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第51代横綱・玉の海の没後50年記念「玉の海展」と、宿願だった天桂院への墓参

今年は故第51代横綱・玉の海(大関までは玉乃島)の没後50年である。メモリアルイヤーを記念して、玉の海の故郷である「蒲郡市博物館」で「玉の海展」が開催されることになった(10/8までの開催)。自分は開催を全く知らなかったが、Twitterで玉鷲関(横綱玉の海が在籍していた片男波部屋の後輩)が訪問記録をアップして気がついた。

 会場は平日なのに地元民で大混雑。受付でコロナ感染対策で記帳すると「東京から来てくれた」「ごゆっくり」と感謝される。会場は100坪くらいの広さだったが、オール一色「玉の海」。そして来場客の会話から、いかに郷里の英雄を蒲郡の方々が今でも慕い誇っていることがよくわかった。中には玉の海と少年時代に相撲や柔道を競っていた方もいて、来場者に少年時代の谷口正夫(玉の海)がいかに強くなったか、強かったかを力説していた。尚、会場内は撮影禁止。 1️⃣横綱・玉の海が愛用していた物たち。座布団、明け荷、締め込み、化粧廻し、扇子(母に献呈)、名入れタオル、名入れ茶碗、将棋駒、ボーリングユニフォーム(ボーリングが趣味だった)。2️⃣在りしの栄光を称える品々。横綱推挙状、勲四等瑞宝章叙勲の書状、賜杯拝戴の表彰状、手形、トロフィー、カップ、雑誌「相撲」バックナンバー、「あゝ横綱玉の海」(ドキュメンタリー浪曲)、取組DVD、書籍(「君は横綱玉の海を覚えているか?」)。3️⃣生前の記憶と写真。胸像、横綱の髷(葬儀の僧侶→母)、玉宝院至道真海日正居士(戒名)、同級生を描いたスケッチ、玉の海・鳳凰・和晃(蒲郡三人衆)三人立ち写真、角界入りで世話になった河原照夫先生(蒲郡中学の先生)との写真、その他写真(生誕100日、中学在学、地元、入門前後、関取出世、大鵬とのツーショット、銭湯♨️でふざける姿、名人芸だったギターを弾く姿)。

 その後に玉の海の墓参り。蒲郡の龍台山天桂院に墓はある。いつか来たいと思っていた。お寺で墓参の方に墓の在りかを尋ねると、高台を指す。「今日は何かあったのですか? いつもは誰も来ないのに今日は次々と(玉の海のお墓に)来る」と訊かれて、博物館で「玉の海展」があったことを伝える。お墓は見晴らしの良い場所にある。墓石は他と比べて一際大きい。10月11日には同級生による供養がある告知あり。直ぐそばを新幹線が通る。新幹線が通過する音を聞きながら、墓に眠る玉の海は両国や蔵前の国技館に思いを馳せていたのだろうか。

 自分は北玉時代の横綱・玉の海が死ぬほど好きだった。右四つが得意で、特に吊り出しは惚れ惚れするほど見事だった。同じ吊り出しでも、同時代の陸奥嵐や若浪は起重機のように引っこ抜いて吊ったが、玉の海は腹に乗せて相手を吊った。晩年の大鵬やライバルの北の富士との千秋楽決戦では、小学生なのに脳卒中を起こしそうなくらいブルブル震えて緊張していた。責任感の強い人だったので、一門の大先輩である大鵬の引退相撲に出るために、盲腸炎を薬で散らして務めたことが仇になった。お役目を終えて虎ノ門病院に入院。しかし盲腸炎の手術後に、肺血栓を起こした。その結果として1971年10月11日に、齢27歳の横綱として絶頂期に急逝した。当時の医療技術では治せない症状だったそうだ。まさに悲劇の横綱であった。歴代横綱は土俵入りで不知火型を選ぶと不運になるというジンクスがあった。不知火型ゆえの災難だったかとも考えたものだった。

 その日は雨が降っていた。小学校6年生の自分は、家に帰って「玉の海急逝」のニュースを聞いて茫然自失だった。あまりのショックに、かえって涙さえ出なかった。ライバル北の富士がスポーツ新聞記者から「玉の海が亡くなったことをご存知ですか?」と聞かれて、最初は師匠の片男波親方(玉乃海)のことだと思ったそうだ。しかし新聞記者がそうでないことを告げると「嘘だろう?」とまるで信じなかったそうだ。しかし事実であったことを理解すると、北の富士は「シマちゃーん!」と叫んで号泣したそうだ。いつもその話を思い出す度に、北の富士と玉の海のお互いを大事に想う気持ちに目が潤む。北の富士は翌場所こそ一人横綱の責任を果たして優勝した。しかしライバル玉の海を失って、どこか気が抜けたようになった。本来であれば北の富士と玉の海が切磋琢磨して、それぞれ20回ずつくらいは優勝回数を重ねたのではないだろうか。結局のところ、北の富士は一人横綱で天下のはずが、10回しか優勝できなかった。


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