでの安定感。

初日だからか駅前劇場だからか観客の方が緊張していた感じもあった。新しい観客が多かった可能性もある。例えば「オーシャンビュータコ部屋」みたいなフレーズへの反応。「イルカが切断された後にフリッパーズ・ギターの曲が流れて、ダンス」みたいなレンジの狭い流れへの反応。共犯者的観客(ここで小野カズマの顔を思い出す偏見)が少ない雰囲気が新鮮だ、そして冷静。

いつもと同じ地蔵中毒だった。ホッとした。ここまでは、駅前劇場までは同じで来られた。同じって、それは変わったところもあるさ。でも去年の5月の人力ネットフリックスで過去作もチェックできたから言えるが、ずっと同じだ。全作品シャッフルして順番に上演してもどれがいつのか分からない筈だ。新作を発表しないでも6年間は持つ尋常じゃない埋蔵量。それでも終演後に発表されたザ・スズナリへの進出も再演ではなく新作で挑んでくる。昔の「小劇場すごろく」なら手堅く最高の自信作を再演するのにしない。再演なんて必要ないのだ。同じなんだから。俺達は変わらないんだから。

地蔵中毒は「瞬間」しか信じていない。地蔵中毒にとって演劇とは「瞬間」の連続でしかなく我々は「瞬間」を観続ける。地蔵中毒の演劇は記憶に残らず、笑った腹筋の痛みだけが残る。身体に刻まれた「瞬間」はやがて脳に中毒症状を引き起こすのかもしれない。何も残さないのかもしれない。無教訓意味なし。全ては砂だ。笑うしかない。

前はそれが怖かった。大谷皿屋敷と地蔵中毒という巨大な才能を持ってしても、いつかの瞬間に燃え尽きてしまうのではないのか。じゃあ今、観なきゃ。今、観て。と、最近は実はしたたかな集団なのでは?って信じようとしている。全てを分かった上で世界をバカにしてきているのでは?公演の後夜祭で松尾スズキに進路相談するのも、ただの冗談。意味なんてどこにもないさ。そう信じようとしている。今んとこ余裕っすよ。地蔵中毒は終わらないって信じたい。パブロ学級もジェット花子もいなくなった。理由は分からないから彼らの分までなんて言えないけど。絶対に忘れない。いなくなった『ヤバイ芝居』達を永遠なる無限に忘れない。下北沢駅前劇場に劇団地蔵中毒が立った日を忘れない。

30年前にザ・スズナリで悪人会議『ふくすけ』を観たことも忘れてはいない。今日、ザ・スズナリに劇団地蔵中毒が立つ。












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