米長哲学と人との向き合い方と運の上げ方

将棋の世界では、有名な「米長哲学」という考え方がある。


これは、かつて最年長で名人位を奪取して、最強の将棋ソフト「ポナンザ」と戦って敗れた故・米長邦雄さんが編み出した「哲学」で、今や将棋界では常識となっている考え方だ。


それはどういうものかというと、


「自分にとって消化試合でも、相手にとって昇降級がかかっている大一番であれば、死力を尽くして相手を負かしにかかれ」、


即ち「自分には重要でなくても、相手の命がかかった場面でこそ全力で向き合え」


というものだ。


将棋(プロ将棋界)の制度については詳しくない方のために、前提となる条件の話をしておくと、将棋界はJリーグのように、ピラミッド構造になって各棋士の「序列」が決まる仕組みになっている。


そして、その「序列」を決める戦い(これを順位戦という)に、毎年棋士は立ち向かっていく。この「序列」は、文字通りプロ棋士の強さを順位で表したもので、1つの順位の差が翌年の昇級や降級に絡む、とても厳しい世界なのだ。


Jリーグのほうが分かりやすいと思うので、これを例に出して説明すると、JリーグはJ1に始まって、J2、J3………と、いくつかのクラスに分かれてシーズンを戦う。その中で、各シーズンで成績下位のチームは自動的に降級となり、降級を免れても、順位によっては「入れ替え戦」という、降級するか残留するかを決める戦いに挑まなくてはならない場合もある。


将棋も同じで、1年間各クラスに分かれて順位戦を戦い、上位数名は昇級、下位数名は降級、となる制度になっていて、順位1つの差で首の皮一枚繋がるかどうか、ということが決まってくる、シビアな世界になっているのだ。


そして、問題は1年を通して戦う中で、自分が昇級にも降級にも関係ない状態になったときに、昇級や降級が絡む相手と戦うことになった場合だ。


例えば、1年かけて10戦するとして、8戦終わったときの成績が4勝4敗。そして9戦目で戦う相手が8戦全勝(あるいは8戦全敗)という状態で、こちらが勝てば、自分は昇降級は関係ないが、相手は自力での昇級がかなり厳しくなる、あるいは全敗しているときは、その結果によっては降級してしまうこともあり得る。


さて、問題はこういうときに、将棋のような「一対一」で戦っているときだと、人情が働いてしまうということだ。


相手が全勝しているときだと、「ここで自分が負けて、相手に花をもたせてあげよう」、あるいは、相手が降級するおそれがあれば、「ここで相手を勝たせてあげよう」という心理が働いてしまうことだって、あるだろう。


しかし、米長邦雄曰く、そういう状態にあるときこそ、「自分が死力を尽くして」、相手を徹底的に負かしにかかるのが勝負の本質である、というのだ。


米長邦雄によれば、こういう状況に出くわしたときに、「どのように向き合いか」で、その後の自分の運やツキが決まってしまう、ということだ。

ここで、自分が全力を尽くして勝ちに行く、情け容赦せずに勝負に立ち向かう、という「姿勢」を貫くことで、たとえその勝負に負けたとしても(相手が昇級したり、降級を免れたりしても)、その後の勝負でツキや運が自分に回ってくる、というわけで、将棋という「勝負」の世界で物事を考えたときには、なかなか納得のいくものではないかと思う。

(ちなみに米長邦雄は、若いときに実際にこの状況を経験しており、降級がかかっている相手の「首を斬った」ことがある。実際は、その対局を前にして「自分が負けるべきなのか」ということを問うたようだが改心して、見事勝ちきった。その時の様子を運命の神様が見ていたのかどうか分からないが、結局米長はその後、現在でも破られていない「最高齢での名人位奪取」という実績を残している)


さて、この米長哲学は僕も幼い頃に本で読んだか何かで知って感銘を受け、頭の片隅にしまって生きてきたのだが、最近思うのは、この「米長哲学」は普段の生活でどこまで通用するのか?ということだ。


というのも、「情けは人のためならず」という諺があるように、「人に情けをかけると、それは回り回って自分に戻ってくる」という考え方も、僕たち日本人は無意識のうちに持っている。そしてこの「情けは人のためならず」というのは、ここで紹介した「米長哲学」とは相反する考え方だ。


つまり、「相手に情けをかけると、その後自分に巡ってくるツキや運がなくなってしまうから、情け容赦なく立ち向かえ」というのが、勝負師米長が提唱した教えであり、「相手に情けをかけると、それは回り回って自分に返ってくるから、惜しみなく情けはかけよ」というのが、昔からある諺の教えなのだ。


この相反する考え方を天秤にかけたときに、どちらが正しいのか。


これは、現時点での僕の結論だが、実はこの2つ、そもそも想定しているシチュエーション(というか前提)が違っているのではないか、と思う。



このことを説明するためには、「自力」と「他力」という、2つの考え方を引っ張り出してこないといけない。


よく、僕たちは「運」と「実力」という2つのファクターを使う。「運も実力のうち」だとか、「今回は運がなかった」とか、「実力があったから志望校に進学できた」とか、そういう類の言い回しや考え方は、僕たちはごくごく一般的に、もはや無意識レベルで取り組んでいることではないかと思う。


でも、この「運」と「実力」という考え方は、どうも僕たちの身の回りを正確に捉えるには、不十分ではないかと思う。だって、「運も実力のうち」なんて言葉すらあるけれど、それだったら運と実力はダブる部分があることになってしまうし、そもそも運なんて、生まれる星の元が違うだけで、生来的に人それぞれ、持っている量や強さが違ってくるものではないか。


