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SNSにまつわる自己否定のアラカルトと、少しの希望

■すごい人が近くにいる苦痛

今のSNSアカウントを作ったのは2年ほど前だが、SNS自体は大学生時代(かれこれ10年前)から始めていた。大学生のころは抵抗なくプライベートな内容や私的で詩的な愚痴を書き連ねたし、自撮りもたくさん投稿した。投稿数はかなり多かったと思う。多分、周囲から見たらメンヘラ。だった。

私自身はたいしたフォロワー数を擁していなかったけれど、今インフルエンサーと呼ばれるすごい人たち……あの人やその人と相互フォローがつながっていた。ちなみに、当時の私は彼らが何をしていて、何者なのかあまりわかっていなかった。フォローされたからフォローし返した程度の感覚だったと思う。

それらを全部、全部消してしまった。数年前のことだ。忙しすぎて何も投稿できないし、自分の本名とリンクしてしまっていることや、痛々しい過去がそのまま残っていることも、煩わしかった。

今更になって消してしまったことを少し残念に思う私と、影響力にあやかりたい卑しさを冷笑する私と、どうせ私自身はたいして面白い人間ではないのだから結局無視されていたよ、と首を振る私がいる。

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リセットして2回めのSNS運用、私はそれなりに賢くなっている。何者でもない自分を理解しているから。あるいは、私生活を見世物にして得るフォロワーは後々重荷になる経験をしているから。生ぬるく、程よい距離感で狭い世界を構築することが優先される。

それでも、すごい人は眼前に現れる。だいたいすごい人たちはスタイルを変えていないし、アイコンも変わらないから、すぐに認識できる。リツイートやシェアは、心の準備をしていない私にその人たちを撃ちこんでくる。

そのたびに、私はその人たちと自分を比べてしまう。「他人と自分を比べたって意味がないよ」って言葉は耳が腐るほど聞いてきたけれど、人間は意味がないことをしないようにプログラミングされていない。

私よりもずっと昔から変わらず何かを継続してきた人。ずっと前から何をやりたいか知っている人。私よりも何かを別の視点から見たり発見したりすることに情熱を燃やせる人。楽しめる人。

そういう人々を、才能があるとか優秀とか私は思わない。多分彼らは続けているだけ。続けていれば、着想力もスキルも増える。それが才能と言えばそうだけれど、本当は私だってできるはずなんだよ。というか誰だってできることだと思う。今日したことを、明日もする。その積み重ねでしょう?

すごい人たちは、私がなれなかった私だ。その痛い事実をSNSは見せつけてくる。フォローしなければいいって?わかっているよ、もうミュートしている。でも、メガホンに斜線が引かれたマークを見るたびに胸が痛くなる。彼らが積み重ねてきた努力を、私は認められないの。

■公開ボタンが押せない

すごい人を頑なに拒んで作った箱庭の中で、居心地の良さを作り上げようと思っていた。noteやInstagramを、どこまでも私的な、素人らしい使い方で楽しもうとする。けれど、私はその私を箱庭の外から観察してしまう。

「つまらない文章だね、それ公開して何か意味があるの」、「その写真、全然きれいじゃないよ」。いいの、私はプロじゃないんだから……そう言い返そうとして、ハッとする。プロじゃない?

文章を書いてお金をもらい始めたのは、2017年。しかも、編集や執筆のイロハも学ばず、クラウドソーシングサイトにつかまり歩きをしながら無茶苦茶な仕事をなんとかつなぎ、今ようやく、自分が自分の名で書いたものを重ねはじめられている。最初のころは「ライター」と名乗って必死に仕事を探したくせに、今は「ライター」と名乗るのがおこがましくて、どこかびくびくしている。

その要因には、先に述べた、すごい人たちの存在がある。発信力を持つ書き手の文章の素晴らしさ。読みやすさだけではない。面白さ、メッセージの伝わり方、写真や動画とのバランス感。読者をしっかりと知っている。よく「読者を意識して」という文言を聞くが、上手い人の文章は、意識なんて漠然としたレベルではないのだ。そこにいる読者が明確に見えているし、数時間お茶でもしただろうくらいの理解度で落とし込んでいる。

そういう人たちは、これがまたnoteやInstagram、Twitterでもその細かさを発揮する。なんてことない日記のような投稿の一つひとつが、その人の積み重ねを反映してギラリと輝いてしまうのだ。プロって、そういうものだと思う。

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ああ、私なんて。

無視しても意識のなかに食い込む、それらの素晴らしい輝きを思い起こすたびに、私は重たいため息をついていた。

そうして、とうとう石になってしまった。スマートフォンの投稿ボタンに指をかけたまま、動けない。結局そうやって、何個も何個も下書きがたまり、生理の周期と共に一括消去された。

■仕事の文章すら書けない、もう

この石化時代の合間にも、仕事の文章は継続して書いてきた。それこそ、私が信じてきた、"誰だって続ければすごい人になる理論”に基づくならば、1ミクロンずつすごい人に向かって成長していたはずだ。

私は、依頼していただいたものは何でも書く。何が求められているんだろうと一生懸命に考えて、納得するまであきらめない。時に自分では不相応だと感じながらも、どうにかここまで応えてきたつもりだ。

