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ルールの意味は目に見えない

ルールについて考えている。そのせいか、毎日のようにルールをめぐって問題が発生している気がする。問題が毎日起こると、落ち着いて考えていられない。

誰のためのルール?

たとえば高校野球をめぐっては、投手の球数の問題がある。そこにルールがないからこそ、高校生は200球でも300球でも1試合で投げてしまうことができる。あんまり投げすぎるとその選手がプロに行ったときにヒジを壊しやすいのだが、ルールをつくると目の前の試合に勝てない。目の前の試合だけを見る人と、プロまで見据えて考える人とで意見が割れる。

前に書いたか忘れたけど、意見が割れたとき、「それぞれの正義が対立する」という人がいる。どういう正義の概念を持っているのかわからないけど、ぼくは正義は対立しないものだと思っている。対立しているように見えるのは、目指す目的が違うからだ。目指す意味が異なるときだ。

ルールの意味と形式

ルールには意味と形式がある。言語学の研究者が書いた本に「言語には意味と形式がある」と書いてあったので、ルールにもそれを応用したい。言語の場合、なんかしらの意味を伝えたくて、その想いを言葉にする。たとえばあまりにも不条理なことが起きたときに「私は、貝に、なりたい」と口にする。このとき文法が間違っていて「貝は、私に、なりたい」と言っても、不条理だなぁという想い(=意味)は伝わらない。
で、ルールにも意味と形式があると考えるとなんとなく筋が良さそうに思う。

ルールには、それがルールになる前にあった想い(=意味)と、それを実現するための「こうすべし」(=形式)がある。地球環境を守ろう!という意味があって、ルールは「ゴミは分別して出すこと」という形式を持つ。

そして、ルールを守ること、には意味を守るレベルと形式を守るレベルがある。
地球環境を守ることにフォーカスした人は、ゴミの分別のルールが守られた先のことまで考える。分別したゴミはきちんとリサイクルされているのだろうか?リサイクルすることで本当に地球環境は守られているのだろうか?と。
しかしルールの形式、ここでは「ゴミは分別して出すこと」だけにフォーカスする人は、分別して出すことにこだわる。それが意味とうまく連携できた形式ならそれでOKなのだが、実はリサイクル業者がゴミを海に廃棄していました、という事実を知ったとしても、形式だけにこだわる人は、その後も形式を守りつづける。形式を変えるには、意味を考えなきゃいけない。でも形式だけにこだわってきた人は、意味を考えて、次の意味を作り出すことができない。

意味を考えることは本当に面倒くさい。
高校野球のルールは、高校野球が盛り上がるためにあるのだろうか。客が喜ぶためにあるのだろうか。選手のため?高校生みんなのため?
いま分別しているゴミが、その先にどうなっているかなんて、気にしはじめたら面倒くさいし、それがぼくの稼ぎにつながるわけではない…と考えると「あとよろしく!」と言って仕事に戻りたくなる。

ルールの意味は目に見えない

ルールには意味と形式がある。
でもルールの意味は目に見えない。目に見えるのは形式だけだ。言葉が言葉になってはじめて目に見えるように。言ってくれなきゃ、あなたの気持ちわからないよ!というヤツ。意味は誰かが掘り下げて考えなきゃいけないことだ。掘り下げて考えた結果、その意味を体現するのが、形式なのだから。
形式だけ知って、形式的にそれを守ったとして、それが意味につながっていなければ、うーん、なんの意味もない。意味がないだけではなく、気持ちのない言葉を発するロボットと同じ。制御不能のロボットである。

やってる感じ

なんの意味もないことでも、形式を守っていると、やってる感じはある。

そして形式を守ることは、それ自体がパフォーマンスなのだ。意味を守ること以上に、パフォーマンスとして外から良く見える。優等生がまじめに宿題をやってくる、先生の言うことを聞く。そうやって優等生はかわいがられ、別のチャンスを得る。やってる感じの力は偉大だ。不良は形式をやぶり、それがパフォーマンスとして不良界隈から評価される。強さの証。

形骸化を逃れる術は

意味を問い直す。それが形式を守って生まれるパフォーマンスよりも重要なことだ。そして、パフォーマンスに惑わされないことも重要だ。

でも意味を問い直そうとして「それ、意味あるんですか?」と聞くだけの人にも意味はない。ソファに横になってポテトチップスを食べながら意味を問い直さない。居直りとは、カウチでポテチを食べながら批判することである。

ルールの意味を問い直すには、客ではなく当事者のことを知らないといけない。高校野球なら、投手になること。投手になれなきゃ、投手としての人生を想像すること。10年先、20年先まで。環境問題なら、ゴミを追跡すること。そのゴミがどんなふうにリサイクルされているか。リサイクルに何の意味があるのか。

意味を知らずに守るルールに、うーん、意味はない。それだけは確かなのだが、ルールの形式は確固たるものとして存在する。意味は目に見える形で存在しないので、すぐに見えなくなってしまう。
観客は野球選手の未来も考えず、地球環境の未来も考えない。選手の肘の痛みも知らず、勝利のための投球とケガする人生のどちらを選ぶかという葛藤を考えない。リサイクルがいかに面倒くさく、問題だらけのことかを考えない。

観客席から降りてみる。投手の一生を想像する。聞いてみる。そういうことが意味を問い直す第1歩かなぁといまは思っている。

明日はどうかわからない。とにかく今回も結論としては、みんな良く寝たほうが良い、ということだ。もし毎日イライラしてるなら特に。

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