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「天国のかぎを授けよう」カトリックとプロテスタント解釈の差

8/22の尾久キリスト教会の高橋武夫先生の説教のテーマはマタイ伝第16章17〜19節「この岩の上の教会」。冒頭はコロナ禍の暗い世相を晴らすため、落語ネタで入る。「人生80年、口も鼻も一つしかないが、眼は二つあるので大事に使おう」と眼帯をして片目づつ使う。50歳になって、反対の眼に眼帯を移すと、「新しい眼はさすがによく見える。しかし誰も知らない人ばかり」。
 さて本筋に戻ると、ここで扱った節は聖書の分岐点とも言われ、さらにカトリックとプロテスタントで論争になった箇所。ここでイエスは自らに訪れる受難を匂わし、さらに教会の建立を宣言する。当時の教会はエクレシアと呼ばれ、イエスの死後50日後に始まった。そしてシモンは漁師時代の名前で、後の使徒ペテロ。カトリックはペテロを初代ローマ法王と位置付ける。その根拠がここに書いてある「天国のかぎを授けよう」である。ペテロを天国の管理者と看做した。これに対してプロテスタントは、信仰告白全般に対しての神の赦しを意味することであって、ペテロ個人に対する権限の全面委譲ではないとする。せいぜいが教会のマネジメントの委嘱という見方が限界。それを記したのが、ヨハネ伝20章22節~23節「聖霊を受けよ」である。
 ローマ法皇の無謬性という見解は、戦後日本の天皇陛下の人間宣言などと併せて考えれば、非常に無理がある。聖書の書いてある通りに解釈するというのは、原理主義に他ならない。例えばマタイ伝27章50節~53節には、イエスの死後に死した聖徒が復活すると書かれている。そしてイエスの復活後に死した聖徒たちはエルサレムに入ったとある。コリント人への第一の手紙第15章6節の記述によれば、その数は500人以上にも及ぶとある。ホラー小説まがいの記述で、明らかに時間的に矛盾する記述が前後している箇所もある。元はと言えばキリスト教とイスラム教も、教会で同居するほど近い存在だった。その仲を引き裂いたのは16〜16世紀の原理主義者たちだった。「聖書は膝を折って読む」祈りと共に読む姿勢こそが大事なのである。

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