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『或る集落の●』「べらの社」試し読み③

【三】

「お姉ちゃん、お昼ご飯の時間だよ」

 物置の戸をしっかりと後ろ手に閉めると、私は床に敷かれた布団の上で大の字になっている姉に声をかけた。
 姉の左足首は伯父の家にあった背負子(しょいこ)から外した革ベルトで、物置の柱に繋がれている。
 傷にならないようにガーゼを巻いてその上から締めてあるが、そろそろ足を交換した方がいいだろう。右足首についたベルトの痣は、もう大分薄くなっていた。

 姉を壁にもたせかけるようにして座らせると、皿の上のイカの刺身を口に運んでやる。
 べらの社にお参りをするようになってから、姉は火を通したものを食べなくなったのだそうだ。ほとんど噛まずに二杯分のイカ刺しを腹に収めると、姉は再び布団の上に寝転んでしまった。

「もう少しだけ我慢してね。ちゃんと家に帰れるようにするから」
 聞こえているのかいないのか、姉は仰向けに寝たまま、何もないところを見つめている。
 私は空いた皿の載ったお盆を脇へ置くと、姉の隣に腰を下ろして縛られた足首をさすってやった。

 べらの社から姉を連れ帰ったあの日から、ちょうど一週間が過ぎようとしていた。
 放心している姉の手を引いて家に戻り、姉が人の死を予告するようなことを言ったと話すと、伯父は厳しい表情で姉が具体的に何を言ったのか、詳細を知りたがった。
 そして「はあ、お山さ行がせらいね」と、姉の部屋の戸に外からつっかえ棒をした。
 翌日、社へ行くと暴れた姉が襖を破ったことで拘禁場所は物置に移され、足枷までもが取りつけられたが、姉の抵抗は三日目までは続かず、今ではこうして大人しく食事をしては横になって過ごしている。
 伯父も時折様子を見にきていたが、三日前に亡くなった子供の通夜に出てからというもの、あまりここへは寄りつかなくなった。

「んん」
 姉が不快そうに身を捩(よじ)った。
 寝巻きの胸の辺りがじっとりと濡れている。
 お盆の上のおしぼりを取ると、寝巻きの中に差し入れて拭いてやった。甘ったるい匂いが鼻につく。
「おっぱい、気持ち悪いね。あとで着替え持ってくるよ」

 社に行くことを禁じられてから、姉は断続的に母乳を出すようになった。
 もちろん妊娠などしていなかったし、なぜそうなったのかは分からない。
 ホルモンのバランスが崩れると子供を生んでいなくても母乳が出ることがあると以前どこかで聞いたが、この状況で産婦人科を受診させるわけにもいかず、心配ではあったが、手ぬぐいを当てたり着替えさせてやる以外、放っておくしかなかった。
 赤くなった左目も、まだ治ってはいなかった。

「――ありがとう。ごめんね」
 
 はっとして、姉の顔を見る。
 姉は悲しそうに目を伏せたまま、ゆっくりと半身を起こした。
 何日かに一度、不意に以前の姉に戻ることがあると伯父から聞いていた。
 ほつれた髪を耳にかけながら、首を傾げて上目遣いに私を見つめる。
 ぱちぱちと細かな瞬きをした。姉の癖だった。

「せっかく遊びに来てくれたのに、体の調子が悪くて。伯父さんにも迷惑かけっぱなしで申し訳ないわ」
 姉は困ったような顔で微笑んでいる。
 胸が詰まり、鼻の奥が熱くなった。
 優しくてきれいな、私のお姉ちゃんが、そこにいた。

「大学の方はどうなの。妹が東京の美大に入ったって近所の人に教えたら、みんな凄いってびっくりしてたよ。絵が上手いのはお母さんに似たのかな。小さい頃に、よく描いてもらったじゃない」
 薄暗い物置の中に、穏やかな澄んだ声が響く。
 私は泣きそうになるのを堪え、笑顔を作って頷いた。
 二人で暮らしていた頃に戻ったような、とりとめのない話が続く。
 東京は暑いよ。
 ここだって盆地だから結構暑いのよ。
 何か新しい料理教えて。同じのばかり食べてて飽きちゃった。
 だったらあれがいいかな。簡単で美味しいの。
「それでね、あ――」
 
 不意に、姉が何かに気づいたように下を向いた。視線を追うと、敷き布団のカバーに、鮮やかな赤い染みがついていた。
 姉はうろたえた様子で、掛け布団をずらすと染みを隠そうとした。
「始まっちゃったの。私、持ってきてるから、待ってて」
 気にさせないように、なるべく明るい調子で言う。そうして立ち上がろうとした私の手首を、姉が掴んだ。

「見てよ」

 中腰になると、空いている手で寝巻きをまくり上げる。
 経血とは思えない量の血が、下着を汚し、太ももを伝っていた。

「伯父さんに犯されたせいよ。小さな頃からずっといたずらされていたの。いつも私を膝に乗せて、お尻にあれを押しつけてきたわ。お母さんは知っていて、この家に私を預けたのよ」
 
 喉の中で犬が唸るような低い音を鳴らしながら、姉がささやいた。 
 用意された文を棒読みしているような、抑揚のない言い方で。
 あの日、社で聞いたのと同じひび割れた声だった。
 赤い目がじっと私を捉えている。

「ねえ助けて。ここから私を連れ出してちょうだい」

 姉が背中に腕を回し、抱きついてくる。人間離れした強い力で締めつけられ、肺が潰されて息ができなかった。
 胸元にべとべとした生ぬるいものが流れ落ちたが、それが母乳か唾液かは分からなかった。
 
 背後でがたんと音がして、物置の中に光が差した。
 体が横に振られる衝撃のあと、やっと息が自由になる。
 ふらつきながら見回すと、伯父が姉を組み敷いていた。布団に顔を押しつけられた格好の姉が何かを喚き続けている。
「姉っちゃでねえ。聞ぐな」
 
 振り返ってそう言った伯父が、目の前から消えた。
 直後、轟音がして物置が揺れる。
 反対側の壁に叩きつけられ、床に転がった伯父は、大きく口を開けて苦しげに喘いでいた。叫ぼうとしたが喉が詰まり、声にならなかった。

「べら様がおっしゃるごどには」

 姉の腕がゆっくりと上がっていく。
 人差し指の先は、開け放たれた戸口の方を指していた。

「あの家の嫁は、裂いて死ぬぞ」
 
 すう、と、姉の腕が横に流れる。
 声を出せない伯父の口が、やめろ、と動いた。

「お前(め)は、縊(くび)って死ぬぞ」
 
 姉の白い指は、真っ直ぐに私の顔に向いていた。

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