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入門オークション:監訳者「解説」

 『入門オークション 市場をデザインする経済学』は、オークションに関する待望の入門テキストである。数式を一切用いることなく、オークション理論のエッセンスをわかりやすく説明し、さらに様々な応用例や実践例を紹介しているのが本書の大きな特徴だ。終章の「考察」を除いた残りの全8章のうち、その半分にあたる前半の4章で理論の解説を行い、後半の4章で個別の問題を分析する、というバランスの良さも特筆に値する。これに対して、「はじめに」で言及されている既存の代表的なテキストは、いずれも著者が大御所の理論経済学者であるせいか、数理的なこだわりが強過ぎるきらいがある。オークション理論の美しさや奥深さを伝える名著揃いではあるものの、高度な数学のテクニックが頻出するため、大学院生以上でないとその内容を理解することは難しいだろう。(学部生でも歯が立ちそうなのはクレンペラーくらいで、クリシュナとミルグロム踏破への道は険しい…)

 本書は、数理的な細部に深入りすることをうまく避けながら、どうやってオークション理論の考え方を用いて「最適な入札戦略を導くか」「制度設計に役立てるか」「環境の異なる個別の問題に応用するか」、などの問いに答えていくかという実践的な視点で書かれている。そのため、類書でしばしば必要とされる確率論やゲーム理論などの前提知識がなくても、読者は自然にオークション分析の勘所を掴むことができる。まさに、今までオークション分野が待ち望んでいた、新しいタイプの実践的な入門テキストと言えるだろう。これは、著者たちが理論家ではなく、実証・データ系の経済学者だからこそ成せた業かもしれない。紹介が遅くなってしまったが、ティモシー・ハバードは構造モデルを用いたオークション実証研究の論文を量産する若手の応用ミクロ経済学者、ハリー・パーシュはオークションを含む様々な分野における実証研究、統計手法の開拓に貢献した大御所の計量経済学者である。パーシュが、気鋭の理論計量経済学者であるハン・ホン(現在、米スタンフォード大学教授)と共著で2006年に刊行した『An Introduction to the Structural Econometrics of Auction Data』は、オークション実証研究者たち必携の専門書となっていることも付言しておきたい。

 さて、我々の社会におけるオークション利用の広がりや、オークション分析の重要性については、本文や山形浩生氏による「訳者あとがき」で詳しく述べられている。この「解説」では、やや俯瞰的・理論的な視点から、経済学という学問の中におけるオークション研究の意義や面白さについて見ていくことにしよう。これによって、一見すると地味な印象に映る(かもしれない)オークションというトピックが、なぜ経済学において大きな注目を集め、精力的に研究されてきたのか、という秘密を明らかにしたい。第1章で言及されているように、すでに5名もの経済学者が、オークションに関連する研究成果によってノーベル賞を受賞している。この背景にある大局観を少しでもお伝えすることができれば幸いである。

 まず皆さんに質問を出すので、少しだけ時間をとって考えて頂きたい。経済学の「代表的な分析手法」と言えば、いったい何を思い浮かべるだろうか? ご存知のように、経済学には様々な考え方や仮説、法則などが登場する。その中から、分析ツールとしてよく使われるものが何かを考えてもらいたい、という趣旨だ。複数の候補が閃いた場合は、最も代表的だと思うものをひとつだけ選んで欲しい。さあ、答えは決まっただろうか。

 おそらく、多くの方が「需要と供給による分析」あるいは「(完全競争)市場の分析」を挙げたのではないだろうか。これは、市場で取引される商品の価格と数量が「需要曲線と供給曲線の交点によって決まる」という、おなじみの考え方である。経済学を本格的に勉強したことがなくても、需要と供給のバッテンが描かれたグラフを、一度くらいは見たことがあるかもしれない。この経済学の代名詞とも言うべき「需要と供給による分析」は、単純かつ非常に強力な分析ツールであるものの、次のようなやや非現実的な仮定にもとづいている。

1. 個々の買い手や売り手は価格をコントロールすることができない。
2. 与えられた価格(だけ)をもとに、最適な数量を需要・供給する。
3. 市場価格は、需要と供給が一致する水準に自動的に調整される。

 仮定1は「価格受容者(プライステイカー)の仮定」とも言われる。自分一人がどれだけ商品を需要・供給しても市場価格には一切影響を与えない、与えることができない、という想定だ。逆に言うと、各参加者はあらかじめ与えられた市場価格のもとで、買いたいだけ・売りたいだけ自由に取引を行うことができるのである(仮定2)。蛇足ではあるが、起こり得るありとあらゆる価格のもとで、買い手(/売り手)の需要量(/供給量)を足し合わせ、その動きを図示したものが需要曲線(/供給曲線)に他ならない。では、分析の鍵を握る市場価格がどうやって決まるのかというと、それは仮定3の「見えざる手」によって天下り的に決定される、というのがここでの世界観になっている。いかがだろうか? どこか、狐につままれた気分になりはしないだろうか。

