中国の歴史 7(最終巻)

 イギリスは清へアヘンを輸出。それまで輸出ばかりしていた清は一転して輸入国になる。
 アヘンを輸入することで、銀は他国に流れる一方になった。それ以上に問題だったのは、アヘン中毒によって心身を壊される者が続出したことだ。

 政府のアヘンに対する態度は二つあった。完全に禁止せよとする厳禁論と、厳禁は現実的でないから規制するに止めようとする弛禁論である。 当初は弛禁論が優せいだったが、最後にとられたのは厳禁論だ。実施にあたったのは林則徐である。

 林則徐はアヘン取締のため、特別に設けられた欽差大臣に就任。アヘンを売りつけてくるイギリスに対しても真っ向から反駁し、違法に持ち込まれていたアヘンを取り上げる。 アヘンの性質を確かめると、これを分解して無毒にして海に流すことで完璧に消し去った。

 林則徐の手法ではいずれ、アヘンの禁止は実現してしまう。アヘン貿易によって儲けていたイギリスは焦り、武力を振りかざすようになる。
 イギリスに脅された清は林則徐を左遷。イギリスに迎合する人物を欽差大臣に任命するも、イギリスはもはや引き返す気はなかった。ここにアヘン戦争が勃発する。

 アヘン戦争に勝つことで、アヘンの輸出を認めさせ、さらに莫大な賠償金をむしりとる。

 清は外的ばかりではなく、内側にも敵を持っていた。漢族たちだ。
 清は満州族の政権である。反発心を持つ漢族も多く、彼らは反清復明を掲げた結社を作る。
 それらとは別にキリスト教による結社も作られていた。こちらも清を打倒したいのは同じだが、明の復活ではなく理想郷を体現することが目的だった。
 ともあれ、当面の敵は清である。二種類の結社は結びつき、太平天国の乱を起こす。

 太平軍のリーダーは自称・キリスト教徒の洪秀全。自称というのは正式な洗礼を受けていなかったからだ。洪秀全は独学でキリスト教を学んだのだが、ヨーロッパの言語がわからなかったので訳書を頼りに学んでいた。当時は翻訳の出来も悪かったので、必然的にカトリックとは別の教理を持つに至る。
 キリスト教内ではいろいろな教派があるが、洪秀全の教派はカトリックから見れば異端だったろう。

 太平軍は華南で一大勢力を築くも、内紛が起こり分解してしまう。
 洪秀全は自殺。その二年後に孫文が生まれている。

 孫文は洪秀全に憧れる少年だったという。彼は西洋に追いつくには知識や技術を真似るだけではなく、基礎となる思想まで取り入れなければならないと考えた。
 思想だけではなく、政体も変える必要がある。そのために孫文は革命家となる。

 太平天国の乱のとき、清軍はものの役に立たなかった。そのため、新しい軍隊が作られた。将軍と個人的な繋がりで結ばれた、漢族の軍隊だ。
 上記の軍隊のうち、重要なのは淮軍だ。将軍は李鴻章。李鴻章は陸軍だけでなく海軍まで手にし、その軍事力を背景に朝廷で強い発言力を持つようになる。
 淮軍は国の正規軍だ。しかしその繋がりは李鴻章個人とのものであり、軍閥といってよい存在だった。

 李鴻章の海軍は日清戦争で日本軍に滅ぼされる。しかし陸軍は部下である袁世凱へと受け継がれた。
 袁世凱は権力の亡者であった。

 孫文らが革命のために武力蜂起を起こすも、鎮圧する責任のある袁世凱は皇帝を守ることよりも自分の地位を高めることに関心がある。
 皇帝は退位に追い込まれ、袁世凱が大統領となった。ここに夏王朝から続く皇帝の系譜は途絶えた。1912年のことである。

 孫文は袁世凱大統領のもとで政党を組織する。ここに政党政治がはじまったかに見えたが、袁世凱は皇帝を宣言した。
 帝政はすぐにとりやめられたが、孫文はこの政府にも愛想を尽かした。新たに国民党を作り、再びの革命を試みる。
 国民党ができた直後、共産党もまた発足している。

 民衆の間では排日感情が募っていた。日本を追い出すため、十五年にわたる戦争がはじまる。第二次世界大戦まで続く日中戦争である。
 国民党と共産党は協力して日本と戦う。終戦後は国民党と共産党の争いとなり、毛沢東率いる共産党が勝利。
 1949年、毛沢東は中華人民共和国成立を宣言した。

 私の苦手な近代史である。
 私はどの国の歴史かに関わらず、古代史が好きだ。古代史への情熱の余勢で中世くらいまでは読み進めるのだが、近代史になると一気に興味が失せる。
 近代史に興味はないが、歴史とは通史でなければならないという考えも持っている。なので無理してがんばってみるのだが、やはり理解が追いつかない。

 太平天国、孫文、毛沢東、彼らの立場と言葉を理解せずには、近代史は理解できないだろう。さらに毛沢東の先となると自分で調べる必要がある。
 苦手な近代史を知るには、もう少し詳しい資料にあたる必要がありそうだ。

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