献身への抵抗
感情の労働は、疲れることだ。
今、学校へ行きたくない子ども達の居場所支援をしているのだけれど。
日々感情を酷使して、身を削って働いてる。
と、捉えている。
なぜなら私は、心理や福祉や教育を専門で勉強したことがないからだ。
と、捉えている。
学問の鎧も、資格の武器もないまま、素っ裸で勝負している。
と、捉えている。
理論も方法もこの世界の言葉遣いも、何も知らないで始まって、ついにこんなに遠いところまで辿り着いてしまった。
いろいろなことを抜きにして、ひとりの人間として、子ども達に向き合ってきただけの結果だ。
このことだけは、言い切れる部分なのだけれど。
今一緒に働いているメンバーは、心理士や社会福祉士さんたちだ。
彼らに教わったことはたくさんある。
例えば、物事は、それを自分がどう捉えるか、ということ。
学校に行けないことを、子ども達がどう意味付けるのか。
何事も、意味づけなのだと。
だけど彼らだって、心理士や社会福祉士だから、そんなことを話すのではないのだった。
彼らがそれぞれ、そういう人間だということに過ぎなかった。
私は今、献身への抵抗と闘っている。
今の仕事は献身的でなければならない。
それは事実。
だけど、献身がイコール身を削ること、健康を失うこと、割りに合わないこと、こんなに身も心も疲れる仕事が、私の天職なはずがない、続けられらはずがない。
こんな図式で、捉えている。
しかし私は、この活動をやめたいと思わないし、もっと知りたい、もっと上手くできるようになりたいと感じている。
何事も意味づけなのだとしたら。
献身的であることや、他に尽くすことを、アンパンマンのように自分の顔を削って手渡すことではなく。
じゃあ他にどう意味付けられるのか…
答えが見つかったら、またこの続きが書けるのだと思う。
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