そこで、この「運」「実力」に変わるファクターとして、「自力」と「他力」の2つを考えてみたい。


これも将棋のたとえとなってしまって恐縮だが、将棋(や、プロスポーツなど)ではよく、この2つの言葉は用いられる。


将棋の順位戦で言うと、毎年、昇級ラインは全勝、最低でも負け数は1回といったところで、それ以上順位戦で黒星が付いてしまうと、その年の昇級は絶望的になってしまう。


が、順位戦は文字通り「順位1つの差(例えば、1位と2位の差)がものすごく価値がある」戦いで、どれだけ成績が良くても、自分の順位が下位であれば、それだけで(同じ成績でも順位の差で)昇級ができない、ということが、ままある。


こういうときに、他の順位戦参加者の成績と順位が事細かく絡み合って、昇級(あるいは降級)条件が色々異なってくるのだけれど、大まかにわけると、「自分が勝てば問答無用で昇級」「自分が勝てば必ず降級回避」という状況が「自力」で、「自分が勝った上で、他の相手の成績次第で昇級できるかどうかが決まる」、「自分が勝った上で、他の相手の成績次第で降級を回避できる」という状況が「他力」だ。


まあなんのことはない、「自分の力だけで望む結果を得られる」のが「自力」という状態で、「自分の力だけでは望む結果を得られない」のが「他力」状態だ。



ここで問題になってくるのは、自力であれ他力であれ、本人に必要なのはまず「目先の戦いで結果を残す」ことである。順位戦であれば即ち、「目先の戦いに勝つ」ことだ。自力の場合、それに勝てば文句はない。他力の場合、最低限自分の勝利が必要で、あとは「人事を尽くして天命を待つ」、相手の結果次第で自分がどうなるかが決まる。そこで昇級できれば、ある意味「運があった」と言えるし、昇級できなければ「運がなかった」ということになろう。


で、ここで大事なのは、あくまで「他力というのは自力を尽くした後で働いてもらうもの」であって、よく使われる「他力本願」というのは、そもそも自分でできることを全くしないで、他力に全部頼る、という状態だから、勝負の世界で考えると、救いようがないのである。


この、勝負の世界の考え方をそのまま日常社会にどれだけ転用できるか、という問題はあるけれど、それでも、世の中を見ていて、「自分が調べられることを調べない」「自分が最低限取り組めることに取り組まない」まま、人の力を借りよう、上手く利用しよう、と考えている輩が多すぎるのだ。


こんな、「他力本願」の状態では、どんな「他力」も働かないに決まっている。


「米長哲学」の世界ですら、立ち向かうべきは、「必死で勝ちにくる」相手であって、そもそもこの哲学は、昇降級に関係ない相手に向き合うためのものではない。


相手が死力を尽くすからこそ、それに対して、自分には直接関係ない「消化試合」の戦いであっても、自分のできることを尽くして立ち向かう、というのがこの哲学のエッセンスであって、相手が「自力」状態であろうと、「他力」状態であろうと、(大袈裟かもしれないが)命がかかっている状態に、こちらも真剣にぶつかっていくのだ。



これに対して、「情けはひとのためならず」というのは、そもそも相手が自力でも他力でもない状態において、こちらがちょっとした人情や義理で何かをする、というニュアンスが、どこか言外に含まれていると思う(というかそもそも、日常生活で、相手の首がかかっている状態なんてそうそう出くわさない)。


この「情けはひとのためならず」というのは、相手がちょっと困っているとか不便をしている、というときに、こちらが「遠慮せずに情けをかけよ」という意味合いが強いと思う(というか、実際の生活ではそういう場合が十中八九だろう)から、そもそも米長哲学が想定しているものと、前提の条件が異なっているのではないか。


翻って言えば、日常生活でも仕事の話だったり、お金の話だったりになったときには、おいそれと「情け」をかけるものではない、と思う。というのも、仕事やお金が絡んでいる、ということは、相手にとっては生死を分かつ局面であることも多いわけで、そこを温情で対応してしまうと、それこそ今後の自分の人生のツキや運がどうなってしまうかは分からないからだ。


よく、独立したものの全く仕事がなくて、知り合いのツテで仕事をさせてもらいながら食いつないだ………というエピソードがあるが、こういう話自体を否定するものではないけれど、たとえ「知り合いだから」といって、その仕事を「情け」で振っているわけではないだろうし、「情け」でザルチェックになっているわけではないだろう。そこにいるのは確かに「首がかかった相手」がいるわけなのだが、それに対して向き合うべき姿勢は、あくまでドライに、真剣に向き合う、というものではないだろうか。



そういう意味では、僕は今まで、人に「優しく」し過ぎてしまったように思う。それは、ちょっとした日常のことであっても、相手の人生がかかっているような状態においても、だ。


しかしこれからは、自分の人生の「運」と「ツキ」を考えた上で、ドライに、冷徹に割り切って対応することも増やさないといけないだろうな、と、ここ数年の人生を振り返って思うのだった。


人生は何事も、真剣に向き合うから楽しいし、運も味方してくれるようになるのだ。そもそも、人事を尽くさずして、天命を待つことなどあり得ない、ということを、僕自身も今一度、旨に刻んでおきたい。


今回紹介した「米長哲学」について、詳しく学べる本はこちら。





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