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『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』

母が一般病棟に移ってから、また血管造影の検査をした。

今回、強行でオペした箇所は、クリップが不十分なので

もう一度、アタマを開くオペをすることになった。

それから、未破裂の脳動脈瘤がいくつかあって

それも同時にやることが決まった。

母には、もう嘘はつけないので

本当はくも膜下出血だと言うことを伝えた。

「私はもう死ぬの?」と母が言うので

「大丈夫。もう、一度目の手術が無事に済んだのだから、次も大丈夫だよ。
安心して。」と答えた。

少し、ショックはあったようだが

さすが元極道の妻。覚悟が決まると
不安そうな表情も全くなかった。


と、ここで、少し話しが変わる。


母の付き添いは、朝から夕方までが妹、

お昼3時頃から、深夜までが僕という役割分担をすることにした。

僕と妹は、同じ「木曜舎」という

喫茶、雑貨、BARなど数店舗ある人気店で働いていた。

僕はBAR、妹は雑貨店で働いていたので、マスターに事情を話し

いつ、仕事に復帰できるか、まったくわからないので、二人とも退職します。と、いう意を伝えた。

僕は約6年、妹は10年、お世話になった木曜舎を辞めることになった。


あるとき、廊下のベンチに座っていると

ひとりの怖モテのオッさんが声をかけてきた。

「もしかして、おめぇ やっちゃんじゃねぇか?」

「はい。ヤスユキですが、どなたでしょうか?」

と答えた。

「小幡だよ。姐さんどうした?」


その昔、父がまだ現役の頃

よく、富津の竹岡やら、湊(上総湊)に家族で出かけた。

小幡組(小幡総業)という、地元ヤクザの家に行った。

もちろん、まだ幼い僕にはヤクザとか、カタギだとかわからないが

おそらく、父と小幡組長は"外兄弟"だったのだと思う。 

※ 外兄弟とは、違う組織だが、兄弟の盃を交わすこと。

当時の木更津、富津、南房総には

一本独鈷(いっぽんどっこ)でやってるヤクザ組織しかなかった。

父は、稲川会 山田一家 早川組 中村組組長として
富津にシマを持つことになり、横浜から富津に流れた。

近隣のヤクザ組織とは、かなり交友関係を持っていた。

そのひとつが、同じ富津にシマを持つ
小幡組だ。

幼い頃の記憶だが、小幡に行くと
庭でよくバーベキューをやった覚えがある。

もちろん、小幡組長 、弟、若い衆が
我が家に来ることも多々あった。

僕は、坊ちゃん 坊ちゃん、と可愛がられた。


声をかけてきたのは、小幡組長の弟だった。

姐さんどうした?

母はくも膜下出血で手術が終わったところです。

と、答えると

うちのアニキは、脳梗塞だよ。

と、言って指を指すと、母のとなりの部屋だった。

なんで、同じときに、くも膜下出血と
脳梗塞で隣同士になるのだ。。。

オレはな、小ちゃいとき、やっちゃんとよく遊んだんだぞ。覚えてるか?

本当は覚えていたが、なんとなくは…
と、答えておいた。

数日後、小幡組長は、脳外科のB病棟に移り、

母はA病棟に移った。

その前に、何気なく覗いて見たら
部屋中が胡蝶蘭だらけだった。

言い方は良くないのだが、

回復可能な患者は、A病棟に行き

無理な患者はB病棟から、施設などに行くことが多い。

※ 実は、脳外科に、木曜舎 Le Jazzの常連看護師さんがいて、そのことを聞いた。

母は、となりに小幡組長がいるのを
気づいていたらしい。

とりあえず、病棟が変わって、小幡組長 
弟とも顔を合わすことはなくなった。


そして、いよいよ 二度目のオペが近づく。

つづく

木更津市内 江川海岸。今はもう、この電信柱はない。

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