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『或る集落の●』「べらの社」試し読み④

【四】

 口寄せめいた言葉のあと呆けたように座り込んでしまった姉を放り置いて、私は伯父を助け起こした。
 逃げるように物置の外に出て、外からダイヤル式の大きな南京錠をしっかり掛ける。
 伯父は腰をさすりながらも、自分の足で歩いた。幸い、大きな怪我はなさそうだった。

「佐藤さんさ、知らせねば」
 伯父は母屋へ戻ると、青ざめた顔でどこかに電話をかけ、車で出かけていった。
 取り残された私に、伯母が風呂に入るよう勧めてくれた。
 髪と体を丁寧に洗い、熱いお湯に顎まで沈んで目を閉じる。少し泣いたら、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。
 
 とにかく分かる範囲でいいから、状況を把握しよう。
 そうして、今できることをしようと思った。
 動いていなければ、暗くて深いところに落ちてしまいそうな、そんな恐れに似た焦燥があった。
 
 私は風呂から出ると、まずは大学の友人に電話をかけた。
 伯父から聞いていた地元の郷土史家の名前を伝え、どんな人物か調べて欲しいと頼む。
 姉がべらの社にお参りを始めたのは、その男と話をしたことがきっかけだったのだ。
 姉に何が起きているのか、手がかりとなることを知っているかもしれない。
 友人は「その村ってインターネット繋がらないの」と驚いていたが、快く応じてくれた。
 
 ほどなく友人から折り返し電話がきて、郷土史家の連絡先と著書のタイトルを教えてもらう。郷土史家の男が過去に一冊だけ自費出版で出した本は『青森県にキリストの墓は存在した』というものだった。

「キリストの墓が青森にあるって話、ちょっと調べてみたけど、根拠になっている文書が捏造されたものらしくて、一般的には偽史として扱われているみたい。そうそう、キリストの弟の《いすきり》の墓もあるらしいよ。もし行くなら写真撮ってきてよ」
 友人はおかしそうに言って電話を切った。
 
 夕方、暗くなる前に、物置へ向かう。
 番号を合わせて鍵を外し、そろそろと戸を開けると、姉は布団の上に仰向けになって目を閉じていた。
 何かあった時のために伯母に外に立っていてもらい、姉の寝巻きを着替えさせる。体を拭いて下着も換えた。
 
 黒く長い髪を梳いて、青白い冷ややかな頬に触れる。
 以前と変わらない姉の寝顔を見ていると、これまでのことが悪い夢のように思えた。
 日常を取り戻したいと、強く願った。
 
 伯父は夕食の時間になっても帰ってこなかった。
 伯母に聞いたところ、伯父が訪ねた佐藤という人は例の庄屋屋敷の所有者、元々P集落の地主であった人物らしい。もしかしたら、帰りは明日になるかもしれない、とのことだった。

「姉っちゃは《めはしぇは》さなってまったんだが」

 食器を片づけようとした時、伯母がテーブルの上に視線を落としたままそう呟いた。
 耳慣れない言葉だった。

「《めはしぇは》って、何のこと」
 私の問いかけに、伯母は身を震わせるように激しく首を振った。

「知らね。覚えではならねもんだ。佐藤さんどごの娘も、それで村ば出でったんだ」
 伯母は詳しくは語らなかったが、あの地主の家に昔、姉と同じようになった娘がいたということだけ教えてくれた。
 伯父はこの事態を相談するために、市内に暮らす地主のところへ向かったのだろう。
 
 姉を元通りにすることはできるのか。
 そして何より、姉が告げた禍々しい死の予見は、私に向けられたあの言葉は、現実となるのだろうか。
 その夜はそうした重苦しい不安に苛まれながらも、疲労のためか、いつしか水に溶けるようにすうっと眠りに落ちた。
 
 翌朝、早い時間に玄関の戸を叩く音がした。
 伯父が帰ったのだと思いガラス戸を開けると、そこには仕立ての良さそうな背広を着た、見慣れぬ壮年の男が立っていた。

「《めはしぇは》が出たと聞いてまいりました」
 きれいな標準語で男は言った。
 野良仕事などしたことがなさそうなふっくらとした手には、つやつや光る琥珀(こはく)の数珠がかけられていた。

「見せていただきたいのです」と、男は玄関に入り込み、靴を脱ごうとする。
 口調は丁寧だが、どこか切羽詰まった雰囲気があった。
 細かな皺の刻まれた顔を紅潮させ、血走った目をぎょろぎょろ動かしている。
 困惑していると奥から出てきた伯母が「伺っております。どうぞ」と、あっさり庭の物置へ男を案内した。
 一人戻ってきた伯母は、今後、姉の世話は自分がするから、物置へは決して近づかないようにと、厳しい顔で言いつけた。

 小一時間が過ぎ、背広の男が帰っていったのと入れ違いに、伯父が戻ってきた。
 眠っていないのか目の下が黒ずんでおり、憔悴した顔でこちらを見ただけで、仏間へ閉じこもってしまった。
 伯母と何ごとか話し合っているようだったが、声をかけることは憚(はばか)られた。襖の向こうから「頭(あだま)生(は)えだのが」と問う伯父の緊迫した声が聞こえ、意味は分からなかったが背中が粟立った。

 私は伯父と伯母の目のない隙に、友人に調べてもらった郷土史家の男の家へ電話をかけてみた。男は、P集落のべらの社について姉に話したことを聞きたいと伝えると快く、妙に甲高い早口で語ってくれた。
「僕の本を読んでくれたなら分かるでしょうが、青森にはヘブライの宗教文化が伝わっておるのです。P集落の社もね、絶対にそれだと思ったのですよ。あの山はピラミッドのような円錐形をしておるし、日本語で《べら》なんて聞かないでしょう。ヘブライ語の似た言葉を調べてみて分かりました。《べら》は《べりある》が訛ったものなのです。このことに気づいたのは世界でも僕だけですよ。だからお姉さんに忠告したんだ。あの社には、決して誘惑に負けない強い意志を持った者しか、立ち入ってはならないと。しかし彼女は妹とまた一緒に暮らすために、社へ行かなければならないんだと言って聞かなかった」

 興奮気味に説明されても意味が分からず、口を挟んだ。
「《べりある》って何のことでしょう。それと《めはしぇは》という言葉を、ご存知ないでしょうか」
「《べりある》は悪魔の名前に決まっているじゃないですか。あの社は悪魔を祀っておるのですよ。《めはしぇは》は《めはしぇふぁ》でしょうね。ヘブライ語で魔女を指します」
 男はなぜか楽しげな声音で、きっぱりと言い切った。

 悪魔信仰の歴史について語ろうとする男を遮って、私はもう二つだけ質問をする。
 魔女は人の死を言い当てるのか。
 だとすれば、それを回避する方法はあるのか。
 男の答えは、意外なものだった。

「魔女に予言の力などない。それは神と神に仕える者の力です。あいつらにできるのはせいぜい嘘をついて人を惑わせたり、呪いをかけることくらいなのです。気にしなければいい。呪いは単なる暗示ですからね。どうしても不安であれば、呪いをかけた魔女を殺してしまうことです」
 
 受話器から聞こえる男の声が、ばりばりという激しい音でかき消された。
 空から降ってきたその音はドクターヘリのプロペラ音で、その日の午後になって聞いたところによれば、用水路で溺れ死んだ子供の母親が刺身包丁で喉を切り裂いて台所に倒れているのを家族が見つけ、通報したとのことだった。


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