 「需要と供給による分析」は、別名「価格理論」と呼ばれるにも関わらず、その分析を支える柱である市場価格は、実はブラックボックスの中で決まっているのである。どのようなカラクリで需要と供給が一致するのか、という肝心要のメカニズムは何も示されていない。言うまでもないことではあるが、「見えざる手」というのは分析を単純にするためのフィクションであり、現実には誰かが価格を調整しているはずだ。このブラックボックスを開いて、商品の価格と取引量がどのように決定されるのかを解明することが、経済学にとっていかに重要な課題であるか、ご想像頂けるのではないだろうか。そして、勘の鋭い読者の方はお気付きなように、このブラックボックスをこじ開け、価格決定の具体的なメカニズムを様々な形で明らかにしてきた分野こそ、オークション理論なのである

 ここまでは、オークションを理解することが、「価格がどのように決まるのか」という経済学における大問題といかに密接に繋がっているかをご紹介してきた。しかし、言うは易く行うは難しで、上述の仮定1~3を取り除いてオークションへと視点を移すと、分析が一気に複雑になってしまうのも事実である。再び仮定2に注目して欲しい。

2.[再掲]与えられた価格(だけ)をもとに、最適な数量を需要・供給する。

これは「需要と供給の分析」において、各参加者が他の参加者の動向をまったく気にせずに、自分にとって最適な意思決定だけを行えばよいことを意味する。しかし、ひとたび「価格受容者」と「見えざる手」の仮定を捨て去ると、次に挙げるような、本質的に新しい2つのやっかいな要因を考慮せざるを得なくなってくる。

A. 最適な入札行動が、他の参加者たちの行動によって影響を受ける。
B. 各参加者の行動を左右する商品への支払い意欲を本人しか知らない。

 要因Aの状況は、戦略的な依存関係や戦略的状況と呼ばれ、「ゲーム理論」によって専門的に分析されている。Bで述べた自分しか知らない情報の事を私的情報と言い、この私的情報を持つ参加者たちの行動を分析する分野は、「情報の経済学」や「契約理論」と呼ばれる。見えざる手というフィクションに支えられた「価格理論」の世界を離れて、より複雑で現実的な市場へと目を向けた途端に、「ゲーム理論」や「契約理論」を用いることが避けられなくなるのだ。このような経緯のもとで、価格理論が円熟期を迎えた1960~70年代以降から、理論経済学の研究の中心はゲーム理論や契約理論にシフトしていった。現代のミクロ経済学において、価格理論、ゲーム理論、契約理論の3つの分析手法が、しばしば「三本の柱」と形容されるのには、こうした背景があるのである。

 ところで、ゲーム理論の基本モデルでは、各参加者の嗜好をはじめとしたゲーム構造はお互いに知り尽くされている(「共有知識」と言う)と仮定され、私的情報が存在しない状況がもっぱら分析される。また、契約理論の標準モデルである「プリンパル・エージェント」モデルでは、契約を受けるエージェント側の戦略が単純化され、契約を提示するプリンシパル側だけの最適化問題とみなせるように工夫されているため、戦略的な状況は発生しない。上述した要因AとBはそれぞれ扱いが難しいため、2つのうちどちらか片方だけの分析に特化する形で両理論は発展してきた、とも言えるだろう。しかし、オークションを満足いく形で分析するためには、2つの要因を同時に考慮に入れる必要がある。なぜなら、「入札者どうしの戦略的な状況」と「商品価値が私的情報であること」は、オークションを特徴付ける二大要素で、どちらが欠けても問題の本質を理解することができないからだ。必然的に、オークションの分析にはゲーム理論と契約理論のハイブリッドで立ち向かわなければならない(そのための武器が、第2章で詳しく解説される「ベイズ・ナッシュ均衡」である)。1980年代以降、オークション理論は理論経済学において最もホットでチャレンジングな分野の1つ、いわば理論経済学のフロンティアだったのである。

 以上、本書のテーマであるオークションが、経済学研究の中でどのような位置づけにあるのかを、専門的な視点を踏まえながら紹介させて頂いた。ざっくりと要約すると、伝統的な経済学が扱ってきた理想的な市場(仮定1~3が成り立つ「完全競争市場」)を離れて、具体的な「価格決定の仕組みを解明したい」という現実面からの要請と、そこで用いられている手法とは根本的に異なる「最先端の経済理論を発展させたい」という学術的な動機が相まって、オークション理論は発展を遂げてきた。直近では、周波数帯免許の入札や、オンライン広告オークションなど、官民それぞれにおいて「使えるオークションをデザインしたい」という、制度設計からのモチベーションがオークション研究をけん引している印象が強い。原著には無かった副題をあえて付け、「市場をデザインする経済学」としたのは、こうした近年の研究動向を反映したものである。

 最後に、監訳者として、本書の翻訳作業を引き受けてくださった山形浩生氏と、編集作業でお世話になったNTT出版の柴俊一氏に感謝したい。お二人のお陰で、エキサイティングな分野であるにも関わらず、今までなかなか一般の人が手を伸ばせる良書に恵まれてこなかったオークションの分野に、待望の入門テキストが完成した。山形氏による、堅苦しさを感じさせない読みやすい日本語で訳出された本書を手に、ぜひ一人でも多くの方にオークションの世界に足を踏み入れて頂きたい。

安田洋祐(大阪大学大学院経済学研究科 准教授)

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