でも、ごめんなさい、もしもこれを読んでいる人で、私に仕事をくださっている人がいるのだとしたら、本当に申し訳ない。先に謝ったうえで言うけれど、本当はこの方法で仕事をしていてはダメだって、途中から気付いていました。気付いているんです。

おそらく私は「妥当なもの」は書けても、「期待以上のもの」は書けない。もっと情熱的にその領域を追う人が書けば、もっと面白いものになるだろう。あるいは、こういう切り口のほうが良いと声をあげるのだろう。私は文章のパズルを美しく整えることよりも上のステップに、登れない。このままでは。

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SNSのタイムラインを見ていると、予想外の活動や実績を報告し、笑う姿を目にする。みな、自分の引き当てた出会いや努力を信じて進んでいる。フリーランスはそれらの全てを収入にできる働き方だというのに、私はそうやって高揚できない。

私は、いよいよ仕事の文章すら息苦しくて書けなくなってきた。私が書いていいんだろうか。もっと良い答えがあるんじゃないだろうか。疑問が疑問を呼び、文章を書きあげては消しての繰り返し。

色々な言葉でこの状況を言語化してみたり、解決するためにもがいたりしてみたのだけれど、心のシャベルが「もっと根本的な問題が」とひたすら底へ底へと穴を掘るものだから、終わりは見えなかった。

■ひとつの仕事とライター交流会

そんな折、ある仕事をいただいた。

誰かの言葉をわかりやすくまとめる仕事を続けていた自分に舞い込んだその仕事は、どういうわけか私の言葉を求めていた。バカみたいな話だが、この案件に手を付ける前、私はレコーダーを探してから戸惑っていた。「そうか、音源ないんだ」と。

私は、何を思い、何を考えているんだろう。テーマを通じて、私は私と改めて向き合っていた。誰も言っていないことを断言するのは怖い。批判されたくない。でも、伝えなければ。私が何を考えているか。

考えは根拠がなければ薄い。経験がなければその言葉には説得力がない。だから、どこまでも細かく根拠を探したし、私が出せる説得力を自分の全経験を振り絞って調理した。今の私ができる、全力だ。

それが意外と楽しかった。あれ? 楽しい! 私の納得するレベルは非常に高く、未熟なスキルでは到底叶えられっこないのだが、それでも指先をなんとか届かせようとしながら紡ぐ自分の言葉は、なんだか愛おしく思えた。

何度も何度も構成を変え、何通りもの読者のコメントを考え、〆切直前まで悩み続けた。クライアントに原稿を送信するとき、冷や汗が噴き出た。

送信ボタンをクリックして、私の呪いが解けた。

っていうかさあ、結局は出すしかないんだよバアカ。
自分が何を思っているか、伝えることから逃げるな。
すごい人になれなかった自分から逃げるな。

そして先日、道内初の開催となったノオト様主催の#ライター交流会で、二部の司会進行をさせていただいた。道内ライターの働き方についてトークセッションを行うと聞いたとき、私なんかが人前に出ていいのだろうかと内心びくびくしていたが、当日は楽しめた。

リアルタイムで進む会話をどのように編集するか、時間内で考えながら集中して言葉を紡ぐことに、高揚したのだ。

私よりも適任な人はいただろう。けれど、私がつかんだ機会を心から楽しんで、やり遂げた。会場にいる方にも満足いただけたようだった。だから、いい。

自分が何に高揚するのかも、ほんの少しだがつかめた気がする。だからと言ってどういう仕事ができるか、どういう生き方ができるかは、まだ語れないけれど。

■その後、改めて読んだひとつの過去

最近、前より気軽にSNSに投稿できるようになった。少しばかり本音が増えている。noteもようやく、公開ボタンが押せそうだ。多分、この投稿がその始まりになるんだと思う。

そう、noteを再開しようと思って、ひとつ読み返した文章がある。

私が衝動的に書いて、唯一かな……多くの方に届いた記事なのではないかと思う。ほぼ何も考えず投稿したものだった。どうか少しでも未来が変わってほしい、社会の呪いを解く魔法のひとかけらになってほしいと、切迫した想いで公開したものだ。

あの時の衝動。本音しか出せなかった。あの時の。

あれは今思えば自分のネガティブな経験と、それを経験した自分しか伝えられないことがあるという確信から生まれていた。

経験と、それに伴う確信。自分が伝えられること。高揚。そういうものをつかめる自分でいるために、何ができるだろう。ついこの前まで石になっていた私は間違えている。それが分かっただけ、十分な収穫のある一難だった。

■未来の私へ向けて、覚書

私はとても考えたがりだ。
私は残念ながらポジティブではない。
経験をもとに戦う意志を捨てるな。
本音で語ることをやめるな。
私を生かせるのは、私を信じられる私のみだ。


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宿木雪樹

答えのない考え事におぼれがちな人。お茶が大好き。

エッセイ

日常のことを綴ったもの。毎日投稿したいなって昔は頑張ってたんだけど、無理だった。3日坊主。3日投稿して2日休む。もっと休む。いつのまにかやめてる。
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コメント3件

”私がつかんだ機会を心から楽しんで”

でいいとおもうんですよね
ありがとう、赤坂さん。なんかめちゃめちゃ救われてます。
こちらこそ!
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